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新型肺炎戦争最大の戦犯・第一話

 第1話 迫り来る医療崩壊

 外に出る訳にもいかず仕方なく院内の仮眠室に入ると、テレビがついたままになっていた。
 画面には馴染みの女子アナウンサーの顔があった。
 こっちは前に休憩してから18時間働きっぱなしでシャワーも浴びていないと言うのに、モニターに映る女子アナウンサーときたら綺麗にセットされた髪で、綺麗にメイクして、綺麗な服を着ていた。

『これからの問題は医療崩壊の懸念。
 それに尽きます。
 医療崩壊を招かない為にも・・・・・』

 彼女の言っていることは的外れだ。
 顔を覆う厳しい表情でさえ演技のような気がして何とも鼻につく。
 彼女がそのように言わなければならない立場だと言うことは分かっている。
 それに彼女は医療現場の現実など知り得ないのだ。
 決して彼女が悪いと言う訳ではない。

 が、しかし、今日は何だか無性に腹が立つ。
 何時もなら彼女達は見ているだけで癒される存在の筈が、今日は全くそんな気にはなれない。

「馬鹿野郎これからとか知った風な口ききやがって、現場じゃあなぁ医療崩壊なんてもうとっくに始まってんだよ!」

 気付けば我知らず口汚く彼女を罵ってしまった。
 直後机の上のリモコンをTVモニターに向かって投げ付けた。
 疲れているせいか手元が狂ってしまい、TVモニターには当たらず横に置いてあった細長い形状の花瓶に勢い良く当たる。
 その弾みで花瓶はいとも簡単に倒れ落ちた。
 ガッシャーン、と、言う音と共に、砕け散ったガラスと花瓶の中の水が盛大に床の上に撒かれる。

「大丈夫あなた!」

 カーテン一枚で仕切られた隣りの仮眠室から飛び込んできたのは、副院長を務める妻の梨那だった。
 どうやら私は隣りの部屋で妻が仮眠を取っていたことにも気付かないほどに、疲弊していたらしい。
 妻の声を聴いた直後胸中に渦巻いていた得体の知れない熱が、無意識のうちに急速に冷めていった。

「すまない・・・・・どうにもやり切れなくて物に当たっちまった。
 さっき検査結果が出て師長まで感染してたことが分かった。
 もう限界かも知れない。
 医者は勿論看護師も技師も足りない。

         ‐1‐

 マスクも防護服も人工呼吸器も・・・・・何もかも。
 人工肺のエクモを送ってくれてもそれを動かす技師がいない。
 PCR検査の簡易キットもいつ出来るのか分からない。
 アビガンにしても承認はもう少し先だ。
 それにこんな調子じゃ新型肺炎以外の患者の治療が出来ない。
 外科も小児外科も予定してた総ての手術が延期だ。
 感染症の専門外来なんてやるんじゃなかったよ。
 爺さんの代から三代に亘ってやって来たけど、この病院は俺の代で終わるのかも」

 私の肩に片手を置いた梨那は嗜めるように返してきた。

「そんなこと言わないで」

 妻は私の肩でその手をポンポンと二度ほど弾ませてから続けた。

「あなたが頼りなんだから」

 私の耳元でそう囁いた直後梨那は腰を屈め、唯一心に床に散らばった花瓶の破片を拾い集めた。

「良いよそのままで」

 と、言ったは良いがそれをやらせる研修医さえ多忙に過ぎる現状に思い到り、自ら腰を屈めて梨那と共に花瓶の破片を拾い集めた。

「本当にすまん。
 そんなことまでさせて。
 梨那もとんだ貧乏籤引いちまったよな。
 俺なんかを選んだばっかりにさぁ」

 くすっと小さく笑った梨那は、ひと通り片付け終えた床から視線をこちらに向けた。

「私は貧乏籤引いたなんて思ってないよ」

 梨那に吊られて私もくすっと笑ってしまった。

「ならいいけどさ・・・・・学生時代にはノート見せて貰ってたし、結婚して洋樹と史樹が産まれた後も任せっぱなしだったからな。
 おまけに息子二人の大学受験が終わったと思ったら、今度は現役復帰させて副院長までやらせてる。
 院長婦人の優雅な生活とはほど遠いよな」

 傍らのゴミ箱の底に敷いてあったビニール袋を拡げ、その中に拾い集めた花瓶の破片を入れながら梨那は苦笑混じりに返して来た。

「そんなこと考えてくれてたの。
 それはどうもありがとうございます。
 でもね・・・・・院長婦人なんて柄じゃないし、私は結構気に入ってるのよ今の生活」

 立ち上がった妻はゴミ箱の底のビニール袋をもう一枚取り出して、花瓶の破片を入れたビニール袋の上から二重に被せた。
 そして割れ物のそれ等はゴミ箱に入れずに横に置く。

