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Ph.D.苫米地は「お花畑」か

〈SungerBook-カラーグラス15〉

―「お花畑」が戦争を招く ⑫

ドクター苫米地の「新説・国防論」をテキストとして、本ブログの前々回は、内容的にわかりやすさ含めて同著を絶賛し、前回は疑問点をフィーチャーして述べたという格好か、と振り返っています。今回はあらためて、同著の言わんとするところを誤解なく読み込まなくては、と考えています。

三度に亘って「新説・国防論」について踏み込まなければならないのは、このテーマに深さと広がりがあるせいなのでしょうか。一口に「国防」といっても、防衛、安全保障、軍事、戦争、国家、同盟、戦略、政治、外交、台湾、中国、ロシア、北朝鮮、ウクライナ、アメリカ····等いくらでも派生的に関連してきます。といって、ただ風呂敷を広げることより、本質に迫り、その論理を緻密に組み上げる、建設・構築をこそめざすべきと思います。そのためにこそ、苫米地英人氏を参照しようと思っているわけです。

英語でアゲインの次の三度(みたび)をトライスと言うようですが、氏の著書を何度も引き回してしまうのは、非常にわかりやすくその論述内容が私に入っているせいかと感じられます。
そう思ってみれば、氏が言わんとする全体像を掌握しなければと思います。私が前回疑問に感じた点についても、この著書の全体の論旨から再度検討する必要を感じているものです。今、この時点で私の結論が見えているわけではありません。残された文字数の積み上げを通じて、どこに到達するかは、未知としか言えません。

戦意ある国の存在

いま何故国防か、というそもそも論から始めてみれば、人間が一人では生きられない社会的存在であるように、国家も単独では存続できない地球的、国際的存在であるからでしょう。存在の条件として地球上の人間の宿命ということになるのでしょうか。
そういう中で、最早一国だけでは存続できない関係性が地球上にできてしまいました。望むと望まざるとに関わらず、鎖国できないということです。特に最近のことではありませんが。

そんな中にあって、望まざると望むとに関わらず、こちらに敵意をむき出しにしてくる人や国家があります。学校で、不可解に好意と敬意を表してくる同級生がある一方で、何かのきっかけから嫌悪感と敵意をぶつけてくる輩が、いなかったでしょうか。そういう人と同じような国家が歴然と存在しているから厄介極まりありません。

てかC国の民主化は有り得んから

国際関係のスキームとして、「正義・利害・力」(高坂正堯著「国際関係」)または、「価値観、繁栄、安全」(兼原信克著「日本の対中大戦略」)を持ち出してみれば、中国は日本を支配しようとしているかに見えます。当然ながらアメリカとの関係性の中で日本を捉えているわけで、アメリカ内部にも触手が伸びていることは、バイデン大統領や、大統領選挙への関与をみれば、推して知るべしというところでしょう。「百年国恥」をはらそうとすることは中国共産党の正義であり、経済成長を支えるために「····軍事基地を建設することは、『中国の国内経済、ひいては国民生活を守る』ことに繋がります。」(「真説・国防論」p28)と苫米地氏は中国の「国防」を語ります。この文脈の趣旨は、世界はこれを「国防」として見ていて、このことで覇権国家とするのは適切ではないとされています。兼原氏によれば「····民主化は当分来ない。今のままでは来るはずもない。習近平は、自由への道を開くことは、共産党の支配を揺るがす国家反逆の罪だと信じているからである。」(「日本の対中大戦略」p124)と言いきっています。

今となっては、中国が経済成長すれば民主化するとの迷妄は世界が呪術にかかったようなもので、ひょっとしたら、それは安徽省の黄山に住む仙人の発案だったなどと言う噂に惑わされることなく、それは霊格の低い似非仙人のジョークであろうと言うべきでしょう。てか、だから恐ろしい。

