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記事も撃たずば読まれまい

〈SungerBook-カラーグラス999〉「お花畑」が戦争を招く⑭ 終章


「雉子も鳴かずば撃たれまい」とは、よく聞く譬えですが、「口は禍の元」や「藪蛇」に似た意味ではないかと思います。原義にあたってみると、元になった民話があるようで、
短編小説的な味わいが感じられます。この場ではそれには触れません。

「記事も撃たずば読まれまい」とは、上記譬えの本歌取りであることは、お気づきでしょう。実は、私の前回note「新説・ブログ拡散の一方法」の投稿を行なった際に、Facebookへのリンクを張る際にはテキスト記入を求められるので、その時に作成したものです。即席で作ったものの、意味の広がりを出せそうで、今回のタイトルとして、改めて扱ってみたいのです。

鳴かず飛ばずで14回


note記事「お花畑が戦争を招くシリーズ」は、第14回目となりましたが、一旦ラスト回にしようと思います。毎回、ランダムにテーマを書き散らすのも何だかなぁ、という思いがあり、シリーズものとして挑戦してみたわけです。一回あたり5000字超のボリュームで、すでに13投稿しているわけですが、一つのテーマに収斂した展開として構成できているかといえば、甚だあやしい。これを最初から5000字×14回のボリュームを念頭において計画したものと同等の仕上がりに辿り着けているか、という点ではさらに心許ないというところです。もちろん、そういう計画でスタートをしたわけではありません。

もともと、そのような作り方ではなく、毎回統一的小テーマをリピートしつつ、全体テーマを持ったものにできるか、そこをやってみようとして始めたことではあります。一作品をまとめようとして書くのではなく、結果として一作品と言えるようなものとできるか、というようなことです。

記事5回に及んでテキストにした
Ph.D.苫米地の著作

このことは、最終形と方法論という課題になろうかと思いますが、論文を書いているわけではないので、そんなに厳密に考えなくてもいいのでは、という気もします。制作中、テキストとして参照した本は、10冊強になり、特にドクター苫米地の「真説・国防論」は本記事を含めると5回に亘って参照することになりました。私の問題意識にとって、大きな一冊となりました。何しろ図書館からの連続再貸し出し4回とは、誰か他に予約する方が出てこないとは、私にしてみれば意外な感じがします。こんなにすぐれた本なのに…。

ところでFacebookにリンクさせた「記事も撃たずば読まれまい」とは、記事の拡散方法に触れた内容でした。拡散というほどのものではないのですが、LINEやメールでつながる、親族含めたわりと近い関係者へnote記事を転送してしまおうというものでした。書くこと以外に、読まれることも意識しよう、ということです。

「撃つ」は読者を狙い撃ちする意味もあり、同時に、記事中の批評の効果を想定するなら「打つ」よりも「撃つ」が適切かと考えます。もし記事内容が読物的なものなら、より多くの読者数へ向けて広く「打ち」、読者の気持ちを「打つ」ものがめざされるべきという意味では「打つ」でもよいのでしょうが、ここでの「論」の性格には「撃つ」がふさわしいと思っています。私のものに限らず、記事一般についても「記事も撃たずば読まれまい」とは、言い得ることではないでしょうか。いわば「打つ」は、やや制作過程に力点を置いて用い、一方、「撃つ」は到達と制作効果に期待があるということになります。

到達をめざして「撃つ」

とはいえ、ウェブ上にアップすること自体読んでもらおうということですから、なんらかのその拡充策は行なわれて当然とは言えましょう。特に、顔も見えぬアクセス者はともかく、親族、友人、知人ともなれば、記事の内容によっては、相手の顔を浮かべれば興味をもってくれるのではないか、と自然に湧き上がってくるその延長で、一捻り企画性を入れて、前回投稿の「ブログ拡散の一方法」を書いたわけでした。(その記事は「お花畑が戦争を招く」シリーズのインターミッション編として投稿)

兄弟甥姪叔父叔母従兄弟友人知人など
顔の見える人にも読んでもらおう

しかし、振り返ってみればその記事の要点は
特に突出したアイデアとも思えず、すなおに
 「私の書いたものを読んでみて!」とストレートに言ってしまうとか、表現アイデアとしては簡単にまた、多様に拡大できそうな話に過ぎず、送付先として親族、友人、知人を読者にしてしまおうというあたりが特徴か、という気がします。

