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不美人で且つ不幸
私は美形な人が好きなので、銀行の女性行員を品定めして「田舎にもこんな美人がいるもんだな」と思うのが好きです。
買い物の最中に美形を見かけて「わあ、この町の上位1%だな」と感想を抱くと、美形を見つけてラッキーという気持ちと、こんな田舎じゃなくても通用しそうな容姿なのに…という宝の持ち腐れを案じる気持ちと、私自身の大したことなさを憂う気持ちが一緒くたになります。
美人が幸せであるという等式がないように、不美人が不幸とも限らないわけですが、私は不美人で且つ不幸です。
不幸というのは現状がすさんでいるのではなく、良い事象を幸せと感じるセンサーが存在しないということです。
中学生ぐらいで自分は一般的な価値観においてブスだと気付き、風俗業で稼げるようになってからちょこちょこ美容整形でいじってきましたが、「ちょこちょこ」で美人になれる素材ではないと25歳くらいで気付きました。
けれどこの頃は愛嬌と年齢でまだちやほやされるし、風俗業で稼ぐ金額が自分の女としての価値だと感じていたので、「自分はイケている」という暗示を自分に掛けることができました。
自分は美人の部類と錯覚したまま、風俗からの足抜けを最終目標にした私は「これ以上容姿にお金を使っても、結婚しちゃえばアガリだから、これ以上整形は不要」と考えました。
20代後半でもまだ自分を客観視できていなかったのです。
結婚したら二度と体を売らず幸せになれると思っていましたが、お金が欲しいという根源的欲求はなくならず、自分には幸せを感受する能力が欠けていると気付くと、年を重ねるごとに「せめて不幸な美人になりたい」と思うようになります。
年を経るごとに自分の中で顔の美醜の体系ができ、他人が撮った自分の写真は見たくないと感じるようになりました。
何度鏡を見ても私はブスなままだなあ。
顔の大工事をして自分で納得できる美人の顔になることと、存在しない幸せセンサーを生み出すことと、どちらも同じくらい困難だと思います。
自分自身が一番自分の顔を気に入っていないので、私を買うおじさんや定期的に会うセフレが容姿を褒めてくれてもおべんちゃらと感じます。
他人の評価で一時的にでも高揚感を得られるのは30歳までだったな。
父親と娘かというほど年が離れていれば、「そりゃこれだけ離れていれば多少は可愛いだろう。可愛げがある、程度の意味では」と思います。
この醜形コンプレックスの源はなんだろうか?と考えると、
・両親に容姿を褒められたことがないこと
・嫌いな父親に似ていると言われつづけたこと
が大元だと思います。
自己肯定感というのは根拠に基づかない愛情で育まれるようですが、
だから親から子への愛情が「顔が可愛いから愛してる」「賢いから愛してる」は純粋な自己肯定感には繋がらないらしいですが。
少なくとも親が子をいとしいと思うとっかかりとして「可愛い」はどんどん言っていくべきだと思います。
なぜか私は両親が私を嫌っていると信じていて、それは(母にとっては)私が父に似ているから、可愛くないから、と思っていました。
「それでも親に愛されたい」のような感情がなかったのは救いです。
さっさと親を見限り、ブスだと生きていく上で不自由だから、今よりましになろうと努力(整形)したことは価値があったと思います。
でも努力不足でした。
容姿に納得できないまま生きていると、調子が落ちて「せめてもう少しましな顔なら」と思うタイミングがちょくちょくあるのです。
期待するように物事が進まないのは私がブスなせいだ
という考えと
私が美人なら、期待通りの結果にならなくても、ブスなせいだと気に病まなくて済むのに
という二律背反が生まれます。いや合理性はどこにもないけど。
実際に納得のいく美人になれたとしても、感情の基盤が欠けている状態では「ブスだから」という逃げ場のない状況に結局心を病むのだと思います。
世の中には善人で美人という人種がいます。
ああいう人々にあいまみえると消えてなくなりたくなります。
美人になりたいという以前に、よい人間になりたいですよね、なれるものなら。