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帰ってきた城下町
〈SungerBook-萌え町紀行8〉 仙台②
「萌え町紀行」とは、私がラインブログで連載(今は、noteに移行)してきたシリーズ企画です。いわゆる紀行文とは異なる方向をめざしています。観光客目線ではなく、生活者視点とでも言いましょうか。noteでは「お初」となり、昨年の5月以来の制作となります。
森の中から鐘の音が聞こえる
私の住んでいる住居からは、朝の六時と夕方六時とに、梵鐘が聞こえてきます。それは瑞鳳寺(ずいほうじ)からのものです。実は、一年二ヶ月前からこの地に暮らしており、はじめはさほど気にとめていなかったのですが、ある時期からこの鐘の音が、私にとって何とも言えないものになってきていました。時間が来ると、そろそろ聞こえるなぁ、と思ったり、時間には無頓着でいて突然音に気づいてホッとしたり、梵鐘の存在が私の中で大きくなり始めているようでした。
鐘の音といっても、日々表情が違います。風向きや強さによって音が遠かったり近かったり、湿度や雨などによっても影響を受けるものに違いありません。いわゆる「ゴ~ン」という音ですが、ある日私は、このお寺の鐘楼の近くまで行ってみることにしました。近くといっても鐘楼が見えているわけではなく、このお寺の森裏にあるローソンあたりに午後六時頃に通ってみたのです。
ゴ~ン!始まりました。梵鐘のライヴです。
鐘の音には、正規の呼び名があるのでしょうが、勝手に初音、中音、終音としてみます。
初音は打ち初めであり、橦木(しゅもく)が釣鐘にぶつかって音が破裂しヒビ割れが避けられません。中音は、ヒビ割れが過ぎて、音が気持ちよく延びていきます。終音は、いわゆる余韻の部分でありこの音に惹かれる方が多いのではないかと思いますが、私は中音のどこまでも延びる、可能性の飛翔とでも言うべき部分に魅せられています。
初音と書きましたが、実は初音の前に「捨て鐘」というものがあるようです。鐘の音は時刻を知らせる役目を担っていて、音楽でいうイントロがあるとのことですが、私はこれを確認していません。ちょっとリズムを変えているわけです。そういう意味では、打鐘の終わりにも、それがあると思っています。
なぜ、梵鐘にえもいわれぬものを感じるか、これは少し分析してみる価値がありそうです。里の住民にとっては時計としての役割ですが、私は時報として価値を見いだしているわけではありません。いつの時代から打ち鳴らしているのか、仮に伊達政宗の頃からとしても戦国 ─ 江戸時代からとして、これは「今」を告げているには違いありませんが、そうではなく、過去の歴史的堆積の上での「今」を告げているように思えます。つまり、私は何百年も前の民が聞いたと同じ音を、それを「今」私が聞いていることに思い至るのです。私は歴史の音色を聞いているのであり、それは哲学的でもあり、形而上的でさえある、というのは大袈裟でしょうか。
身も蓋もなく言って、瑞鳳寺の釣鐘自体は直近では、昭和五十(1975)年に取り替えられている、という意味では、音色は過去からは断絶した不連続点があるのですが、そこまで拘泥することはないでしょう。
突然の朝靄は森のため息か
瑞鳳寺、伊達政宗とくれば、この地の匂いが漂ってきていると思いますが、瑞鳳寺は瑞鳳殿(ずいほうでん)の隣にあるお寺です。つまり、私の住まいは伊達政宗の霊廟(れいびょう)、瑞鳳殿のある森近郊ということです。蓋然性があるとはいえ、一方では期せずしてこの地に住むことになり、なんとも曰く言い難い感慨の中にいます。冬から気温がやわらぎ出したある朝、靄が瑞鳳殿のある森を霞ませていました。この風景は、この地にとてもふさわしいもののように思え、シャッターチャンスとばかりに、写真に収めずにはいられませんでした。
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この森は広瀬川流域にあるわけですが、川を挟んで向い側一帯は米ヶ袋(こめがふくろ)という町名です。ある日、午後五時頃にこの地にいたら、梵鐘が聞こえてきました。それは広瀬川の南の方から届いてくるのですが、
瑞鳳寺は北方ですし時間も違っていました。そこで、道端で掃除をしていたおばさんに、「この鐘はどこで鳴らしているのですか」と尋ねたら「瑞鳳寺」と返ってきたので、私は時間が違うので否定しました。そこをおじさんが通りかかり、おばさんが聞きました。その結果、それは愛宕神社からのものだとわかったのですが、その梵鐘が電子音でけしからんと憤慨しています。「おれは愛宕神社に電子音はやめてくれと言ってやったよ」とのこと。確かに瑞鳳寺の音色とは微妙に違うものがありました。重厚感やふくらみがなく音の豊かさが感じられません。とても軽薄で安っぽいのです。私も、このおじさんに百パーセント共感するものであり、そのうち、愛宕神社に投書するぐらいの気持ちでした。
