車窓に映る風景
最近、海援隊の『思えば遠くへ来たもんだ』を聴く機会があった。この曲は少年時代に遠くへ旅立つ汽車への憧れや青年になってその汽車に乗り故郷を旅立つ情景、そして、それらを振り返る現在の自分の想いなどが描写されている。『遠くへ』には距離的な『遠さ』と時間的な『遠さ』があり、それらの『遠さ』が叙情豊かに歌われている。九州出身の海援隊ならではの逸品だと思う。
九州出身と言えば、正やんこと伊勢正三もそうだ。正やんの代表曲と言えば、言わずとしれた『22才の別れ』や『なごり雪』であろう。特に『なごり雪』は
汽車を待つ君の横で…
で始まる。東京駅のプラットフォームで待つ二人。故郷へ帰る彼女とそれを見送る男の情景が男の視点から描かれる。汽車のドアのガラス越しに映る彼女の表情を最後まで見ることができず俯く男が悲しい。
正やんは大学受験や大学進学で何度も九州から東京間を汽車に乗って往復したのだろう。その車窓に映る風景を見ながら様々な想いがよぎったはずである。だからこそ正やんには『汽車』にまつわる作品群が生まれたのだと思う。
そんなことを考えてると「これは正やんに限らず九州などの地方出身のミュージシャンに共通する事かもしれない」という思いに至った。
例えば、甲斐バンドも九州の福岡出身である。『裏切りの街角』の舞台は駅である。主人公を振り切って汽車に乗った彼女を追いかけ車窓を叩くが顔を背けられた描写が悲しい。
『安奈』も夜汽車がでてくる。
チューリップの『心の旅』や『悲しきレイン・トレイン』もまさに夜汽車を舞台とした曲である。
この九州出身のミュージシャンたちに対して、東京やその近郊の関東圏出身のミュージシャンはどうだろうか?
ユーミンの『ルージュの伝言』は先に列挙した作品群に漂う哀愁はない。都市から都市への移動中の心象風景を歌っている曲であるが、どこまでもお洒落だ。さらに『中央フリーウェイ』などからユーミンにはクルマのイメージがある。
チューリップとよく比較されるのがオフコースであるが、チューリップの財津さんに対してオフコースの小田さんや鈴木さんには『汽車』のイメージはない。鈴木さんは学生時代、休みになると東北大学在学の小田さんの元へクルマで練習しに行ってたエピソードがある。そこからも私にはオフコースは汽車ではなくクルマのイメージだ。
小田さんには『my home town』という曲がある。そこででてくるのが根岸線だが、この曲には時間的な遠さは感じられるが距離的な遠さは感じられない。
こうして見ると、世代や出身地によって作られる曲の傾向があるのかもしれない。それはそれぞれのミュージシャンのバックボーンが違うからなのだろう。同じ車窓でも汽車の車窓とクルマの車窓では映る心象風景は違うかもしれない。
インターネットが発達しSNSが当たり前の現在、今の若いミュージシャンたちの意識も違ってきているのだろうか?『上京』ということに対しても特別な感覚はないのだろうか?それよりももっと身近なバスや自転車に特別な想いを抱いているのだろうか?