短編小説「思い出を盗んで」その4 石油ストーブ
その4 石油ストーブ
それから私は出来るだけ彼の側で過ごすようになった。
周りから特に好奇の目で見られることもなく冷やかされることもなかった。療養所に入ってこられるのだから経済的に恵まれている人ばかりだし、それだけに心にも余裕があるのだろう。そして病気が病気なだけに私たちは家族や友人たちともお互いが遠慮しているところもある。場所も人里から離れており俗世間から切り離されていた。そういうことも相まってか入所している人たちはどこか浮世離れした雰囲気を漂わせていた。
穏やかな時間が流れていった。
本格的に寒くなると、私たちは食堂の石油ストーブの側に陣取って思い思いの事をして過ごした。
私は小さい頃から冬になると石油ストーブの近くで過ごすことが好きだった。ストーブを点けた時に広がる灯油の匂いは私の中の冬の記憶を呼び起こす。ストーブの側で寝転がって本を読んだり宿題をしたりして過ごしたものだった。時にはストーブの上の薬罐から立ち上る湯気を見つめたりした。
このときも私はストーブの側で寝転びたかったけど実家ではないので我慢した。私は大抵編み物をしていたし、彼はノートに文章を書きつけていた。
一度だけ私は彼に何を書いているのか見せてとお願いした事がある。その時、彼は少し困った顔をして私に言った。
「駄目だよ。これは見せられない。思いついた事を書きなぐっているだけだし、人に見せるようなものじゃないから」
私は初めて彼から拒否された事に疎外感を感じた。そう言えば、彼が何かを求められて拒否しているところを見た事がなかった。彼は誰にでも優しく接するから色々な事に誘われる。例えば、トランプとか将棋や囲碁や卓球など。彼はそういった遊び事に誘われると嫌な顔一つせずに応じていた。そんな彼の優しい応対が時には私を不安な気持ちにさせる。それだけに彼の困った顔を初めて見た私は自分の意地悪な気持ちを抑えられずに彼に言った。
「けちん坊ね。少しくらい見せてくれてもいいじゃない」
「さすがに君のお願いでも、こればかりはね…」
「絵は全部見せてくれたのに」
「絵とこれは違うよ」
「分かったわ、もういいわよ」
「参ったな」
彼は眉をひそめ本当に困った顔をした。
(たまには困ればいいのよ…皆の頼みは機嫌良く応じるくせに…)
私の幼い嫉妬心が私にそのような思いを呼び起こさせた。
でも、私は彼のそんな顔を見るのが辛くて、手元の編み物に目を落とした。嫉妬心の後に私を襲ったのは後悔と自己嫌悪だった。
(私は急いで大人にならなければいけない)
そんな事を思っているとストーブの上に置かれた薬罐が音を立てて湯気を吹き上げた。
(泣きたいのは私のほうよ)
私は恨めしそうに薬罐を睨んだ。薬罐がグツグツと音を立てた。
(分かったわよ。悪いのは私よ。そんなに怒らないで)
私は、お湯をポットに入れるために立ち上がった。
「どこ行くの?」
「薬罐のお湯をポットに入れようと思って」
「重たいから僕がするよ。ついでに珈琲も淹れようか。君はそのまま座ってて」
彼の言葉に私は椅子に置いた編み物をとって再び椅子に腰をおろした。彼はどこまでも優しかった。
彼は軽々と薬罐を下げた。薬罐の音が次第に小さくなっていく。私の前を横切っていく薬罐は何だか誇らしげな表情を浮かべているように見えた。
(はいはい、彼に持ってもらって良かったわね)
私が薬罐に対してそう思った時、薬鑵がプシュと音を立て彼に連れられていった。
私と彼の言い争いというか喧嘩らしい喧嘩はそれが最初で最後だった。
私の冬の思い出が新たに加わった。
オフコース「思い出を盗んで」より