見出し画像

戦争しないために

〈SungerBook-カラーグラス999〉「お花畑」が戦争を招く ⑬

ロシアのウクライナ侵攻が一年も続き、最近では露国のプーさんとC国のプーさんが直接会ったかと思えば、これに脊髄反射するかのように我が国の首相が、ウクライナのゼレンスキー大統領を訪ねるということがありました。同時期を狙っていたようにも見えます。己れの意思決定など有り得なさそうな首相の陰で動く「見えざる手」がはっきり見えたような気がするのは私の妄想かもしれません。

そもそも露国はウクライナのNATO入りを阻止したかったと言われていますが、ロシアの攻撃がはじまってみれば、西側諸国の集団的自衛権が発動されているかのような感があります。このような情勢下でC国のプーさんの動きは世界の対立構造を煽るようなもので、この国にここまで野放図に経済力を持たせてしまったことが悔やまれます。西側諸国は、C国の価値観をなめていた、ということにもなるのでしょうか。

平和とはなんだ

時は今、WBCでの優勝により日本中が浮かれています。大谷翔平がインタビューに答えて「アメリカ野球をリスペクトする」と語っていましたが、米日支配構造をわきまえた、有能な息子のコメントとなっています。こんにちの日本の平和は、ここに集約されている、
と私は思います。アメリカ父さんの手で育てられ、強い父さんである限り、息子も安泰と言えましょう。
本当に息子も強くなったか?加齢が進み年老いていき、弱りつつある親父に、まだ頼っているかに見えます。たまに野球ゲームに勝たせてもらったところで、それは「お花畑」喜びに過ぎません。リスペクトするなどと言っている限り、親父を超えるつもりはない、ということになるのでしょう(大谷のコメントは模範解答です)。

米国野球をリスペクトすると語る
あなたをリスペクトする

では、ドクター苫米地の説に則って、「国連を脱退し、敵国条項が適用されない別な国として再加盟」(p53 苫米地英人「真説・国防論」より)し、真の主権国家になれた上で憲法改正できたなら、本当に一人立ちできるのでしょうか?個別的自衛権を発動した途端に、お父さんに「アジアは任せた。一人でやってこい!」と後押しされ、主権国家として路頭に迷ってしまうのではないか。この状態こそ、C国や露国が待ち望んでいることかもしれません。あらゆる意味でこの国が独立国家として成熟していないことに起因しているのでしょう。スポーツと政治を結びつけるつもりはないのですが、「すべての道は政治に通ず」とばかりに、有りとあらゆることを政治化しているC国のことは、少しは学んだ方がいいかもしれません。「戦わずして勝つ」(孫子の兵法)を「戦争しないで勝つ」と読み替えるならば、「戦争以外のすべての手段を使う」と理解されます。C国の「超限戦」を私はこう解釈しています。この「戦争」とは実戦争のことであり、ここに至って「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」というクラウゼヴィッツの箴言と対比が鮮明になってきます。(この解釈については、別途学術的な精査が必要でしょう。)C国の意図は実戦争も含めているのかもしれません。

西部先生には、まだまだ教えてほしかった

故西部邁によれば、「平和は戦争がないネガティブにのみ、つまり『戦争がない状態』としてだけ、とらえることができるもの」(p85 西部邁「核武装論」より)と述べておられます。この意味するところは様々に浮かびますが、一つは平和というものの一面を語っていますが、状態を言い当ててはいるけれども、こんな平和の捉え方では寒々しく、視点を「平和」ではなく「戦争」に向けてこそ、「平和」がポジティブなものに転換してくるのではないか、と考えます。もちろん、「戦争する」ことではなく「戦争しない」という方向でです。

戦争に勝つ必要なし

戦争に負けてもいい、と言っているわけではなく、そもそも戦争しないことを考えたい、ということです。戦争しないでいられるなら、勝ち負けは関係ありません。しかし、国際関係は相手国との兼ね合いがあるので、自国の都合だけで完結できるものでもありません。常に他国との関係性にさらされるのが、国際情勢ということでしょう。

私は、軍事や政治の素人ですが、一国民として、自らの思考で、方向性を見出だしたいと思っています。これなら専門家ではなくても、考えることはできます。必要に応じて資料を漁りネットを検索し、本質を探したり論点を補完すればいいのです。きょうび国会議員に本義を放擲した輩を選んでしまった国民として、これほど恥ずべきことはありません。誰もが、スタディをつうじて学び、議員を瞬時にして見極める眼を養わなければなりません。「国会崩壊」している国といえど戦後の大ピンチの中、亡国の言論に流されないスタンスでこそ、自らを高めるべきではないか。この国は切羽詰まっており、自分で考えるしかありません。それなくして、どの面下げてこの生を全うできましょうか。国民を愚弄する一部の野党議員に限らず、似たようなレベルでは与党の売国の輩と言えど、地獄行き確定でしょう。議員名をあげつらいたいところですが、記事が穢れるのでやめておきます。