そもそも、SEO対策などのテクニカルな閲覧向上策には、あまり興味がないのです。というか、よくわからない、というのが正直なところでしょう。もし、収入確保に血眼になっていたら、有料ブログを検討していたかもわかりません。もちろん、そのことに全く興味がない、とは言いきれませんが…

批判としての「撃つ」


ある交通標語を俎上に載せてみます。分析・批評は文章制作プロセスと同質と考えられます。(本記事欄外の最下段では、批評ではなく創作と同質と言うべき解釈に挑戦してみました。)

「いちごが好きでも赤なら止まれ」って、ご存知でしょうか。ネット検索してみると、コミックのタイトルのようです。私がわからないのは、横浜市金沢図書館前、国道16号脇に、このフレーズを書いた表示搭があることです。何度考えてもよくわからず、当時の同僚に尋ねてみましたが、それがあることさえ知られていませんでした。

もちろん「赤なら止まれ」を使いたかったのでしょうが、交通標語に求められる達意、すなわちシンプルさどころか、わざわざ意味不明のフレーズになっていて、ドライバーが見たら気になって返って危険ではないかと思わせます。このタイトルのコミックの初版が2000年らしいので、いつ表示搭が設置されたのかはわかりませんが、随分放置されていることになります。

私はフレーズ全体として意味不明ということと、100歩譲ってコミックの元の意味を持ってきているなら、その意味を知りたいのですが、それにしても交通標語としてはアウトではないでしょうか。こういう本質から逸れたところで遊び心を出そうという神経は、文化の衰退を表しています。少々飛躍しますが、この平和ボケと言われる戦後にあって、根本をさておいて周辺で右往左往する「お花畑」は、国会、学会、医学会、裁判所、警察等あらゆる分野に瀰漫しています。
(私は、元のコミックのことは何も言っていません。念のため金沢区交通安全対策協議会に問合せました。しかし、その会はもうないとのことで交通標語として選んだ趣旨は、「藪の中」になってしまいました。もし、ここで交通標語として秘められた確たる意味合いが出てきたりすれば、私がこの文脈で取り上げたケーススタディのネタとしては、「藪蛇」となってしまうのでしょう。)

金沢区交通安全対策協議会は
すでに解散しているとのこと

このフレーズを解釈するなら、ドライバーが好きな苺を食べていて「食べることに夢中になって赤信号を見落とすな」、と私には受けとれます。もし、そうだとするなら、運転中に食べることを前提とする交通標語とは、一体何なんだ、ということです。おそらくそういう設定でこの句を採用しているわけではないでしょうから、別の意味合いを考えるのですが…。あなたの好きな苺と同じ赤になったら注意してという意味でなら、「いちごが好きなら赤で止まれ」でしょう。私としては、西洋人が両腕を広げて肩をすくめる動作をするしかありません。もし、コミックの原意になんらかの明確なものがあり、それが仮に交通標語にフィットすることから採用しているとしても、そのコミックがよほど周知されていなければ、用を為さないでしょう。無駄な社会的迎合を感じてしまいます。

(●この記事の最下欄に、私の推理する「いちごが好きでも赤なら止まれ」の謎解きを記載しています。)

記事を「お花畑」にしないために

いきなり話が逸れているようですが、ここで述べたかったことは、一つの交通標語のレトリックの面に視点を置いての批評例ということです。文章を、「打つ」鋭意のことです。「鉄を打つ」「刀を打つ」ことと同じようにです。このことは制作過程と重なってきますし、正鵠を射ていれば批評につながり、正に「撃つ」効果を獲得できるでしょう。ここでは、どちらかというとレトリックにアクセントを置いています。真の意味がわからないからです。語ろうとしているテーマや、その背景的なことや、テーマの戦略的な面には触れていません。

「雉子も鳴かずば撃たれまい」の教訓に学んで論評には慎重を要します。タイトル写真は雉子ではなく、絶滅したドードーという動物です。飛べないことも絶滅の一因だったようですが、この意味では雉子のように飛べること、飛ぶことも大切です。記事によって時代を撃つために、拙速記事で「藪蛇」を招かぬよう照準を定めるとともに、普段からの訓練が不可欠ということでしょう。

このような意味で言うと「お花畑が戦争を招く」シリーズは、「お花畑」のキーワードをリピートしただけではないか、それでもって一貫性のある主題を追求したように見せているのでは?という自己批評が生じます。このことは今後の制作のための研究課題となってきます。

「所有権」?「世界は誰のもの」?