          ‐2‐

 次いで花弁や葉等はそのままゴミ箱へ。
 その手際の良さは長年主婦を全うして来た証左だ。
 妻は医師としてのキャリアを捨てて長年家族の為に尽くしてくれていたのだ、と、そのことを今思い知った。
 しかしそう思うことが出来たのも新型肺炎のお陰と言うべきか。 

 否、お陰、と、言う言い方はあるまい。
 敢えて言うなら新型肺炎のせい、だ。

 しかし最大にして最強の敵である新型肺炎がきっかけでそのことを知ったなんて、口が裂けても言えるものではない。
 いつの間にやら取って来たダスターで床を拭き上げてしまった梨那をぼんやりと見詰めながら、私は独りごちるように言った。

「それにしても国や都に休業補償もらって休める仕事はいいよなぁ。
 医者や看護師はそうはいかないからなぁ。  
 選りにも選って何で医者なんだろうねぇ、俺達って」

 水を含んだダスターを手に梨那も独りごちるように返して来た。

「さぁ、何でなんだろうねぇ。
 強いて言えば私達夫婦揃って親が医者だったってことなんだろうけど、でもそれって運命なんじゃないかなぁ。
 息子達だって洋樹も史樹も二人揃って医者になったわけだし。
 違う言い方をすると医者の職業には就けなれなかったのかもよ、私達」

 梨那が言い終えるのを待って、私は身を屈めて彼女の眼前に片手を差し出した。
 固辞する妻から半ば取り上げるようにして、ダスターを受け取った。
 受け取ったダスターの他にも、何枚か使用済みのものが床に置かれていた。
 ダスターはどれも水を含んでいる。
 私はそれ等を洗面まで持って行って軽く濯いだ。
 次いでそれ等を絞りながら、背中で梨那に言った。

「そうかも知れないな。
 俺達って医者以外にはなれないのかもな。
 だからさ、せめて今は医者と言うよりさ、旦那としてそれらしいことをさせてくれよ。
 あまり寝ていないんだろ。
 これ以上働いたら梨那が倒れちまうよ。
 そんなことになったら今度こそこの病院は終わりだ。
 それだけは避けないとな。
 俺が行くから梨那は休め」

 振り返ると妻は何時の間にか水気を拭き取ったリモコンを手にしていた。
 私から絞ったダスターを一枚だけ取った彼女は、それを使ってテレビのモニターを拭きながら返して来た。

          ‐3‐

「それはこっちのセリフよ」

 直後片手に持ったリモコンをTVに向けて電源をオフにすると同時に、私が手にしていた残りのダスターを抜き取った。
 次の動作で洗面の方に駆け寄った妻は私が絞ったダスターをダスター入れに、テレビモニターを拭いたダスターを汚れ物入れに放り込む。
 惚れ惚れするほど手際が良い。

 もし梨那が私同様脳外科医だったとしたら私より或いは・・・・・。
 と、そんな悠長な妄想を妻の声が遮った。

「私は四時間くらい寝たから大丈夫。
 それより丸一日寝てないんでしょう。
 貴方のほうこそ睡眠を取らねきゃ駄目。
 そうだ! ちょっと待って」

 手にしていたリモコンをテーブルの上に置くや走り去った梨那。
 隣りの仮眠室に戻った妻は白衣を纏い、何やら器材が入っているらしい黒い皮のバッグを抱えて再び姿を現した。

「これ精神科に提供されたらしいんだけど、来年認可予定の睡眠導入用のVR機器なんだって。
 メーカーが臨床用に無償供与してくれてるんだけど、凄くいいの。
 私なんてさっき熟睡しちゃった。
 AI搭載の最新式なの」

 そう言ってバッグをテーブルの下に置くと、バッグの中から取り出したプラグを脚元のコンセントに差し込んだ。

「これって配偶者のデータも入力することになってるの。
 だからさっき私のデータを入力したときに、貴方のデータも入力済みになってるってわけ。
 つまり何もインプットしなくても搭載されたAIは、被験者の貴方に今一番必要と思われる『夢』を創って見せることが出来るの。
 そしてその見せてくれる夢は睡眠導入の役割だけじゃなくて被験者のストレスを緩和する作用もあるらしく、まだ仮決定の段階だけどメーカーは器材名も『ドリームメーカー』にするらしい」

