「キリスト教が世に果たしている役割」をテーマに講話|諸宗教との協力を推進
キリスト教牧師、仏教住職、神道宮司など、様々な宗教者が参加して、宗教間の相互理解を深める「宗教塾」が、2024年3月に開催されました。
「キリスト教が世に果たしている役割」をテーマに、日本バプテスト連盟の黒瀬博牧師が講話をし、司会は、共催者として私が務めさせて頂きました。
以下、黒瀬牧師の講話と質疑応答の内容をまとめました。
キリスト教が世に果たしている役割
キリスト教の2000年の歴史は、単に一つの宗教の歴史ではなく、世界に影響を与えてきた歴史を持っています。従って、キリスト教の歴史を知ることは世界の歴史を知ることにもなり、その知識は他の宗教の方にとっても有益で参考になるのではないか、と考えています。
歴史に大きな影響を与えたキリスト教
キリスト教が歴史に大きな影響を与えてきたことは事実ですが、その一部に悪いところもあったとの批判もあります。しかし良いことがあったのは事実だと思っています。
当たり前のことですが、やはり良いところがないと世界に広がらないですね。キリスト教が世界に広まった結果、現在のこの世界が出来上がっているのであり、もしキリスト教ではなく、他の宗教が世界に広まっていたとしたら、今の世界とは全く違う世界が出来上がっていたのではないでしょうか。
現在、キリスト教は世界人口の約30パーセントを占めており、次はイスラム教で20パーセントぐらいです。イスラム教は子供をたくさん作るご家庭が多いので、やがてイスラム教の人口がキリスト教を抜くであろうと予想されておりますが、キリスト教が今まで世界最大の宗教であったということは事実であります。
キリスト教国の経済的繁栄
重要な点の一つに、近代国家において経済的に繁栄している国はキリスト教(プロテスタント)の国であるということです。
どうしてキリスト教国が豊かになっているのか。その原因については諸説ありますが、有名なのは(ドイツの社会学者)マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(プロテスタントの経済倫理が近代資本主義に貢献したという論考)というのがあります。
現在、このウェーバーの説が全面的に承認されているわけではありませんが、プロテスタント諸国が繁栄しているのは事実です。
それから、キリスト教には色々な立場の人がいますので、私のこれから言うことは、公式見解ではなく、そういう見解もある、ということで聞いていただければと思います。
「イエスの教え」と「パウロの教え」
キリスト教は、イエス・キリストによって始められたのですが、厳密に言うと、そう簡単ではありません。
キリスト教の始まりには複雑な事情があり、どうしてキリスト教が発生したかということは実はよく分かっていないのです。
それが分かりやすい一つは、キリスト教の教典、『新約聖書』がギリシャ語で書かれているということです。
イエス・キリストはユダヤ人であり、ヘブル語かアラム語を話していたと考えられていますので、キリスト教の教典はヘブル語がアラム語でできるべきですよね。
しかし『新約聖書』は、イエス・キリストご自身が書いたのではなく、弟子たちが語り伝えたイエスの言葉が残されていて、それらがギリシャ世界に広まった後にまとめられたのです。
ですから、キリスト教の中心的な教えは、実は「イエスの教え」というよりはギリシャ語を使う「ヘレニスト(ギリシャ系ユダヤ人)と言われる人々の教え」が中心になっており、そのヘレニストのクリスチャンの代表がパウロです。
『パウロの手紙』が新約聖書の半分ほどを占めていますし、残りもパウロの影響を受けた人々が書いたと思われる文書が結構残っており、『新約聖書』の大半はパウロの影響下にある人々が書いたということになります。
ですから、『新約聖書』を学んでいると、「パウロの教えがキリスト教だ」となってしまうわけで、そういう現実はキリスト教徒自身も知っているし、学者のレベルではよく知られていることです。
「キリスト教を作ったのはイエスではなくてパウロだ」と言う人もいます。その説は厳密には間違いですけど、そう言いたくなる気持ちは分かります。
では、イエスの教えは否定されているのかというと、そうではありません。パウロの教えが、確かに新約聖書で基本とせざるを得ないですが、イエスの教えも書かれており、このイエスの教えが大きな枠としてパウロの教えを抑え込むような構造になっているのです。
パウロの教えもあるしイエスの教えもある。両者が書かれていますから、キリスト教という枠内でパウロの教えとイエスの教えが火花を散らしているというのがキリスト教の実態でありまして、この火花がキリスト教を発展させてきているのです。
キリスト教は全ての宗教を踏まえて誕生