「経済戦争」とは一体戦争か

前回のブログに書いた通り、私は苫米地氏が経済戦争では日本は勝てないものの、負けなければいい、という論述について疑義をもったのでした。そこで問題なのは、所有権ではなくアクセス権の平等性だということでした。アクセス権が担保されれば、領土問題についても問題がない、ということでした。それが私の疑義の発端でした。端的に言って超限戦を仕掛ける国に対して、それでいいのかということです。

私は「所有は支配の始まり」と考えています。何せ先様は「孫子の兵法」のお国です。戦わずして勝つことを旨としていて、戦争に勝つことよりも周辺から、その一つとして経済戦争に勝利することをめざしているのかもしれません。経済などで支配できればいいと考えているとしたらどうでしょうか?日本がマーケットとしての中国に依存すればするほど、あるいは、サプライチェーンを展開すればするほど、あるいは、安価な労働力に頼れば頼るほど、相手に支配機会を与えることを意味します。2国間の経済交流関係として、安心安全が担保されればいいのですが、そこが問題です。

平時が戦時に転換した瞬間、すべてが「質」になってしまいます。「人質」「物質」「情報質」「金質」等、オセロゲームの駒色が一気に転換してしまうわけです。その点でいえば、戦時のために経済戦争を平時に有利に戦っておけばいいという意味では、日本の民間企業、学者、政治家など、すでに「質」に取られているようなものかもしれません。ということは、これは戦時のために平時に支配を張り巡らせておく戦略ですから、これはまだ平時です。しかし、これを「経済戦争」「情報戦争」としてみるなら、すでに負けていることになるのでしょうか。苫米地氏の言う「経済戦争に勝てなくても負けなければいい」とは、一体どういうことでしょうか。いや、これは平時のことであり、問題にするに当たらないと捉えていいのでしょうか。

沈まない空母は「鉄板」

苫米地氏が「真説・国防論」で例示されている経済戦争では、中国が日本を弱体化させたいために、軍拡させたいということを紹介しています。軍備はお金を費消するからです。
つまり、戦争を広く捉えて「経済も戦争」と捉えるのが経済戦争ということでしょう。
もちろん、アメリカ陣営の中国最寄り基地としての日本を叩けば、自国に有利な状況を形成できるからです。何度も表現が使われますが、日本は「アメリカの不沈空母」というわけですから。

「経済戦争に勝てなくても負けなければいい」についてですが、私は氏に反論を展開したいわけではありません。氏の「論点」はわかるのですが、そこから連なる、いわば「論線」がわからないのです。たぶん、私に見えている論は雑過ぎて、氏の言わんとするところが捉えきれていないのでしょう(「論線」とは私の造語で、論点に沿った文脈のことです)。

MINI-MAXからMAX-MINI 戦略へ


経済戦争は「勝たなくても負けなければいい」のではなく、「負けないために勝たせないようにすべき」ではないのかと考えています。勝ちを目標としないが、負けない方法として、という視点でです。ミニマックス戦略ではなく、マックスミニ戦略です。こちらの生死がかかる場面では、相手をやっつけられはしなくても、命をとられなければ腕1本折られてもいいではなく、相手が勝てないようにやっつけるべく戦ってこそ、当方の命が守られるという考え方です。相手を勝たせないために、相手への何らかの能動的なアクションが必要ではないかと考えるわけです。

狭い意味での経済戦争でいえば、経済で相手を弱体化させることが戦争条件(パワーバランス)を優位にする、ということです。トランプ大統領がアメリカから中国企業を追い出したようなことです。そこには、アメリカをマーケットとするビジネスをさせないという意味と、諜報戦を排除するという狙いがあったかと思います。それに引き替え、わが国は機微技術を中国に提供する学者を放置するというオメデタサが蔓延しています。まして学術会議は、科学を軍事に活かさないで「お花畑」になっているのは、亡国行為というべきでしょう。戦争しないためにこそ、抑止力として、相手に勝らなければならないのではないでしょうか。