それにしても、梵鐘が電子音だとは甚だ興醒めな話です。愛宕神社はこの地でも有名かと思いますが、実は、全国に幾つもあって、京都の愛宕神社が総本宮のようです。このことを知ったのは池波正太郎の小説に、鬼平が京都に行った際に出てくるのです。私が池波正太郎に興味を持ったのは、やはりこの地に来ていることと有機的に繋がっているのかもしれません。私は江戸の世界にたっぷりと浸ってみたい、そんな気持ちが萌えてきていたのでしょう。伊達政宗は戦国から江戸時代の初期にかけて活躍したようですが、私は「瑞鳳殿」や「霊屋橋」(おたまやばし)や「愛宕神社」や「米ヶ袋」等々に、江戸の匂いを嗅ぎ付けているようなのです。土地というより、時空を超えた時代文化とでも言いましょうか。
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「鬼平犯科帳」は有名ですが、TVドラマは自分で見たことがあるかないかという程度ですが、犯罪物、事件物に興味があるわけではありません。むしろ、山形県出身の藤沢周平の方が小説でその世界を知っているのですが、今回池波正太郎の世界を訪れています。この作家がグルメとは聞いていましたので、そこをどう扱うのかの興味とあとは、いずれ、梵鐘の表現も出てくるかもしれないという、漠然とした期待があるぐらいで読み始めたに過ぎません。
「梵鐘」という小説があった
本当は梵鐘というものの、宗教的な、あるいは歴史的な、あるいは哲学的な、何らかの意味あいを探ろうと思ったのでした。そこで図書館の蔵書検索でタイトルに「梵鐘」を入力してみたら、おもしろそうなのがないもののズバリ「梵鐘」というのがあって、これを借りてみたら小説でした。よっぽど借りるのをやめようかと思いました。私の期待と違い過ぎたからです。
この「梵鐘」は、作家鈴木英治著「手習重兵衛」シリーズ中の短編時代小説です。この物語を繰り、読み終わっても特別のものはなかったのですが、数日してから、ふと響いてくるものがあるのでした。これが、梵鐘のもつ余韻と呼応するかのように感じられて、作家の書きたかったことが理解されたように思いました。その内容にも触れたい衝動はあるのですが、それはやめて各々に感じてもらうべきことでしょう。ここで私が言いたかったことは、この小説との邂逅が池波正太郎の小説に向かわせることになったという、そのことです。(池波正太郎と藤沢周平の比較も面白そうです。)
しかし、私は今この地にいて、時代的な文化の芳香に浸っているとは、自分でもちょっと
意外というか、それを求めてきているわけではなかったはずです。それは事実には違いありませんが、梵鐘などを契機として、昔あったであろう時代の手触り、匂い、世界観が、私の今に現前と帰ってきているかのようです。自分の人生を生きる日常が、過去からの歴史の生起のただ中にあると実感できる感覚、これは、とてもおもしろい発見です。
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以前の私にとって、この町の存在は正に都会そのものであり、東京などは端から目ではなかったと言えます。日本の首都であり、また世界的な繁栄を謳歌していることは事実であっても、あまりに遠すぎて、宮城県の山沿いの地に生まれ育った自分と具体的に結びつけて、人生を構想することは全くなかったし、できませんでした。田舎者の私にとって、杜の都こそは都会でした。
格子戸をくぐりぬけ…
♪家並みが途切れたらお寺の鐘が聞こえる~
昭和46(1971)年、「わたしの城下町」は大ヒットしました。レコード大賞最高新人賞の感激で歌いよどむ小柳ルミ子を支える作曲家平尾昌晃は、なかなかにカッコよく、大人の仕事っぷりのある極致、達成を感じさせました。この時、私らにとってたまたまの流行歌に過ぎなかったわけですが、このメロディに歌詞に、当時の空気や、皮膚感覚や、体臭や、感情色やらがピッタリと貼りついています。と言うと、懐かしのメロディですね、昭和の思い出ですね、と、まだお尻の青い若造が茶化す声が聞こえるようですが、君らの未来は無限の可能性に満ちているのではなく、ひとえに何も選択されていない、確定していない、ただそれだけの話だから。選択と確定の結果に伴う時間の費消と経験の堆積、それを知り得ずして、K-POPやJ-POPの現代感覚だけに舞い上がっていても、薄っぺらぺらではございませんか。そんなオッサンの言葉を聞きたくなかったら、新しい学校のリーダーズのように、昭和をオマージュした曲で、現代に賦活させてごらん、と言っておきましょう。
およそ50年前の杜の都・国分町には、「わたしの城下町」が流れまくりました。有線放送全盛期といえるのでしょう。店名も覚えています。最近そのあたりを通った時に見た限りでは、その名は見つかりませんでした。当時ガールズバーとは言いませんでした。カウンターバーは大人気でした。カウンターの内側で若い女性たちが、客の酒飲み相手をしてくれるのです。ホステスの名前も数名覚えています。確か本名をそのまま使っていました。そういう中で有線放送がガンガン流れ、リクエストもできるのでした。一週間通い詰めたり、吐いても飲んでいました。オイルショックが翌々年後にあることも知らず、この国の経済がひたすら邁進する時期と重なって、若いだけの私らは、何も知らず、ただただもがいていただけのようなものです。