ここからは私の独自見解ですけど、キリスト教の前には、非常に長い人類の歴史があり、その人類の文明や歴史を踏まえて、キリスト教は成立している宗教だという点を私は強調しています。
文字の歴史は5000年前、最初の文字は、メソポタミアのシュメール人が作った「シュメール文字」であります。
その文字を元にして、粘土板に掘って印をつけているような「楔型文字」が作られ、少し後にエジプトでは「ヒエログリフ(象形文字)」という神聖な文字が発明され、その後、中国では漢字の元の「甲骨文字」が発明されました。
文明ができ、文字ができると記録文書が作られます。そうすると粘土板が大量に作られます。粘土板は大きいですが、保存されて、図書館までできました。そういう発見された文字は、古代の文明がどういうもので、歴史がどういうものであったかの貴重な手がかりとなっています。
『旧約聖書』が文字として書き留められたのはいつかと言いますと、諸説紛々ですけど、凡そ紀元前500年に旧約聖書は文字になったと私は考えております。
旧約聖書はヘブル語で書かれており、粘土板の時代は終わっていました。羊の皮をなめして、そこにインクのようなのを使って文字を書き記すというやり方になっていました。
文字の歴史は5000年、旧約の歴史は2500年、旧約の歴史は文明・文字の歴史の半分です。
『旧約聖書』を書いた人は、すごく古いの人のように思うかもしれませんが、すでに粘土板の歴史があって、たくさん粘土板文書が残っていて、そういう知識を前提にして『旧約聖書』が書かれているということです。
『新約聖書』の場合は紀元後の1世紀、2世紀あたりに書かれたギリシャ語の文書です。実はギリシャ語で書かれたというのは、すごく重要なのです。
紀元前400年頃に活躍したソクラテス、プラトン、その他ギリシャの様々な文明が、すでにギリシャ語の文献としてたくさん残っており、それを踏まえて『新約聖書』は書かれていますので、実は『新約聖書』は、ギリシャ文明というものを吸収した上で書かれているということです。
しかも、その間にアレキサンダー大王がペルシアを征服し、バビロニアを征服しているので、ギリシャ語はギリシャだけではなく、ペルシャとバビロニア文化も吸収した言語となっていたということです。
『新約聖書』がギリシャ語で書かれたというのは、単にパウロが書いたとかいうことではなく、ギリシャ文明の背後にあるペルシャとバビロニアの文明も踏まえているのです。
キリスト教は、そういう意味で、ユダヤ教から発生したのではなく、人類全体の宗教を、当時の宗教を踏まえて、ペルシャやバビロニアの宗教を踏まえて成立しているということです。
ですから、キリスト教の歴史を学ぶということは、人類全体の宗教の歴史を学ぶということになるのです。
このような形での宗教が世界に広まったということの中に、神様のご計画があると私は考えていいます。
倫理的宗教と戒律的宗教
過去の文明を全て踏まえて、キリスト教が成立したとはいうものの、キリスト教がまとめ上げられる時に、核となった考え方がいくつかあります。
その一つが倫理という考え方で、倫理的な宗教と戒律的な宗教の違いを知っていただきたいと思います。
キリスト教は、どちらかというと倫理的な宗教です。倫理というのは全ての人を対象にした教えであるということです。
例えば、イエスは「汝の隣人を愛しなさい」と教えられておりますが、これは「隣人愛」、クリスチャンだけが守るべき教えではなく、誰もが守る教えとして説かれています。
ある人は「クリスチャンになったら隣人を愛さなきゃいけない」と言いますが、それはキリスト教を戒律として理解しているということです。クリスチャンになってもならなくても「隣人愛」は、人類への教えなのです。それが倫理という考え方です。
それに対して「戒律」は、その宗教の人だけを拘束する考え方、教えです。例えば、イスラエルに行くと、ユダヤ人は豚肉を食べないはずですが、豚肉を売る店があるのです。今のイスラエルにはキリスト教徒もいますから、キリスト教徒が食べるための店として豚肉も売っているということです。
豚肉を食べるか食べないかは、倫理ではなく戒律です。キリスト教徒が食べるのは構わないが、ユダヤ人が食べてはいけない。イスラム教も食べてはいけない。
また、イスラム教徒はラマダン(日中の飲食を絶つ1カ月)に断食します。その時、キリスト教徒は断食しません。なぜか。キリスト教徒だからなのです。イスラム教は戒律宗教だからなのです。
ユダヤ教の律法をイエス・キリストが素晴らしい解釈をして、律法という戒律を倫理的に解釈しました。
イエス・キリストが倫理的な教えを説いたので、キリスト教は倫理的な宗教として発展をしていきました。それが今日の世界に大きな影響を与えています。
さらにパウロがユダヤ教の律法を否定しました。全ての民族の人が救われると教えたのです。