ここで、前回ブログ以来、苫米地氏の「勝たなくても負けなければいい」という論に対する私の疑義を、もう少し突っ込んで検討してみるために、「真説・国防論」をふり返ってみましょう。氏は、第4章「世界の軍事の現状を考える」(p 110~p184)の70ページを超える最後の末尾2行で以下のように結んでいます。

「経済戦争においては、必ずしも勝者となる必要はない。日本の国防においては、『負けない立ち回り』が重要なのです。」(p184)

この第4章の全体構成を見渡してみると、丁度中頃のp149ページでは「『電池式潜水艦+巡航ミサイル+特殊部隊』が最強の抑止力」という見出しが立っています。ということは、具体的な物理的な最強の抑止力を示しているということであり、それを前提として「経済戦争における国防とは何か?」の見出し以下の末尾で「負けない立ち回り」が重要と語っているということです。つまり、「負けない立ち回り」の一文だけではなく、この章の構成、組み立てから立体的に読み解けばいいのでは、という気がしています。
さて、本当にそうなのでしょうか。

戦争しない方法はないか

今のところ、私が問題にしているのは第4章に集中していると思われます。引用が多くて申し訳ないのですが、対象を明示しないことには、批評できませんので、以下第4章の見出しを展望してみます。

プーさんには迷惑。似てないから。

第4章 世界の軍事の現状を考える
●「一帯一路」─世界を牛耳る中国の野望
●日本を軍拡させたい中国
●「ミサイル防衛システム」という虚構
●核兵器は貧しい国の兵器
●現代の「クリーン」な戦争
●「電池式潜水艦+巡航ミサイル+特殊部隊」が最強の抑止力
●敵基地攻撃の問題点は、「いつ攻撃するか!」
●経済戦争における国防とは何か?

「経済戦争」と言いますが、それは戦争なのでしょうか。経済も戦争と見るならそうなりますが、戦争というものが多面的に他の領域にも関わっているから、経済もその一つであり、構成要素として重要度が高い分野ということかと思います。経済における戦いは、実戦争への影響度が大きいとも言えましょう。
上記の8つの見出し中、5つが経済戦争に関わっていて、実戦争・純戦争に関わるものは3つしかないと思います。ドクター苫米地は「物理的戦争」という表現を採っておられます。

もし、実戦争をしない方法として経済戦争に勝てるなら実戦争に至らないというなら、経済戦争にシフトすればいい、とは私でも考えるところです。
ところが、上述で見出しを列挙した中にある通り「現代の『クリーンな戦争』」には、「私はこれまで、『戦争とは経済が引き起こすもの』とのべてきました。」とあり、以下中略しますが続けて「ですから、『戦争で勝つ=経済で勝つ』ということ。その意味で、物理的な戦争と経済的な戦争はイコールでもあります。」(p145)となっています。

しかし、氏は第4章の終盤に至り

「フラットな視点から考えた時、巨大な人口と資本を持つアメリカと中国という二大国に経済戦争で勝利することは不可能だという結論に達します。ただし、勝てはしなくても、負けない方法があります。それは、『アクセスの平等性を堅持すること』です。」(p180)

とまとめます。そして、その約3ページ先の第4章の結びで、先に引用済みの部分を再び繰り返せば、

「経済戦争においては、必ずしも勝者となる必要はない。日本の国防においては、『負けない立ち回り』が重要なのです。」(p184)となるわけです。

本当に「負けなければいい」のか

記述の展開で私が感じている疑問が明確に表現されているかわかりませんが、経済で勝つすなわち経済戦争で勝つことが戦争に勝つことだ、と述べる一方で、米中には経済戦争で勝つことは不可能と語り、アクセスの平等性さえ守り、「経済戦争において、必ずしも勝者になる必要はない。」ここ、なんかおかしくありませんか。

