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粗末な出会い、大切な出会い

わたしは小学校教諭をしています。
未来のためにできることとは?
という問いに、
子どものために勉強を教えることです。
とか、
子どもの成長を支えることです。
とか、そういう答えが出てきそうですが、
そんな単純なことではなさそうなので、
私自身、仕事で大事にしていることを改めて考えてみると未来のためにしていることがわかるかもと思いました。

やはり、改めて考えてみるとわかりました。笑

それは出会いを大切にすることです。

子供との出会い。
保護者との出会い。
地域の人との出会い。
そして、職場の人との出会いです。

「出会い」「一期一会」よく聞く言葉です。
人と人とがある場所で会う。一緒の教室にいる。
これも出会いです。
でも私の場合、こういう普通の物理的な出会いとはちょっと違う出会いです。

話がちょっと変わりますが、実は、私は仕事で何を大事にしてきたのか、はっきりとわかりませんでした。
しかし、ある書籍のおかげで言葉になりました。

書籍は東井義雄さんの「子どもの心に光を灯す」という書籍です。

この本の中に”粗末な出会い”という文章があります。
この文章を読んでいると、
「ああ、私は仕事で出会いを大事にしようと意識してきたのだなあ」
と気付かされたのでした。
それでは、粗末な出会い、の文章を紹介します。

 私、近頃どこへ行っても申し上げていることなんですが、近頃世の中が忙しすぎるためでしょうか、人間の出会いが粗末になっているのではないでしょうか。
 一昨年の夏でございました。棟方志功先生なんかと一緒に、日本的な版画のいいお仕事なさってる、長谷川富三郎先生という方が著書を送ってくださいました。読ませてもらっておりましたら、
「あなたは、毎日食べているご飯の、お茶碗の模様が言えますか?」
 とございました。
 はてな? わしの茶碗の模様はどんなやったかいな、字が書いてあったようにも思うし、絵が書いてあったようにも思うんですが、毎日食べているご飯の茶碗の模様を思い出せません。

東井義雄「子どもの心に光を灯す」p8、9

 出会いからの、茶碗の話?と思われたかもしれません。ただ、面白い質問だなあと読み進めていました。自分の茶碗の模様が分からず、東井先生は家に帰って家族に茶碗の模様はどんなか尋ねます。しかし、家族も「さあ・・・。」という答えしか返ってきません。

 わしだけこんなにボンヤリしているんだなァ、と思いました。
 久しぶりに家へ帰って、家内に、「お前のご飯の茶碗の模様を言うてみい」と申しましたら、「さあ……」。亭主がボンヤリだと、女房もボンヤリ。夏休みで息子が帰って来とりました。夕飯の時、息子の茶碗をとって、「お前の茶碗の模様を言うてみい」と申しましたら、「さあ……」。親がボンヤリしとると、子どももボンヤリしとる。毎日キスしながら、相手の模様が言えない、なんとわしの腕は、よう人の茶碗と間違えんことだ。粗末な出会いでございます。

東井義雄「子どもの心に光を灯す」p9

 ボンヤリとか、キスとか、なんだか面白い表現を使われる方です笑。自分の茶碗の模様はざっくりと言えるかもしれないけど、色までは言えない。自分が使っている箸の形は言えない。持っているシャツの柄は言えない。妻の服や持ち物なんて、言えないものが多いと思いました。家具もそう。乗っている車も。細かなところまでみていない。自分もボンヤリと目の前にあるものを流してみていっているんだ、と気付かされました。物との出会い。そういう流し見が粗末だということなんでしょうか。

続けます。

 一昨年三月、四十年間の教員生活を引かしていただきましたが、お世話になっとりました八鹿小学校の六百人ばかりの子どもの成績、一人ひとりみせてもらいながら、これで子どもの成績をみせてもらうのもおしまいだなァ、と思って、ていねいに見せてもらったんですが、
                〜中略〜
 担任の先生が、
「今、お父さん、お母さんの別れ話が持ち上がっているんです……」
「お母さんが蒸発なさったんです……」
「お父さんがいい人こさえてて、家に帰らないんです……」
 僅か六百人ばかりの子どもの家庭で、十組近くそんなのがあります。お父さんお母さんの出会いが荒れてきているんじゃぁないでしょうか。
 私のほうだけかと思ってましたら、過日、トヨタ自動車の、愛知県の豊田の幼稚園に行きましたら、あの辺でも、お母さんの蒸発が増えている。離婚話が次々と起きているんだと聞きました。因島はそんなことないでしょうね。
 これがてきめんに子どもに影響するんです。
 子どもをダメにしようと思ったら、お父さんお母さんの出会いをダメにするのが、速効薬です。
                〜中略〜
小学校三年生の女の子が書きました詩に、