これによりキリスト教は民族を超えた世界宗教へと発展していくことになりました。つまり、パウロの教えもまたキリスト教の根幹を作って、民族を超えたということです。
政教分離
もう一つ重要な点は政教分離です。政教分離は法律用語で、神学用語ではないのですが、便利なので使わせていただきます。
政治権力と宗教は区別すべきだという考えはキリスト教の基本になっております。
イエスの「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21)との教えがあります。
これは『新約聖書』の中で税金を納めるかどうかという議論の中で説かれた言葉なのですが、これがキリスト教の方向性を与え、政治と宗教は別ということを前提に社会が出来上がっていきます。
イエスが政教分離という言葉ではないにしても、「神のものとカイザルもの」を区別したことから始まるということなのです。
ローマ帝国は西と東に分かれた後、西ローマ帝国は間もなく滅び、政治的な空白が生まれました。
その時、ローマ教皇は、政治的権力を握ろうと思えば、自らが王として政治権力者として立つことができたにもかかわらず、キリスト教ですから、政治権力を握ってはいけない、という教えがあるとローマ教皇は考えたのでしょう。
結果的にフランク族のカール大帝を神聖ローマ帝国の皇帝に即位させることで社会を安定させました。
これによってローマ教皇という宗教、そしてカール大帝に続く神聖ローマ帝国の皇帝、この2つが別々の役割を果たすということで、中世のヨーロッパ社会を作ってきましたし、その後のヨーロッパ社会を作ってきてるということです。
今日においても、キリスト教は宗教として権力を握ることはしない、という立て前で活動を続けています。
これを理解するためにはイスラム教と比較するといいと思います。イスラム教は軍事力によって勢力を拡大し、政治と宗教は一体であるということがイスラム教の基本です。キリスト教とは真逆ですね。
そういうわけで、キリスト教は政教分離という考えがあるから、近代社会が今のような社会になったわけで、もしイスラム教なら今とは全く違う社会になってきたことは間違いありません。
「自由」という概念
さらに、キリスト教が世界に広げた考え方に「自由」という言葉があります。
「自由」という単語はヘブル語の『旧約聖書』にはあまり出てきません。
これはギリシャ人の考えで、ギリシャ語を使うユダヤ人だったパウロが『新約聖書』にある「手紙」で、「律法からの自由」を強調しました。その概念はギリシャ語の「自由」という単語だったので、聖書を読む人たちはそこから「自由」という概念を学び取るのです。
これがヨーロッパ社会において当たり前の考えとして受け入れられ、特にアメリカにおいては、独立戦争の時もヨーロッパからの自由もあったのでしょう、「自由」を大事にする社会が出来上がっております。
アメリカは、独立の時にフランス革命の影響も受け、その思想の影響も受けているからだと思いますが、「自由」「平等」「博愛」が重んじられております。
平等も大事にされていますが、なんと言っても自由が一番大事だというのはアメリカの精神なのです。
これからのキリスト教
こういう形でキリスト教は世界の文明に影響を与えてきて、現代社会を作る基礎となっていますが、これからの世界をどうするかという未来につきましては、はっきりしたビジョンを持っている訳ではありません。
これは私個人の見解ですが、今の欧米を見て、キリスト教会が沈滞しているという感じを受けています。
コロナのワクチンの問題とか、地球温暖化の問題、その対策として脱炭素とか、LGBTとか、死刑廃止論とか安楽死容認なども、純粋な動機から来てるのかもしれませんが、結果としては何か間違った理論が批判されずに世界に垂れ流されています。
これはキリスト教の責任。責任というか、ミスではないかと。キリスト教徒として情けないとしか言いようがありません。
こういう現状を踏まえまして、これからのキリスト教が役割を果たすことができるならば、それは諸宗教との共存を図る宗教になっていくべきだ、というのが私なりに神から与えられた答えなのであります。
キリスト教は率先して他の宗教と仲良くして、他の宗教と協力できるところは協力して、今の世界に広まっている無神論とか共産主義とかグローバリズムとか、そういうものと戦っていく宗教に変わっていかなければならない、そのように信じています。
神様は生きておられるので、やがてキリスト教会に活を入れて、目を覚まさせて、新しい動きが出てくることを期待しているところです。
ご清聴ありがとうございました。
質疑応答
宗教の価値を認められる活動をキリスト教から
浄土真宗住職
帝国主義による欧米キリスト教系による世界の分割や隷属化とか、欧米キリスト教の問題についてどうお考えですか?
