短編小説「思い出を盗んで」その7 十三夜
十三夜
彼の転帰はいきなりだった。
その夜。
消灯時間がきたので私は読みかけの本に栞を挟んで机に置いた。机の電気スタンドを消し、そのままベッドに入ろうとしたが思い直して本棚に本をしまった。
自分で片付けしないと片付かないのよね…
私はいつか彼から聞いたエントロピー増大の法則のことを思い出して独り言ちた。
部屋の灯りを消してベッドにもぐりこむ。
この療養所に来てもうすぐ一年になる。この一年は私にとっては充実したものだった。病気も順調に回復傾向にあったし、そして、何より彼と出逢ったこと。
明日の天気予報は晴れだったから彼とあの丘に行って描きかけの絵の続きを描こう…そうそう温かい珈琲をポットに入れて持っていこう…
そんな事を考えながら私は眠りについた。
しばらく経った時、私は大切な事を思い出して目が覚めた。
今夜は確か十三夜だったわ…
私は母の言葉を思い出した。
「十五夜のお月様を見たら十三夜のお月様も見なくてはいけないわよ。そうしないと片見月になって縁起が良くないから」
十五夜のお月見は消灯時間が延長され中庭などに出ることが許可された。それで私は十五夜のお月様は彼と中庭で眺めることができた。
その時、私は彼に言った。
「来月の十三夜のお月様も一緒に見ましょうね」
「十三夜?」
「そうよ、十五夜が一番美しいお月様で十三夜が二番目に美しいお月様なのよ。この二つのお月見をしないと縁起が良くないらしいの」
「そんな風習があるんだ」
「あまり一般的ではないんだけれど、十三夜のお月様は満月が少し欠けた形をしていて十五夜に次いで美しいお月様とされているの。十三夜のお月見は、完全ではないものに美意識を感じる日本ならではの文化なのよね」
「僕が君に惹かれる理由はそこにあったんだ」
「…ちょっと!それってどういう意味よ」
「君の笑顔が十五夜の月だとしたら、君の怒った顔は十三夜の月かな」
「褒められてるんだか貶されてるんだか…複雑な気分だわ」
「十分に褒めてるつもりなんだけど…とにかく十三夜、楽しみだね。十三夜がいつになるのか教えてね」
私はそんな彼との会話を思い出しながらベッドからおりた。カーテンを開けると十三夜のお月様が輝いていた。
ちょっとだけ彼とお月見をするくらい大丈夫かな。急に彼の部屋を訪ねたら彼は驚くだろうか…
そんなことを考えながら私は寝間着から普段着に着替えた。
その時、階下から慌ただしい気配が伝わってきた。私は何故か胸騒ぎがした。とめどなく押し寄せてくる不安な気持ちに耐えきれずに私は部屋を飛び出し一階へ降りた。
私の目に飛び込んできたのは開け放たれた彼の部屋のドアだった。
部屋から灯りが廊下に漏れていた。
部屋へ駆け込むと担当医が一心不乱に彼の心臓をマッサージしていた。彼の胸元は鮮血で染まっていた。床にも吐血した跡が点々と残っている。私は彼の元に駆け寄ろうとしたが婦長に抱き止められた。
「いかないで!」
私の記憶は私の叫び声で途切れてしまった。
オフコース「思い出を盗んで」より