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短編小説「思い出を盗んで」その5 春セーター
その5 春セーター
春になり暖かな日が多くなると、私たちは場所を食堂のストーブから中庭のベンチに移した。場所が変わっただけで、することはあまり変わらない。私は刺繍をして彼はスケッチをしたりノートに走り書きをしていた。時折、彼はバドミントンやキャッチボールに誘われ、相変わらず機嫌よく応じていた。そんな時、運動が苦手な私はベンチに座り彼の動きを目で追うだけだった。
ある日、彼がベンチ前のテーブルに体を預け、うたた寝を始めた。
薄緑色のセーターを纏った彼は気持ちよさそうに頬杖をついていた。
そのセーターは私が編んだものだった。編み上がった頃には冬は終わっていた。私は申し訳なさそうにセーターを彼に差し出した。彼は「ちょうど春のセーターが欲しかったんだ」と言って嬉しそうに受け取ってくれた。早速着てくれたのだけど、そのセーターのサイズは彼には大き過ぎた。特に丈が長すぎてお尻を完全に超えていた。
「こんな大きいサイズを編んでたんだ。どおりで時間がかかったわけだ」
「ごめんなさい」
「普段、君が僕の体をどういうふうに認識してるかよく分かったよ。君の目には僕は胴長短足に見えてるんだ」
「そんな意地悪言わないで」
彼は笑いながら言った。
「でも、こうすれば大丈夫」
彼はセーターの裾を内に折りたたんだ。
「これだとお腹が冷えなくていいし、足も長く見える」
彼はイタズラっぽい笑顔で片目をつむった。
「本当にごめんなさい。今度はちゃんと編むから」
それから彼はそのセーターをずっと着てくれた。
ベンチの横の桜の木から花びらが彼の肩先に落ちた。ピンクの花びらが良く映えていた。
その時、彼のノートがテーブルから落ちた。私はノートを拾い上げ彼の元に戻そうとした時、ある文章が目に入ってきた。彼が目を覚ました。
「あっ、ありがとう。うたた寝してたよ」
「すべて生命あるもののように、流れるままに身をまかせれば…」
私は今見た文章を記憶に留めるために口にした。
「見られちゃったか。恥ずかしな。どう?大したこと書いてないでしょう」
「ううん、素敵な詩だわ。続きは?」
「続きはまだ思い浮かんでいないんだ。君も考えてくれる?」
「うん、考えてみる」
桜の花びらが彼の髪に舞い落ちた。それは肩先に落ちた花びらとペアのアクセサリに見えた。慎ましいけど鮮やかな桜色の花びらは可愛らしく自己主張している。その花びらに私は問いかけた。
「あなたたちも風に吹かれるままに流さるままに身をまかせたのね」
彼は私を不思議そうに見つめた。私は耐えきれず吹き出した。
「何がそんなに可笑しいの?」
「だって可愛らしいから。よく似合ってるわよ」
「だから何が?」
笑いの止まらない私を彼は不意に抱きしめ口づけをした。私は突然の出来事に驚き反射的に体を離した。
「病気が感染るわ」
彼は私の言葉に少し戸惑ったけど直ぐに微笑んだ。
「もう感染ってる。付き合いは君より長いよ」
「それもそうね」
彼は再び私を抱き寄せた。私はそのまま彼の胸に身をまかせた。恥ずかしさと嬉しさが入り混じった感情の間に割り込んでくるかのように(もっと気の利いた事を言えば良かった)という思いが浮かんできた。私はこんな時にこんな事を考える自分が可笑しくなった。
「まだ笑ってるし」
「ごめんなさい」
「全然ロマンチックじゃないね」
「ごめんなさい」
「まぁ君らしくていいけど」
「…」
私は彼の胸の鼓動を聴いていた。
(すべて生命あるもののように…)
セーターから彼の匂いがした。彼の匂いは私を落ち着かせる。
(流れるままに身をまかせれば…)
私の手元にあった毛糸が不格好とはいえセーターとなって彼の体を包んでいる。そして、今、私の体をも包んでいる。私は何か不思議な縁を感じていた。
(今が永遠に続けばいいのに…)
私はそう願わずにはいられなかった。
オフコース「思い出を盗んで」より