黒瀬牧師
日本のキリスト教徒としては「アメリカよ目を覚ませ!」と言っていけるようにしたいと思っているところであります。
それでも、アメリカは近年、奴隷制度に対して乗り越えようと努力して随分変わろうとしました。アメリカの凄いところは間違っているところを乗り越えようという力があるところです。私はアメリカの底力は信じています。
日本の底力はどれくらいあるだろうかと考えると、欧州と比べれば血生臭いことは、少なかったと言えますが、日本の場合の一番問題は、宗教があまり前面に出てこないことだと思っています。
それで私は、宗教の価値を認められる活動をキリスト教からやっていきたいし、日本社会に対して、宗教に対する偏見を除去する活動をやっていきたいと感じてるとこであります。
キリスト教と科学
キリスト教牧師(Mさん)
科学発展にもキリスト教の貢献がありましたね。
黒瀬牧師
科学者として、歴史上重要で有名なクリスチャンは(遺伝の法則を発見した生物学者)メンデルですよね。メンデルは修道院長でした。
キリスト教と科学がなぜ関係してくるかというと、その論理性です。日本のキリスト教はよく「信仰」と言いますけど、歴史的に見るとキリスト教は、ものすごく論理を大事にする宗教なのです。論理的に考える訓練を教会の中でしてきたんですよ。
それを今の日本のキリスト教は、ややサボってるのですね。
日本人は頭は良いのですけど、何か言うと「それは理屈っぽいね」とか言われてしまう。理屈を嫌うんですよ。
私は論理の重要性を日本人には理解してもらいたいと思ってます。
そのためにキリスト教は、その論理の重要性を教える宗教になってもらいたいと願っています。論理的にものを考える訓練を宗教を通してやっていきたい、と感じています。
諸宗教間の対話と協力の推進
とも(司会)
今後、キリスト教間で一致しながら、またキリスト教を越えて、他の宗教の方々との一致や協力ができていくでしょうか?
黒瀬
諸宗教との対話は、キリスト教のごく一部ではありますけれども、そういう方向は出ております。ただ、完全に少数派です。しかしあります。
その少数派の中のいくつかを私は支持していまして、今後は諸宗教との対話・協力の推進に全面的に協力していこうという立場に立っております。
しかし伝統的なキリスト教はそうなっていないですね。キリスト教は唯一、絶対的な真理ということで、他の宗教は間違いだと考えて活動しています。そういうのは間違っているのですけどね。
しかし神様は働いておりますから、キリスト教は必ず変わります。私はそう信じて活動していきます。
一方で、宗教が日本において軽視されてるのは、それなりに歴史的な根拠があると私は見ていますので、いくら「宗教が大事です」と言っても、簡単には日本の社会には定着しません。
これも宗教者の努力が必要です。特にキリスト教側の努力ですね。
私は他宗教にもお願いしたいとは思いますが、人数が少なくてもキリスト教がエネルギーは一番持っていると信じてますので、やはりキリスト教がやるべきだと思います。
諸宗教との協力関係を作り、宗教対立が起きないことを示すことができたら、日本人は宗教に対してもっと寛容になりますよ。
今、日本人の多くが考えている宗教寛容の作り方は、「どの宗教でもいい」というのですね。
ただしキリスト教の調和の作り方は、「それぞれの宗教でいいです」という考えです。
私は「キリスト教です」と言って、ある人は「仏教です」と言って、「イスラム教」「神道」、新興宗教でも、その人が何ら問題なく自分の立場を言えるようになることが大事です。
そういう意味で「私はキリスト教である」ことをはっきり言うようにしています。それは何も対立を作るためじゃなくて、言うことによって、むしろ調和を作るきっかけにしようということです。
自分が一番良いと思う宗教を信じることが大事なことです。他の宗教に変わることも悪いと言わない。
皆が自分の良いと思う宗教に変わっていけば、最後に良い宗教が残るのでね。
そういう意味で、宗教調和は、皆が同じ、一緒になるのではなく、自分の意見をしっかり持って、それを言うことを認める。
だから、違う考えの人も認めるように自分を訓練するのです。キリスト教を批判する人がいても腹を立てないようにする。それも一つの考えですね、と受け入れるだけの度量を持つ努力をする。
他の宗教の人も批判されたからと言って怒らないようにする。そうやって、皆が自分の立場を大事にしながらしていけば、宗教対立はなくなるのです。
二つのやり方があるということです。「宗教のことは言わないで仲良くしましょう」というやり方もあるけど、「言っても問題ないようになる」やり方もあるということです。
キリスト教の私の立場から目指すのは、自分の宗教をはっきり出しても対立にならないようにしていく。
これを目指していきたいということであります。
ありがとうございました。