平安時代 庶民の遺体はどう処理された?
現在、人が死ねばすぐさま処置され、葬式が執り行われ、
火葬されて納骨される。
殺人事件で死体遺棄されたのでなければ、あるいは大震災などで葬儀場や火葬場が操業不能に陥ったのでなければ、ともかく平穏な日常下の死者ならば速やかに火葬処理される。
だが平安時代は違った。
きちんと埋葬処理してもらえるのは、天皇に皇族、上流貴族…身分制度の頂点のみだった。それ以外の者、庶民層の遺体はどのように処理されていたのか…
「風葬」である。遺体を原野に放置して風雨にさらし、そのまま腐れ果てされる
大量の薪を用意する必要も、墓穴を掘る必要もない。
資源も人手もいらない、まことに「エコ」な葬法と言えよう。
悪臭やハエの害に目をつぶり鼻をふさぎさえすれば。
『源氏物語』から300年ほど後に書かれた「徒然草」。
「命長ければ恥多し。人生は限りあるからこそ素晴らしい」と説く段は、以下の文章を導入部とする。
あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つるならひならば、いかにもののあはれなからん。
世は定めなきこそ、いみじけれ。
(化野の露が消えない。鳥部野の煙が立ち去らない、人生が永遠にこの世にある理ならば、どんなに世の中は情感が無いことだろうか。人生は無常だからこそ素晴らしいのだ)
化野は現在の嵯峨野のあたり。鳥部野は鴨川の東岸、現在の清水寺のあたり。平安時代から鎌倉時代にかけて、鴨川の河原に東山一帯は都人の一大風葬エリアだった。死体がゴロゴロ転がり腐り犬に食い裂かれた末に白骨化していく。
そればかりではない。遺体は時に京都市中にも蔓延する。
『続日本後紀』の承和9年(842)10月14日の条に「左右京職東西悲田及び嶋田に鴨河原の髑髏、総勢五千五百個を焼かせた」とある。つまり頭蓋骨五千五百個が都のそこかしこで簡単に拾えたのである。五千五百人分の遺体が頭蓋骨へと化すには、それ相応に「腐敗」の過程を経なければならないだろう。
平安京の中心部は、鴨川を西に越えた左京。ちょうど春から夏にかけての時候、まさに空気が湿気を帯び気温も不快指数も上がる頃おいの風は、うまい具合?に東風が吹く。高級官僚のすずやかな屋敷にも、ほのかな香りが漂いこんだことであろう。
平時であっても、都を渡る薫風はまさに「薫風」だった。
平常時でもこのありさまなら、非常時はいかばかりか。
平安期において最も人命にかかわる災害は地震でも戦乱でもなく、疫病の大流行だった。
医療技術が発達していなかった時代。
栄養状態が悪かった時代。
ましてや前記のように都大路のそこかしこに糞便が散乱して衛生状態が最悪だった時代。
ふとした疫病の流行は万余の死者に繋がった。
藤原道長が栄華を極める直前の正暦4年(993)夏、疱瘡の大流行。翌年にも大流行で公卿のうち「五位以上の死者六十七人」。
数年後の長徳元年(995)にも疫病大流行。中納言以上の死者は8人。これら死者は身分の高いもののみの数なので、庶民階級でどれほどの死者が出たか想像も及ばない。
この長徳元年の疫病では藤原道隆、道兼兄弟も共に罹患して没した。
ただひとり生き残った道長の後の栄華は、まさに「疫病の故」とも言えるだろう。
疫病は是に留まらず長徳4年にも大流行。西暦1000年の長保2年にも都はもとより山陽道、鎮西で大流行。翌年は都大路の死者幾万有るかを知らず。
平安時代末期に信西入道が編纂した史書『本朝世紀』では、前記の正暦5年の疫病の有様を
「京中の路頭、借家を構えて筵で覆い、病人を出し置く。あるいは空車に載せ、人をして薬王寺に運ぶと云々。しかるに死亡する者多く路頭に満つ。往還過ぐる者、鼻を覆いて過ぐ。鳥犬飽食して骸骨を巷に塞ぐ」
まさに地獄絵図九相図。
絵師はモデルに困ることなどありえなかった…と言えようか。