宗教の概念と無宗教|第15回宗教マイノリティ理解増進勉強会【上】
主の羊クリスチャン教会の中川晴久牧師や家庭連合の信徒ら10人が参加し、2025年1月18日に「第15回宗教マイノリティ理解増進勉強会」を行いました。
今回は「宗教」の概念やイメージについての発表後、参加者間で意見交換を行いました。以下は私の発表内容の要旨です。
日本における「宗教」とは
「宗教」の概念
「宗教」の意味について調べる中で、神学博士の小原克博さんのオフィシャルサイト「小原克博On-Line」にある論文「『宗教』概念の形成――近代から見える現代の課題」が分かりやすいなと思い、この論文を参考に「宗教」の概念についてまとめてみました。
「宗教」は、「religion」の訳語として明治時代に造られた新しい言葉で、いわゆる西洋の宗教「キリスト教」を基準として使われるようになった言葉です。
そのため、宗教とは「高度な文明と結びついた高等宗教のみが宗教の名に値するという考え」が強く、「神道や儒教や民俗宗教が『宗教』の外に置かれる」傾向にありました。
当時の明治政府は西洋文明による近代化を目指す一方で、キリスト教への警戒感がありました。それで「西洋の文明化はキリスト教によるのではなく、ギリシャ、ローマの文明に基づいている」「キリスト教のような『宗教』なしに国家の近代化・文明化は可能である」との考えで近代国家の建設を進めるようになったというのです。
宗教に対する警戒感
この時代から既に「脅威としての『宗教』あるいは脅威としての『キリスト教』『一神教』といったイメージ」の原型があり、それが今に至る「宗教」への警戒心に繋がっているとのことです。
教育勅語への拝礼拒否をした 「内村鑑三不敬事件」(1891年)を契機として始まった論争は「教育と宗教の衝突」論争となり、「国民道徳とキリスト教の衝突」となりました。
当時は、「教育勅語が国家主義イデオロギーの『聖典』」のような役割をし、「教育勅語に代表される国民道徳は『宗教』をも超越・包括する最上位の秩序原理」とされていました。つまり教育勅語がキリスト教に代わる宗教、またはイデオロギーになったと言えます。
そういう歴史の中で、国家神道を強制されたという「宗教への嫌悪感」と、西洋キリスト教の脅威を原型とした「宗教への警戒感」が生じるようになったと言えます。宗教の概念をポジティブに変えていくには、そうした嫌悪感や警戒感を解いていくことが必要かもしれません。
無宗教が日本の宗教
次に宗教学者の島田裕巳さんの著書『無宗教こそ日本人の宗教である』を参考に「宗教」という言葉のイメージを考えてみます。
「宗教」のイメージ
日本人が「宗教」と聞くと、「キリスト教、イスラム教、新宗教」などで「宗教活動する信者」をイメージするのが一般的で、宗教について聞くと70%ぐらいは「無宗教」と答えるとされています。
「無宗教」とは言っても、宗教と無縁というわけではありません。初詣に行ったり、お盆、お彼岸、先祖供養、キリスト教式結婚式、仏教式の葬式など宗教的行事を行っています。
しかし、日本人はこれらを宗教儀式ではなく、習俗・文化という認識でいます
特定の教団に属していないのが無宗教
一般的に日本人が「無宗教」というのは「特定の教団に属していない」という意味で使うと言えます。
日本人の生活をみると、実は宗教的な生活をしています。
例えば、成田山新勝寺の年間参拝者数は1,000万人ですが、イスラム教の聖地メッカの年間巡礼者数は、島田さんのこの本によれば500万人というわけです。私も数字を知って驚きましたが、成田山新勝寺への参拝者数はメッカの巡礼者数の倍になるんですね。外国人から見れば日本は凄く宗教熱心な国に見えると言うことです。
明治以降、「宗教」という言葉が使われるようになり、西洋の影響で、「一人の人が持つ信仰の対象は一つの宗教」という概念になりました。
「信じる宗教は一つで、神仏習合のように、神道も仏教信じるのはおかしい」と考えられるようになりました。
それで明治初期に「神仏分離令」とか「廃仏毀釈」を行ったけど、うまくいきませんでした。
その後は「教育勅語」を国民道徳として、宗教のはずである「国家神道」を持ちながらもクリスチャンであったり、仏教徒とであったりしても構わないとなりました。当時の信教の自由はそういう形だったわけですね。
でも戦後は神道も一つの宗教となり、新宗教も拡大をしていきました。
そうした歴史的経緯から、特定の宗教団体に加入していない人を日本人は「無宗教」と思うようになったというのです。
日本人は一神教
日本人は宗教としては「多神教」だと言われますが、島田さんは「日本人の信仰の実態は一神教に近い」と言っています。それは日本人は拝殿で祈る際に「特定の神を対象にしていない」「 名前のない神一般に祈っている」のであり、その姿勢は教会で祈るクリスチャンやモスクで祈るモスリムと変わらない、というのです。
「 多神教は数多くの神を同時に信仰するが、日本はそうではない」と。 伊勢神道や唯一神道は宇宙の根源的神があり、神々の体系化が図られ、「一神教的性格がある」「 多くの神々がいても、特定の主軸の神がある一神教に近いと言える」ということです。
日本人は戦前の国家神道、戦後の新宗教の熱心な布教活動による葛藤などの経験から「 宗教は個人を縛り、自由を束縛する」と思うようになったというのです。
また、中東戦争や米国での同時多発テロ事件などから宗教は対立や抗争を生み出すというイメージも強くなりました。
ただ島田さんが言うには、宗教的対立に見えるものも実は「教義の違いで対立するのではない」と。例えば、十字軍は聖地を巡る対立であったように、教義的な問題より、利害の対立、経済的な問題が大きく、それに宗教が絡むとより難しい事態になるということです。
「無宗教」という「宗教」
1日5回お祈りし断食月があり、それを守っているイスラムの人を日本人が見ると、とても宗教的で敬虔に見えます。
一方で日本人が、お盆に先祖を供養して、お墓参りをし初詣に出かけている姿を外国人が見れば、敬虔な宗教者に見えるでしょう。日本人は習俗、慣習と考えていても、外国人が見れば宗教行為です。
特にイスラム教が主流の国では信者になる宗教的儀式はありません。キリスト教はクリスチャンになる洗礼という儀式がありますが、イスラムにはそういうがありません。日本も同じで日本の習俗を行う人になるための宗教的儀式ありません。
だから、イスラムも日本人も、外から見るか内側から見るだけの違いで、「イスラム教」と「日本の無宗教」はとても似ているというのです。
それで、日本人の無宗教も一つの宗教だ考えればいいじゃないかと。宗教という言葉が適切かどうかは別として、宗教行為に値する習俗を持つ人々と。
そういう国の中における宗教という位置付けで考えると「宗教マイノリティ」についても分かりやすいのかなと、調べていく中で感じました。
※ 次回はこの発表後の意見交換です。