 本体に繋がれたヘッドフォンとゴーグルを取り出し妻は、こちらに差し出すようにしてテーブルに置いた。
 私はそれ等を手に取りながら、梨那に問うた。

「へーっ、で、梨那はさっきどんな夢を見た訳?」

 妻は苦笑混じりに押し被せた。

「ひ・み・つ、よ。
 貴方がきちんと寝て、それで起きたらそのときに教えてあげる。
 さぁ、さぁ、ごちゃごちゃ言ってないで、寝た、寝た」

 梨那はそう言い終えると私の身体から白衣を剥ぎ取った。

         ‐4‐

 次いで彼女は、両の掌で私の肩を抑え付けた。
 私は観念して身体をソファに沈めた。

「分かったよ」

 そう良いながら私は先ずゴーグルを装着した。
 直後眼前には花畑が現れ頭上の蒼穹には虹が架かっていた。
 とても癒される美しい風景を立体映像で見せられているのだが、音声が伴っていないせいか創出された仮想世界には中々入り込めないでいる。
 梨那が何やらVR機器の本体を弄っているようで、その音だけが聴こえる。

「これってアラーム機能も付いてるから、タイマーは五時間後にセットしとくね」

「そんなに寝なくてもいいよ」

「大丈夫よ、治療とか仕事とかなら私が代わりに片付けとくから」

「しかしなぁ・・・・・」

 言い淀む私の耳元に梨那は小さくそして強く吹き込んだ。

「貴方に倒れられて一番困るのは私なの。 
 早く寝なさい。これは副院長命令よ」

「分かったよ、分かりました。
 しかし副院長に命令される院長って、どうなんだろうね」

 私の言葉を聴いた梨那は苦笑を禁じ得ずに、クスっと笑い声を洩らした。

「五時間後に起こしに来るからぐっすり眠るのよ。
 はい、じゃ、いってらっしゃーい」

 そう声を上げた梨那は私にヘッドフォンを装着させた。
 まるでアトラクションに送り出す前のアミューズメントパークのスタッフのように陽気な妻の声の後、全身に染みいるような旋律が耳から入ってきた。
 自然と身体が、ソファの上に横倒しになっていく。
 そう言えばアミューズメントパークなんて、洋樹と史樹が子供の頃に行ったきりだ。
 とは言え営業自粛で東京近郊のアミューズメントパークは総て閉園していると言うのに、医者である私がこんなことをしていてもいいのか。
 と、胸中にそうした刹那の葛藤は芽生えたがそれも束の間、美しい旋律と風景に包み込まれた私は徐々に意識が薄れていった。

 気が付くと院長室に置かれている応接セットのソファに腰掛けていた。
 いつもの院長室にいつものように私が居る。それだけだ。

          ‐5‐

 VR機器を装着した記憶は残っているが、もう日常に戻ってしまったのだ。 
 何のことはない。
 大して眠れなかったようだし・・・・・。
 今からまた、地獄のような新型肺炎戦争が始まるのだ。
 と、暫く肩を落とし頭を抱え込んでいた私であったが、よくよく考えてみるといつもと違う点がひとつだけあることに気付いた。
 それはいつも私が座っているのは院長席であって、今座っている応接セットのソファではないと言う点だ。
 まさか院長席に私以外の誰かが座っているなんてこと・・・・・。
 と、ふと見遣れば白衣を着た男がいつもの私の席に座っていた。

 院長席に座っていたのは私の息子達より少し上の二十代後半と言ったところか。
 白衣の下には紺色の詰襟服を着ていた。
 それは学生服でも、警察や自衛隊の制服でもなかった。
 間違いない。
 それは映画やドラマなんかで見たことがある旧日本海軍の軍服であった。
 やがて院長席の男は、軍帽を脱いで口を開いた。

「大きくなったな洋史」

 五十も半ばを過ぎた私が二十代の男に大きくなったなと言われると、何とも言えない違和感がある。
 しかし声に聞き覚えはなかったが男の顔には見覚えがあった。
 モノクロの古い写真で何度か見たことがある。
 死んだ親父が、これがお前の祖父ちゃんの若い頃だって、何度か。

 まさか祖父ちゃんの若い頃の?

 そう思い至った私は心のままを言葉にした。

「ひょっとして祖父ちゃんの若い頃の?」

 私の問いに男は低く独りごちるように返してきた。

「今頃気付いたか」

 やはり祖父だった。
 祖父は生前海軍軍医大尉だったのだ。
 戦犯として、巣鴨プリズンに投獄されていたこともある。
 そしてこの病院の創設者であり院長でもあった。

 その祖父が確かに眼の前に居る。

 物心付いた頃には既に他界していた祖父が、今、私の眼の前に若い頃の姿で。

         ‐6‐


 

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