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「お花畑」としてのスタバ
〈SungerBook-カラーグラス10〉
―「お花畑」が戦争を招く⑦
ずいぶん昔のことになるのですが、職場の同僚にアメリカ大好き人間がいて、そんな人に出会って驚きました。尊敬するとか、軽蔑するとかの感情はありませんでしたが、強烈に好きなことがもてるとは、少しうらやましいような気がしたと記憶します。その当時は、「I ♥ New York」のロゴマークもおおいに流行していたものです。
この国に定着したカフェ
もし、今彼に会うとすれば、カフェならスターバックスでの待ち合わせになることでしょう。いや、とっくに移住しているのかもしれません。私自身は特にスタバが好きとかはありませんが、強烈に嫌いということもありません。ただ、好んでスタバを選んでいる人々を見ると、微妙な感情が生じます。
今や、世界最大のコーヒーチェーンらしいですから、その出店戦略は凄まじいと言えましょう。日本じゅうどこの街角でも見かけるようになり、7年ぐらい前に鳥取県に初めてスタバができたことが、話題になったかと思います。もう、スタバのない県はないらしい。
その上、スタバックスコーヒージャパン株式会社ができたのは1995年ですから、日本にマクドナルド1号の銀座店が1971年にオープンしたのに比べれば、まだ30歳にはなっていないという意味では若い。マックについては、1973年だったと思うのですが、銀座店で買って初めてハンバーガーを食べたものの、あまりおいしいとは思わなかったと思い出されます。
また、スタバもマックもルーツはアメリカなわけですが、どちらかというと、スタバの方にアメリカ臭を強く感じます。日本上陸時の出店イメージ戦略のせいなのか、自分が出会った年齢のせいなのか、はっきりしません。後者の意味は、年齢を重ねるほどに自分の思考におけるアメリカへの意識が大きくなってきていることと関係しているのかもしれないという気がするからです。アメリカが好きになってきたとかではなく、日本の歴史におけるアメリカの意味を意識し出している結果からきているのかな、ということです。
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「好んでスタバを選んでいる人々を見ると、微妙な感情が生じます」というのは、アメリカブランドに乗せられた人々という視点が、惹起されるからです。自分の中で明確に意識しているわけではないのですが、なんとなく、「オレはアメリカには乗せられないよ」的反発心が芽生えて、ライトな優越感に落ち着くという感じです。
アメリカはいつ、日本に入り込んできたのだろう?アメリカ文化を日本に浸透させたインフルエンサーは誰だっけ?さらに、もう少し我が身に引き寄せてみれば、私にとってアメリカはどこから来たんだっけ?と考えてみると、まずバート・バカラックでしょうか。
十代に随分聞きましたし、今でも聞きます。一年ほど前にたまたま見た動画で、年老いたバカラックを顕彰する企画らしく、オバマ大統領を迎えてのコンサートがありました。バカラック曲を演奏や歌で味わうのです。もちろん、主賓はバカラックです。御本人がピアノを弾いたりもしました。それほど大きなホールではなくむしろ、限られた人が集まったという感じです。それを見ていて、私は何とも言えない感動に包まれていました。歌手の歌いっぷりに、演奏者の集中に、来賓客の視線に、それらの渾然とした雰囲気に、文化的な成熟の豊かさのようなものを感じたのです。これがアメリカか!と思ったものです。日本での費用をかけた著名グループの音楽会であろうと、自分の好きな韓流歌手のコンサートであろうと、こういうクオリティは得られないだろうと思わせるものが、確かにありました。具体的に何が?とか、どこに?とか、言えないのですが、正直、アメリカにかなわない、と感じていました。
スタバは下部構造
音楽以外で何か染まったものがあるかと言えば、例えばサリンジャーもスティーヴン・キングも読みはしても、熱心な読者ではありません。アメリカ文学を肥やしにしたと言われる村上春樹氏の作品も、読んだのは「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」ぐらいのものです。やたらとサンドウイッチが食べたくなるという影響は受けましたが…
