あの日のこと
25年1月17日。
私は東京出張のため東海道新幹線の車中にいる。
あれから30年目の今日一日の殆どを神戸にいなくて済む事にどこか安堵している自分に気付く。
この30年、改めて振り返ると震災という事実に対して私は直視してこなかった。あの日の記憶は鮮明に残っているが、その次の日、その次の日と辿っていくと記憶が曖昧になってくる。
やはり私にとっては95年1月17日の阪神・淡路大震災は私の人生観を根底から覆す出来事だったのだろう。盤石で崩れることなど微塵も疑わなかったものが一瞬で崩れ去ったのだから。
少しセンチメンタルな言い方をすれば、私の青春が終わりを告げた日である。
少しスピリチュアル的な言い方をすれば、時間軸がずれ時空がねじ曲がりパラレルワールドへ飛ばされた日、あるいは一度ゲームオーバーとなり仮想現実へリセットされてしまった日、であると言える。
当時私は神戸の中心地である三宮のひとつ西隣の元町で独り暮らしをしていた。震災前は毎晩のように仕事帰りに一杯ひっかけていたのだが、その店も物理的に潰れていた。元町から東へ行くにつれ破壊の度合いが酷くなっていた。私の大好きだった神戸の街は見るも無残な姿で静まり返っていた。
震災後、地に足がつかないフワフワとした浮遊感に包まれた。瀕死の街も時間が経過するにつれ点滴の液が体内を巡るように人の姿が増えていった。日が経つにつれバイクが走り始め、トラックが瓦礫を積んで右往左往し始めた。
幸いにも神戸は山陽道の要所であり、東と西から、そして北から復旧の手が差し伸べられた。
しかし、私にとっての『神戸』はもう戻らない。復興が進み、街並みは綺麗に整えられても、それは私の知っている『神戸』ではなかった。どこか神戸によく似た、でも、見知らぬ街という感じだった。
震災後1カ月後くらいだったろうか。私は徒歩や振り替えバスや電車を乗り継いで大阪へと向かった。大阪に着くと私の知っている大阪の街がそこにはあった。普通に歩道を真っ直ぐ歩ける事に感動した。大阪は日常のままの空間だった。その日常のままの大阪で私は失恋をし、失意のまま非日常の街へ戻っていった。
夢を見ているような感覚は続き、どこか別の人の人生を歩んでいる気がしてならなかった。このまま根無し草のような感じで生きていくのだろうか?震災では幸い私は生き永らえたが魂は漂っている感覚だった。
震災の1年後、私は周囲の勧められるままに結婚した。
このままでは駄目になると本能が感じたのだろうか。現実世界に根を下ろさなければならないと思ったのだろうか。差し出された藁に必死でしがみついた感じだった。正やんの『22才の別れ』の「私の目の前にあった幸せにすがりついてしまった…」のだ。 私を受け入れてくれた妻と私を父親にしてくれた子どもたちには感謝している。
出張を終え、帰神。自宅に着いたのは日付が変わる直前だった。コロナ禍以降約5年、私は三宮に足を踏み入れていない。出張で新幹線に乗るため新神戸駅へ向かう道中で通過するだけの街となった。そろそろ元町や三宮を散歩してみるのも良いかもしれない。同じ仮想現実を生きるなら楽しんで生きていくほうがいいのだろう。
思えば遠くへ来たもんだ
故郷離れず30年
思えば遠くへ来たもんだ
この先どこへ行くのやら