 お父ちゃん、
 お母ちゃんとお金どっちがいい?
 そりゃ母ちゃんさ。
 一億円でも?
 うん。
 百億円でも?
 うん、母ちゃんはお金には換えられない。
 ほんと?
 (母ちゃんとけんかして追い出そうとしても、
  心ではやっぱりそう持ってるんだナ)
 私はうれしくなって、
 やっぱりネ。
 と言って、父ちゃんの肩をたたいてやった。

 
こういう父さんがいてほしい訳です。夫婦の間ですから、きれいごとやろうと思ったってできません。
 時には「出て行けッ」て言うことも、やむを得ないかと思うんですが、肚の底には、百億の金にも換えることはできないという思いをお父さんにお願いしたいのです。

 別の三年生の女の子は、
 お客さんが帰らはった。
 タバコの煙で紫色のへや、
 お母さんがガラス窓あけたら、
 空気がきれいになった。
 私は白と黒の碁石をわけた。
 「カナワンナ父ちゃんは
  遊んだあとおもちゃも片づけんと……」
 お母ちゃん怒ってんのやろうか
 「うんとこしょ」
 碁盤をおもちゃと言って笑ってる。
 やっぱりお父ちゃんのことは怒れへんのやな。

 ちゃんと通じるんです。お父さんとお母さんの出会い、ご検討なさってください。茶碗との出会いのようにならんように……。

東井義雄「子どもの心に光を灯す」p 14〜17

 ダメにするということはこの段階ではまだはっきりとは分からないけれど、子どもはこんな親の言動から、肚のうちを見ようとしている。お父さんはお母さんのことを思っているのだろうか?お母さんはお父さんのことを思っているのだろうか?そこには、子どもの願いのようなものも感じました。私のお父さん(お母さん)が流し見の人でありませんように。しっかりと思いやってくれていますように。そんあことを感じさせてくれた詩でした。思い合う二人だから、見えるもの以外にも思いがいく。心と心の思い合いを子どもは確認しているのだろうと思いました。

 では、東井先生自身は粗末な出会いはされていないのか?笑
いいことはどれだけでも言えるけど、為すということの難しさ、これはどうなのだろうと。笑

 こんな偉そうなこという私自身、家内との出会いがどうなっているか。ずいぶんこれもお粗末になっているようです。

東井義雄「子どもの心に光を灯す」p17

 少し期待したけど、まさかのお粗末な出会いの方でした笑。こうやって自分のことを曝け出せるということも、人間味であり、魅力であるなあと。こんな文章を書きたいものです。

 徳永(康起)先生、〜中略〜
 あの先生、年中三時には起きて、きびしい勉強なさっていらっしゃる。それは聞いておりました。一緒に泊めてもらいました。
 この先生、年中三時には起床という話だが、と思っておりましたが、私は横着ですから、目を覚ましながら、寝床の中でましましやっておると、三時になるとパッと起きて、正座なさって合掌しておられる。恥ずかしくなって、寝床の中でもぞもぞやっておりました。
 私が目を覚ましていることに気づかれたんでしょうか、
「東井先生、目を覚ましておいでのようですが、うつぶせになってください」
「何をなさるんですか?」
「まあだまってうつぶせになってください」
 と仰言るもんですから、寝床の上にうつぶせになりました。
「これから貴方の足の裏を揉ませてもらいます」
「足の裏なんか揉んでもらわなくても結構です。それに、先生のような偉い方に足の裏なんか揉んでもらったりなんかすると、足の裏がはれてしまいます。こらえてください」
「こらえません。東井先生は偉そうに言うても、奥さんの足の裏揉んだことないでしょう」
「はい、ありません」
「それじゃあ許せません。今日私が揉んだのとおんなじようにして、明日お家にお帰りになったら、一度奥さんの足の裏揉んであげなさい」

 言われてみたら、家内の足の裏なんか揉んだことございませんから仕方がない、揉んでもらう覚悟を決めてうつぶせになりました。
「東井先生、ひとの足の裏揉ませてもらう時には、まず合掌して、拝んでから揉ましてもらうんですよ」
 と仰言って、私の足の裏拝んでくれるんです。
「やめてください、ほんまに」
「いや、こうしてやらしてもらうんです」
 それから、〜中略〜ていねいにていねいに揉んでくださる。
 もうやりきれない思いだったんですが、あくる日家へ帰りましたら、夜中の一時を過ぎとりました。
 でも、久々ぶりに帰って来るいうんで、家内がまだ寝ずに待ってくれておりましたから、座敷に上がるなり、
「お前すまんけどうつぶせになってくれ」
「何をなさるんですかいな」
「まあだまってうつぶせになれ」
 家内が妙な顔をしながらうつぶせになりました。
「これからお前の足の裏を揉ましてもらうからな」
「足の裏なんか揉んでもらわんでも結構です。もうこんなにおそいのに、早う休んでください」
「いや、どうしてもお前の足の裏揉まんならんことになってしもうたんや」
 と申しまして、いやがる家内の足を押さえたんですが……、徳永先生、はじめに拝むんや、と仰言った。(笑声)