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しかし、自分の関わってきた仕事を振り返ってみると、アドバタイジング業界といい、ショッピングセンター業界といい、これはアメリカ発祥だったことに思いが及ぶと、ちょっと驚きです。アメリカ文化が入ってきた時代に生まれたからこそ、己れの生計がたてられたということになり、自分はこの時代に生きる運命だったのかもしれません。この意味では、アメリカはわれわれの環境としてあったということになります。
私たちは、アメリカスイッチのON・OFFを選んでから受容しているわけではありません。私がバカラックを気持ちよく受容したように、いいと思うものは自然に流れこんでくるだけです。音楽・文学に関わらず、コーヒー・クッキーや、ジーンズ・インターネットに至るまで、芸術や生活文化については、感性や嗜好や利便性で消費されていきます。しかし、これが政治や思想などになってくると、そうはいきません。歴史的事実を踏まえる時、あるいはこの国家環境を見据える時、われわれが日本人であることを強く自覚させるものが生じてきます。
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私はアメリカは「先生」だという気がします。アメリカ文化の提供者という意味です。
先生が教えてくれる知識・考え方が面白いとその分野が好きになるだけではなく、先生に対する尊敬が生まれ、先生という人間をまるごと好きになることが起きると思います。その分野の学問について、生徒として学習内容の受け入れだけに満足し、人間として自立して熟慮することを欠如し、批判的視点などをもてない事態になるといったことを言いたいわけです。スタバをアメリカ文化を許容したシンボルかつ、日本国民に根づいた経済的装置としてピックアップしています。これはいわゆる下部構造と捉えられると思われます。
「アメリカ教」の浸透
一国民の観点から離れて、日本という一国家から見たらどうなるでしょうか。ここで、日本という国家を一人の人間として、マーケティングでは必ず出てくるマズローの欲求5段階説を使って分解してみたらどうなるでしょうか。一旦、おさらいしてみます。
①生理的欲求
②安全欲求
③社会的欲求(愛と所属の欲求)
④承認欲求(尊敬の欲求)
⑤自己実現欲求
これを踏まえて以下の通りです。
〖日本のアメリカに対する欲求5段階説〗
日本は敗戦後、その後を生き延びる道を選んだ(生理的欲求)。
軍隊を持てなかったので日米安保条約にて同盟を結んだ(安全欲求)。
経済成長に成功し大国として国際社会における役割を自覚するようになった(社会的欲求)。
安倍晋三元首相の尽力により開かれたインド太平洋戦略やクアッドなど、世界に認められるプランを打ち出した(承認欲求)。
日本国としてのアイデンティティが曖昧で、大局観や国家観や構想力がもてず、自己実現欲求は希薄と言わざるを得ない(自己実現欲求)。
このようにマズローを適用させてみると、日本のアメリカへの心理が少しわかるような気がしてきます。
しかし、問題だと思うのは、このnoteの文脈でいえば、先生たるアメリカに対して尊敬あるいは従属するばかりで、批判精神なく、まるごと受け入れるばかりで、自立した思考ができていないことです。これは、何を言おうとしているかというと、アメリカによる日本の戦後処理の中で、何かを捨て去ってしまったものがあるのではないか、ということです。原爆を落とされ、敗北の憂き目を見て、とんでもなく大変な事態だったわけですが…。負けは負けとしても、国家の理性や意志が駆動しなくなったとでも言うような何かのことで、ひたすら「アメリカ教」が蔓延してしまっているように思われるのです。戦後77年のこんにちにおいてもです。もう、これは宗教ですから日本の上部構造と呼ぶべきかもしれません。
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政治学者の白井聡氏は、思想家の内田樹氏との対談で「ソ連が崩壊してしまうと同時に、日本はアメリカから見て、助けてあげるべきパートナーから収奪の対象に変わった」と述べています。この指摘は、アメリカの日本に対する態度の是非というより、白井氏のアメリカ観の表現にアクセントがあるように感じられます。反米というか、侮米的な感情の表出で、いかにも左ききの方という感じです。
しかし、「アメリカ教」を信奉する日本とすれば、信教心に基づいて当該団体に喜捨しているのであり、それは自らの意志の為せるところなのではないでしょうか。このことは、
安倍晋三元首相の暗殺事件関連して、クローズアップされている、某宗教法人と信者との関係と同じ構図です。
日本は去勢されている
日本は敗戦によりアメリカの51番目の州になったわけでも、植民地になったわけでもありませんが、緩慢な支配は手が込んでいます。