「戦争しないことを考えたい」などとは当たり前だと感じるかもしれませんが、歴史が戦争を繰り返しているのは今さら言うまでもありません。人間は戦争する動物のようです。
民主主義の世になってからも、それを繰り返しているということは、国民もそれに賛同してきたということであり、政治家やマスコミに乗せられてきたということになります。われわれ国民は、政治家やマスコミやインテリ層を厳しく批判できる眼を持たなければなりません。誰の考えが間違っていて、どの情報があやしいのか、正しいのか、その判断力は国民一人ひとりの手にかかっています。

その意味で「お花畑が戦争を招く」(▲註)ことにつながるものであり、ここでは「戦争しないために」について、考えをまとめようとしているわけです。

戦争しない方法とは

再三にわたりドクター苫米地の「真説・国防論」を参照しますが、国防に関わる政治のうち、ハード対応というべき軍事・軍備については同著に依拠しつつ、ソフトの部分について検討してみたいのです。

国連とはそもそも、枢軸国である日本を負かせた
戦勝国の集まりに過ぎない

憲法第九条には「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と第1項には立派過ぎて空疎なことが、第2項にも「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と「お花畑」なことが書かれています。「放棄する」や「戦力を保持しない」と言っておきながら何かおかしい。ちょっと考えてみるとこれはスローガンであって、方法論がないのですね。憲法とはそういうものかもしれませんが、日本は第二次世界大戦で敗れた国であり、枢軸国として国連憲章で「敵国条項」を課せられたわけです。平和ありきというより、手足を縛られた面が如実です。憲法九条があるから平和を維持できているなど、「お花畑」の極みというべきです。憲法の底意に対する不見識はさておき、いま、私には戦争しないための方法という発想や視点が欠落していることに、初めてのように出くわしています。

平和を維持するためにではなく、「戦争しないために」を考えることが、積極的な平和志向になると考えます。端的に言って抑止を考えたいと思っています。いわゆる軍事でいう抑止ではなく、軍事・軍備以外にまで広げての抑止という概念です。したがって、この論では、軍事・軍備以外の領域を抑止につなげるところが焦点になってきます。抑止最大化作戦です。

軍備・軍事による抑止と、支配をめざした
能動的意志行動による抑止

軍事・軍備を抑止力としてのものにするだけでもこの国では大変なことになりますが、軍事予算を増強することと、この領域の考え方はドクター苫米地頼み、ということです。一言だけ触れておくとすれば「電池式潜水艦+巡航ミサイル+特殊部隊」(p 149 苫米地「真説・国防論」より)です。軍事・軍備以外とは、思想のことと言えるのではないか、と思います。この場合念頭にあるポイントの一つはC国を想定するということです。差し迫った脅威と言っていいかもしれません。もう一つは、対米戦略です。

できればスイスのように武装中立国にできればいいのですが、この国際情勢下では非現実的かと思われます。言わずもがなですが、歴史的地政学的に世界のパワーバランスの均衡の中にあるわけであり、まっさらの状態から
始めることなどメルヘンでしかありません。

日本はペリー来航以来「世界の中の日本」を自覚したと言えましょう。もちろん、それ以前に元寇もあったのですが、歴史が大きく動き始めるのは、開国を迫られてからのように見えます。隔絶した島国として「引きこもり」を続けるわけにはいかなくなりました。とはいえ、その後二つの大戦を経ても神武天皇以来、本質的には「島国根性」は変わらないようです。この「島国根性」とは、影響を受ける、活用することは得意でも、影響を与えることには無関心という、能動性の希薄を問題にしています。ゼロではないのですが、またその利点もあるのですが、この長い歴史の中で、その欠点が綻びを見せ始めているかに思われます。

この論では大谷選手を米国に対する交渉力の
メタフォアとして登板してもらいました

開国しました。文明開化しました。お雇いを入れ富国強兵しました。日清日露で勝ちました。大東亜戦争で負けました。アメリカに原爆を落とされました。戦後、経済大国になりました。経済は重要も、アメリカに裏支配されて嬉々として、いい息子を演じている。まだまだ親父の力を頼らざる得ず、できれば頼り続けたいと思っている。親父も息子を盾にしたい場面もありそうで、もう少しそばに置いておきたいのが本音。アングロサクソンの国にリスペクトを忘れない孝行息子は、隣国にもいい顔をしつつ、白蟻に侵食されている事態に目をつぶりまだ医者に行かなくてもいい、と高をくくっている…

ドクター苫米地の国防論では、経済では負けなければいい、ということに対して私は疑義を感じ、それに加えて、相手に「勝たせない」当方の能動的行為が必要ではないかとしてMAX-MINI戦略と呼んでみました。この考え方を伝えるために、C国の「超限戦」のようにあらゆる領域において、相手国に仕掛けることを言おうとしています。戦わずして勝つ ─ 戦争せずして勝つ ─ ために、相手を勝たせない有りとあらゆる工作を行なうという考えです。

