敬称はある思いの継承だった話し
例えば、こういう文章上であっても会話上であっても歴史上の人物について言及する場合、通常は敬称をつけない。徳川家康であり高杉晋作である。
同様に、有名人、例えば、政治家や芸能人についても敬称はつけない。
しかし、私の中では例外がある。
「かぐや姫」「風」を経てソロで活動しているミュージシャンの伊勢正三は愛称の「正やん」と呼称するのがしっくりくる。愛称も敬称の一種であるなら「正やん」は正やんと表記してしまう。
不思議なもので、正やんの兄貴分で「かぐや姫」のリーダーだった南こうせつは「こうせつ」である。カリスマ吉田拓郎も「拓郎」である。井上陽水も「陽水」だし、小椋佳は「小椋佳」がしっくりくる。彼らより下の世代のミュージシャンたちは敬称略で違和感はない。
しかし、私にとっての例外中の例外がオフコースの小田さんと鈴木さんである。この二人の場合、逆に敬称の「さん」をつけない表記は私には有り得ない。つけないと気持ちが落ち着かないレベルである。その流れで、後にオフコースに合流した三人も基本的に「さん」づけである。清水さん、松尾さん、大間さん、である。
この差は一体何なのか?色々と考えてみて、記憶を辿り、四十年の時を遡る。
「あっ!」
一つの答えに辿り着いた時、私はきっと赤面していたであろう。
その答えとは、男子と女子の差、である。
どういうことかと言うと、当時、かぐや姫や拓郎や陽水といったミュージシャンたちは男子の間で話題になっていた。生意気盛りの中坊なので呼称は呼び捨てだったわけである。正やんだけが正やんと呼ばれていた謎も正やんだけが正やんという愛称があったためである(なんだかヘンテコリンな表現だけど、まぁそういうこと)
そして、オフコースは男子の間で話題にならなかった。話題にしていたのは女子たちである。当時、憎からずと思っていた女子もオフコースのファンで彼女たちは「小田さん」とか「鈴木さん」と呼んでいたのである。
なんとか女子たちの話題に入り、彼女の気を惹きたかったモテナイ私は彼女たちに迎合して「小田さん」「鈴木さん」と言うしかなかったのである。
恥ずかしい。
男子たちには「たくろーが」とか「よーすいが」と言っていたのに、女子に交じると「小田さん」「鈴木さん」と言っていたのである。
実に恥ずかしい。
その結果がこれである。今や私の血となり肉となり生理的レベルで「小田さん」「鈴木さん」としか表記出来なくなっている。その源流が若き日の私の助平心だったとは…トホホ。
まぁ、モテナイ男の涙ぐましい努力と思って自分を慰めておこう。
こういう自分の中の違和感に気付いたのは、少し前にオフコースの「夏の日」という曲のMVについて書いてるときだった。
このMVの主役がオフコースの大間さんで相手役が女優の田中美佐子さんだったのだが、田中美佐子さんの敬称を略して書いてしまっている。私にとって「大間さん」「田中美佐子」表記は違和感がなかったけど、敬称を付けたり付けなかったりと統一感がない事の違和感が残っていた。
何故こういう文章になったのか考えた結果がこれである。
三つ子の魂百までと言うけど、若き日の思いって根深いものがあると思い知らされた次第。