上記の同じ対談の中で、内田樹氏が戦後日本は「リアリスティックな戦争経験の評価を行なうべきだった」と語る通り、日本には、何か大きな空洞というか、欠落というか、スッ飛ばしてしまったものがある、と私も考えています。このテーマはこの記事ではこれ以上触れませんが、これは登り出したらとてつもない大山脈として立ちはだかっているような気がします。
日本を擬人化してマズローを当て嵌めてみたわけですが、もう少しシンプルに言うなら、アメリカは日本にとって、先生であり、親分であり、用心棒とも言えます。先生とは、アメリカ文化の提供者のことで、親分とは、精神的経済的貢ぎ先のことで、用心棒とは安保条約のことです。用心棒は以前に比べてだいぶやる気が失せてきているようで、あまり当てにしない体制が急務でないでしょうか。
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特に、憲法に裏打ちされた軍隊をもてず、確固たる防衛力を持てなかったといえますが、
このことは適切な防衛予算が確保できていないことを指摘したいのです。事実上の軍隊はあるわけですから。また、軍事技術への転用を少女のようにこわがる学術会議の幼稚アレルギーという国家観のない思想の問題も大きいと思います。これは、親分が日本に施した憲法やWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の賜物でしょう。「アメリカ教」を尊崇していたので、これは信仰者の側の問題も大きいといわねばならず、信者のふりをしつつ自立した振る舞いの道をとることもできたのではなかったでしょうか。「去勢された日本」とは、アメリカのせいでそうなったというのではなく、「アメリカ教」に安住して、自らの理性と意志でリアルに立ち向かうことを捨てた信者に成り下がったことを言いたいのです。
一般庶民の感覚として「戦争に負けたから、属国なのさ」とか「植民地だよね」という実感があると思います。その上で「スタバがいいね」とか「私、スタバする」と能天気に染まっているから「お花畑」と言いたくなるわけです。危機感のないおめでたい心性であり、下部構造においても去勢は自ら行なったと言われてもしょうがないでしょう。
「アメリカ教」のおめでたい国家に、アメリカナイズされたおめでたい国民、かくして
日本国の未来は甚だあやしいものが漂っているかのようです。今日、蔡英文総統辞任のニュースが入ってきています。これが、どういう意味をもっているのか、大いに気になるところです。最早、台湾問題は日本問題というべきフェーズに入っているわけで、わが国の政治的リーダーシップが問われています。
用心棒として、あるいはセコムとしての日米安保条約の実効性が疑われる情勢になっているこんにち、この国もスイスのように重武装中立といった国家意志を持つことは難しかったのでしょうか。親分とすれば、東アジアの安全保障を見据えた時に、いろいろな意味で子分の国を自在に活用する構想があったのかもしれません。一昨日の11月25日は、三島由紀夫が自裁してから52年になりました。本当に日本は三島の心配した通りに進んでいるような気がします。また、ウィキペディアによれば、23年前に自裁した江藤淳も、アメリカ研究の中でこの国への深い憂慮を抱えていたのだろうと、想像させるものがあります。すでに、アメリカの軍事力にさまざまな意味でかつてのようなパワーが疑われているおり、某国は虎視眈々と我国を狙っているように思われます。「アメリカ教」が「お花畑」への道となりつつあるのかもしれません。
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マズローに倣い、スタバを利用する心理を、飲み物を求めての生理的欲求と捉えることができるかもしれませんが、飲み物とは逆の生理的欲求でも利用することはあり得ることです。ハイキング等で女性が「お花畑に行ってくる」という時、生理的ニーズを意味する使い方があります。このように考える時、日本中に店舗展開されたスタバとは、喫茶コーナー併設の「お花畑」という見立ては、あまりにアメリカに対するルサンチマンが過ぎるでしょうか。★
(補足というか蛇足になりますが、ここで用いている上部構造・下部構造は、必ずしも原義に沿っているものではありません。)
(「お花畑」が戦争を招く⑧ 次回投稿予定)
参考資料
・白井聡 内田樹 著「日本戦後史論」
徳間書店 2015年2月
・佐伯啓思 著「日本の宿命」
新潮新書 2013年1月
・ウィキペディア 「WGIP 〉論評など」