「経済戦争」において負けなければいい、とは、狭い意味での経済の戦いのことを言っているのだとしたら、そもそもは、実戦争につながる、戦いを戦う方法論としての経済戦争なら、「戦争で勝つ=経済で勝つ」ことが求められるのではなかったでしょうか。その本意は物理的戦争で勝つというより、物理的戦争に至らないために相手により優位に立つといった方向性です(ここは、別途詳細な検討が必要でしょう)。

ここに至って私は、論理的破綻を感じてしまうのですが、レトリック上の突き合わせではなく、構成内容上で読み解くべきことかと思います。とはいえ、まずは、

経済的に勝てない ↔ 経済戦争で負けなければいい

これが成立するのか、矛盾していないか、というのが私の疑問です。
氏の論の組み立てでは、勝てないことと、負けることは別であり、「負け」に至るまでに
相当の幅があると想像させます。別の言い方をすれば、経済戦争では勝てなくても、戦争につながる経済の戦いでは、負けない道があるのだ、と語っているように思えます。

で、やっと辿り着いたこの地点から、改めて苫米地国防論を読む時、第4章、第5章、第6章と展開される具体的プランの真意が呑み込めるような気がしてきます。

さりながら、「アクセス権の平等性が堅持されればいい」として中国による土地、インフラ、日本人の精神(国家観)の所有=支配戦略を放置していいとは思えません。自らの国民に対して、国安法や国防動員法や国家情報法で締め上げ、他国には超限戦やサイレントインベージョンを仕掛け、何しろ専制独裁政権の国が日本を支配したら、皇統も、歴史も、表現の自由も、日本語も、制度も、文化も、それこそ日本の終わりです。お父さんがアメリカから中国に替わったという、そういう問題では決してないでしょう。

世界を一人占めしたがる人が多過ぎる

特に私は、ドクター苫米地が「世界は誰のものでもない」と記述するその内容を疑わざるを得ません。中身がわからないからです。

有名な孫子の兵法では「戦わずして勝つ」ことが最高とされるようですが、苫米地氏の戦略では「戦わずして負けもせず」がベンチマークになるのでしょうか。国防の素人でもわかる最強の戦略は、戦争しないための軍事、戦争しないための経済、戦争しないための政治、戦争しないための国家観、戦争しないための国際関係であることは間違いないと考えます。

私は、ドクター苫米地論に対して異を唱えているのではなく、当方の勝ちをめざすのではなく負けないようにすべき、という氏の論点だけでは不足と感じられるため、相手に勝ちをもたらさないようにもすべき、ではないかと考えています。敵に塩を送るようなことばかりをやっていて負けないようにする、ではなく、敵を勝てないように工作を張り巡らせる戦略も必要ではないか、ということです。
これをわかりやすく言うなら、日本版の超限戦であり、サイレントインベージョンであり、諜報戦ではないか、ということになり、負けないだけでは、かの国に太刀打ちできないのではと言う気がします。

そういう、実戦争以外の経済戦争を含めてあらゆる領域での、相手を勝たせない戦略、仮にこれを「支配の戦略」*と呼んでおきますが、こういう思想を提案したいと考えています。
併せて、重武装や、民度を上げる教育や、地球をつなぐ哲学が必要になっている、と言えるのではないでしょうか。★

(「お花畑」が戦争を招く ⑬ 次回投稿予定)

注釈
*「支配の戦略」については、ゲーム理論とは関係なく以前から模索している事柄です。

補足
私は、軍事の素人であり軍備については、苫米地氏の論に100%依拠するものです。それにしても「真説・国防論」が日本にもたらす光明には心底救われる思いがします。ただ、実現という壁がありますが…

参考文献
・苫米地英人著「真説・国防論」2017年12月
    TAC出版
・高坂正堯著「国際政治」1966年8月初版
    中公新書
・兼原信克著「日本の対中大戦略」2021年
    12月 PHP新書






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