戦争と国家意志

軍事や政治の専門家ではない私が、どんな論を述べたところで、現実的なインフルエンスのあるものにはならないでしょう。しかし、これは有効性の問題ではないと言っておきましょう。一昨日の瑕疵を鬼の首を獲ったように国会で騒ぎ立てる政治家や、明後日の方向に偏向して報道を繰り返す国益を忘れたマスコミに、日本を牽引する力はありません。今のいま、この国のことを国民一人ひとりが、模索して意見を沸騰させるべき時ではないかと思います。そのことの積み上げが、国防の気運をリアルにしていくと信じます。そういう意味では、素人国民こそ、国家のことを論じなければならない時代とも言えます。

すでに、軍事以外については、「超限戦」のように相手国を工作するような行動が必要ではないか、と述べました。これは、相手国を支配しようとする意志であり、構想力です。
最終的な支配が目的ではないのですが、自国が籠絡されないために、相手が勝てないようにする戦略です。支配を目的にしたら戦争に勝つという方向も出てきてしまいます。あくまで戦争しないための思考です。

横浜では明治の近代化の足跡を
実感できる

私は、以前横浜を訪れ、開港資料館でカルチャーショックを受けました。それは、明治の
横浜が都市としてインフラ整備されるには、当時大量に招き入れたお雇い外国人(横浜はRブラントン)の指導があったという展示に接してでした。これでは、ダメだ、こんにちの日本のダメさはここから始まっていると感じてしまったのです。教えを乞うことが情けないのではなく、それだけで終わっているという点です。直接はつながらないかもしれませんが、以下に西部邁からの引用でその説明に充てます。横浜の都市整備化を問題にしているのではなく、日本人の精神の根っこの部分についてです。
「····戦後日本の気分は、もっというと近代日本の気分は、夏目漱石がとうに見通したように、国民の歴史感覚から『内発』したものとはいえません。国家の外部からやってくる環境条件の変化に適応せんと努める、という形での近代化に明治維新以降の日本は励んできたのです。それを漱石は『外発的な近代化』とよびました。」(p89 西部邁 「核武装論」より)

私は、実戦争以外の領域のアクションをC国の「超限戦」を持ち出して語っていますが、別の言い方をすれば「経済戦争」とも言えます。「経済の現実そのもののなかにすでに政治がかかわってきているのです。」(p240 上記同著)と、再び西部邁を頼りますが、実はドクター苫米地も「物理的戦争」に対する概念として「経済戦争」を用いています。要するに申し上げたいのは、苫米地英人氏が「真説・国防論」で「経済戦争では負けなければいい」という論に対して、経済戦争では相手を勝たせない取り組みも必要というのが、私の結論です。
経済戦争で相手を弱らせることが実戦争の抑止につながるという思考です。もちろん、軍事上の抑止策もあった上での話です。

K国を笑うのは「目糞鼻糞を笑う」たぐい。
この国のお花畑は満開です

経済戦争特にインテリジェンスについては、陸軍中野学校の歴史があるわけですから、こんにちの御座なりを払拭してもらいたいものです。昨今のセキュリティ・クリアランスの制度施行や、放送法の適正化などの動きに対しての、高市早苗大臣への揺さぶりを見れば、この国の「お花畑」ぶり満開というところでしょう。自分の家族や子孫を守るために、国家観・国防をどう考えているのか?

米国とも交渉力を堅持するためには、安倍元首相のような提案力や影響力を継続させなければなりません。私らから見てK国の政治は腰が定まらない軟体動物的ですが、思うに米国から見て日本の政治も似たようなものか、という気にさせられます。背骨のしっかりした国家にしなければなりませんし、WBCで勝っておいて「リスペクトは忘れません」という神経こそ、重要です。米国政治のバックルームで蠢いている国際的なお金持ちたちへの牽制球も必要でしょう。そういう意味での支配を目標にしないことには、ワク〇ンを買わせられ、丸め込まれるだけの都合のいい国であり、日米安保があっても、いつでも梯子をはずされかねません。

国会議員、それを食い物にする官僚、地方自治体議員、学者、教師、評論家、弁護士、マスコミ····、この人たちをわれわれ国民は、よく見ておかなければなりません。香港は終わりました。台湾の自由の行く末を見過ごすわけにはいきません。
宗教に興味があるわけではありませんが、至言ではありましょう。
「この生(しょう)を空しうすることなかれ」★

(お花畑が戦争を招く⑭ 次回投稿予定)

(▲註)
「お花畑が戦争を招く」
本シリーズ記事のこと。すでに12回投稿済み。記事別閲覧数の多い第1回のリンクを下記に貼っておきます。




いいなと思ったら応援しよう!