 こんな足、拝む値うちもないと思いましたが、大急ぎで拝む格好だけしといて、足を抱き、足袋脱がしましたら、ギョッとしました。
 家内もらって三十八年目、家内の足の裏見たん初めてです。
 もうちょっとは可愛らしい足の裏しとるんじゃと思いましたら、まあなんとガメツイ足の裏でしょう。(笑声)
                 〜中略〜
 熊の足の裏はこんなんやろうなァ、と思うような、指の広がったガメツイ足の裏なんです。
 町の寺の娘に生れて、大事に育てられた家内でした。家に来た時には、もう少しは可愛らしい足の裏をしてたんかもわからんのですが、山奥の私の家へやって来て、毎日毎日、けわしい山道を薪木を背負いに通い、山道いっぱいにひろがっている岩を、すべらんように、指の先に力を入れて、踏みしめ踏みしめ三十何年歩いているうちに、こんな足の裏になってしまったんやないかいな、畑に何が育っているのか知りもしないで、出歩いてばっかりいる私に代わって、畑を耕し、作物をつくり、肥やしを運びやってるうちにこんな足の裏になったんかなァ、思いました。
 気が付いた時には、本気で手を合わせておりました。初めて本当の家内に出会った気がしたんです。
 そして、ひょっとしたらこの女、わしのために生まれてくれた女と違うんかいな、そんなことが思われてきました。
                 〜中略〜
 顔と顔とが出会っても、そんなのは出会いのうちには入らないんですね。
 長い間自分を支えてくれた、その苦労があったと、わかってこなきゃあ出会ったことにはならんのですね。

東井義雄「子どもの心に光を灯す」p17〜21

 教師としてたくさんの人と面と出会います。それが顔と顔との出会いばかりだった頃と、顔の奥のその人の背景、その人のこれまでなんてものを、思い馳せることをし出した頃と、仕事の充実感が変わったことを思い出しました。(もちろんプライベートでもそうでした。)

 人の表面は同じでも、本当に多様な内面がありました。
 子どもの抱えている思い、思い込み、家庭背景、
 保護者の苦しみや悩み、
 同僚も同じく、
 人の内面は表面に相反することしばしば。多様で、自分の想像を遥かに超えるものが多い。
 

 そういうものに触れると、自分の教師としての立場からの思い上がりに気付かされ、全てわかったつもり、お見通しだなんて思うこと自体、自分何様なんだって戒められました。そして、その人がより一層浮かび上がって来て、これはテキトーなことを言えないぞ、となるのです。向き合おうという感情が滾ってきます。

こういう滾る感情からの行動はどんな形であれ、自分にとっては大事なものです。相手もそれを感じ取ってくれるようです。

だから、私は人と出会う時、その人の背景を洞察することにしています。
これが出会いを大切にすることです。
時には、その人の血液型、その人の星座、その人の様々な個性というものを分析することもあります。

どんなにやんちゃな子でも、その子の人生は歩んだことがないです。
どんなに話の合わない保護者がいたとしても、
どんなに理解ができなくても、その人には測り知れない人生がある。そこへの尊敬と感動はわすれません。そこまでたどり着いたら、東井先生は「本気で手を合わせて」おられたけど、私ができたことは、労うことでした。そして、湧き出る励ましの気持ちで何かしました。

 こういう心で関わると、相手とより一層つながりを感じられ、相手のことが彩り豊かに見えて来ます。仕事の内容も気づいたら質の高いものになっていることが多かったと思います。

 教師という仕事のやりがいは子どもの成長にフォーカスがいくことも多いですが、その子や保護者のこれまで歩んできた人生の地図を拝見させてもらうことの感動もやりがいの一つだと思います。そうして興味をもってみてくれた人を嫌うでしょうか?人は人に興味をもってみてくれる。そして、後押ししてくれる人がいた。そんな種は、きっと周りに広がっていくだろうし、人と人とのつながりが彩りを持って来ると思います。

 自分のお茶碗の模様がわかるように、今、関わらせてもらえている人たちの”模様”をみようとしているか、”模様”を認めているか、これからも自分が大事にしていくことだと思いました。

そういう積み重ねが、人と人とがつながれる未来に繋がっていくと思いました。

#未来のためにできること

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