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高名な作曲家のリヒャルト・シトラウスが、わが国の皇紀2600年(昭和15・1940年)の奉祝曲に梵鐘を取り入れたことがあると知って驚いてしまいました。その数が12という記述があれば14という説もある始末ですが、それ以上にナチスの要請を受けたらしく、それが事実ならなんらかの政治的な意図を想像してしまいます。R シトラウスがドイツの人であるからには、時代的にそういうことがあってもおかしくはないのでしょう。
領民の安寧は梵鐘とともに
私の問題意識は梵鐘と城下町の関係、いや、そんなに理屈ぽく言わずとも、なぜ、梵鐘が城下町にあるのか、という点です。学術的な突き詰めはさておいて、仏教や神道・民・為政者、これらに絡んでくるように思われます。為政者は仏教や神道を畏敬もしたし、利用もしたろうと想像します。民の信仰心に沿って接してこそ民を抑えることができる、として、民と同じように古来からの伝統を丁重に扱ったのではないか、とさえ思います。城下を束ねる存在としては、仏教にしろ、神道にしろ、そこに配置された梵鐘とは、大いなる意味があったと考えられます。
(ここでは神仏分離や混淆については深入りしません。ちょっと調べただけで梵鐘の問題の奥深さに驚きます。ヒトラーは日本人を研究していたものと思われます。)
ここまでみてくると、大昔から政治は宗教と連携していたし、ここにはマグマというべきか、カオスというべきか、その類いが顰んでいるかのようです。昨年、与党の某協会との関係を野党から指摘されて、情けない対応をし信教の自由に泥を塗った岸田首相は、一国一城の主として世界に伍していけないでしょう。貧相な野党のゲスな突っ込みに翻弄されるばかりで、なぜ大所高所から切り返せないか。梵鐘のある佇まいとは、聖なる祈りの形式であり、そこから放たれる音は日常的カタルシスに繋がっている、と私には感じられます。この意味で、私は紛れもなく、伊達政宗公の息吹を感受しているといっていいでしょう。梵鐘の音は、時空を超え時代を超え、私を歴史の奔流に投げ込んでくれます。こう思ってみると、私はたまたまこの地にいるわけではない、という気がしてきます。
それにしても、小池都知事が神宮外苑の伐採に加担するなどとは、砂漠の国の大学で何を学んだというのか。伊達政宗は、この地の緑化を推進したと伝わっています。春の陽射しに照らされて青葉通りや定禅寺通りを歩くことの無上の悦び。アルチュール・ランボーの一冊を携え「サンサシオン」を諳んじて闊歩する心の高揚。十九歳の私を国分町に導いた大人の先輩の蠱惑····。継承され、それを甘受してゆくことの豊饒さよ。先人の努力や歴史を軽んずれば国は滅びることにつながりましょう。自己利益だけを追いかけて日本史に汚名を残す貧しさよ。
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魂入らずば梵鐘も響かず
米ヶ袋で聞いた梵鐘がきっかけで、私は瑞鳳寺の鐘楼を確かめたくなってきました。まさか、電子音ではないだろう、かと。
午後六時近くにもなると、観光客向けの駐車場も閉まり、閑散としています。もう、私一人ぐらいになり、不審に思われないかというぐらいの感覚になりますが、地元民ですから気にすることもないだろう、と気を取り直します。
境内に入ると、ほんとにひっそりとしています。いったい、和尚様が打つのでしょうか、それとも別の誰か?だいぶ薄暗くなってきていますが、スマホに手をかけていました。ほんとうは、こんな撮影どうなんだろう、という思いがかすめるのですが、写真小僧魂に火が点いています。
撞木(しゅもく)が揺れます。音が弾けました。捨て鐘はありませんでした。こんなに間近なのに耳を塞ぐ必要もないのは、銅が高熱で鋳造されるという、試練とでもいうべきプロセスを経ているからなのでしょうか。にも関わらず遠方まで届く粘着性を獲得しています。私は、すっかり安堵していました。紛れもなく、人の手の力と、撞木と、梵鐘とで奏でられる音なのです。タイマーでセットしてしまえばスイッチもいらない電子音の無粋さとは違います。血潮たぎる人間が打ち放つ手づくりの音、これが梵鐘というものでしょう。米ヶ袋のおじさんが憤慨していたことは、こういうことだった、と思い至ります。いかにチャットGPTの時代と言えど、魂を納得させるものはやはり魂なんだろう、と私は信じています。
たまたまきっかけがあって、数十年現代の首都に出かけていた私がこの地にもどり、かつて憧れていた都会としての仙台ではなく、そこには、紛れもない伊達の里が歴史のかなたから帰ってきているのでした。★