また、投稿済みの記事を制作する上で主たるテキストとなった「真説・国防論」の中で、二点不明な事柄が残っています。「所有権」の問題と「世界は誰のものでもない」ということについてです。

まず「所有権」についてですが、著者のドクター苫米地は、「経済戦争における国防とは何か?」の章で、「アクセスの平等性を堅持すること」を重視、「一時の所有権、オーナーシップがどこにあるかは本質的な問題ではありません」といいます。これについて「お花畑が戦争を招くシリーズ ⑪」の「Ph.D.苫米地アゲイン」で指摘済みですが、その後この件の妥当性、説得性について調べてみましたが、かなり肉薄する文献は見つかったのですが、いまひとつ私の中で白黒決着がついていません。

いちご畑は好きですか、お花畑が好きですか

もうひとつ「世界は誰のものでもない」は、苫米地氏は自明の前提として用いています。
わからないのは、国境はどうするのですか?
人種はどうするのですか?歴史はどうするのですか?ドクター苫米地の国家観はどうなっているのですか?という疑問が湧いてくるのです。特に、派生的に私は国家における人種構成の問題に直面しています。ポール・ゴードン・ローレン著の「国家と人種偏見」などを覗いてみれば、おおよその検討はつきました。このことはあまり議論されたことがない、と感じます。議論しにくい性質があると思うし、答えは出ているとも言えるのでしょう。簡単に言って人種の制限などできるものではない、すべきではないことなのでしょう。もし、そうだとするならば、日本に移民だろうが、一時留学だろうが、この国の歴史や皇統や価値観を学ばせることは、最低限必要でしょう。もっと言えば、日本の価値観と文化を受容することを誓約させるぐらいすべきではありませんか。その辺が、一切取り沙汰されず、経済的ニーズだけでどんどん進行しているように見えます。労働力が不足しているから外から入れよう!少子化で学校の数に対して学生が足りないから外から入れよう!安倍晋三さんが頑張った世界一企業が入りやすい国にしよう!まあ、なんとインベージョンしやすい国なんでしょう。これぞ「お花畑」!

苫米地氏の語る、不明の二点については、今後も解明や理解に向けて意識していくしかありません。

「お花畑」が戦争を招くのか

今日も街を歩いていると「米軍と自衛隊が軍事訓練をしています!戦争する国になることはやめましょう!この国の平和憲法を守りましょう!」とスピーカーからうるさく聞こえてきます。なんと「お花畑」なことでしょうか。かの国が世界制覇を期し虎視眈々と、おめでたいこの国を狙っていることを御存じないようです。こんな「お花畑」だから、隙だらけで、チョロいもので、攻めやすく、よけいに侵略を煽ることになっていると言うべきです。自衛隊が軍事訓練もせず、九条を守っていれば平和が続くとは、おめでたい限りであり、「お花畑」大賞を進呈いたします。何もしなければ平和が続くことは、あり得ません。世界はこれだけ変わってしまっています。国民が国民なら、一部の議員を除いて政治家も危機感なし。米国議会では安全保障については、共和党と民主党、党派を越えて団結するということです。何もしなければ平和が続くのではなく、「戦争しないために」の視点から能動的思想と行動が求められています。「平和を守ろう」では、弱い。戦後78年、この「お花畑」国家はいい加減眠りから覚めなければなりません。

宮古島沖で自衛隊ヘリが落ちました。未だに不明だらけです。幹部がかなり 乗っていたらしく、狙われた可能性?とは、誰でもが思うところでしょう。迂闊なことは言えないものの、状況とタイミングだけで想像しても、疑念が起こるばかりです。世界情勢が緊迫感を増しているなか、「お花畑」は返上しましょう。日々の懸念報道が、リアル世界に浸蝕してきそうな気配が漂っています。皇紀2683年のこの国を絶滅させるわけにはいきません。岸田首相がウクライナ対応を通じて覚醒したか!という指摘もありますが、国民あげて覚醒しなければならない時です。野党与党問わず、リベラル保守関係なく、まとまらなければならない時局、それが今です。絶滅させるべきは、あなたの頭の中の「お花畑」というべきです。★

ラスト回は、「あとがき」のようなものになってしまいました。
(「お花畑」が戦争を招くシリーズ   了)

●謎解き「いちごが好きでも赤なら止まれ」

 これは、ボーイズラブのコミックのタイトルのようです。しかし、タイトルの起源については不明です。
私が想像するのは「赤信号みんなで渡れば怖くない」に対するアンチテーゼではないかということです。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」は、広く浸透した、一面説得性のあるフレーズと言えるかもしれません。原意から離れて、多数派の支持があれば社会的ルールや法律に対する挑戦的な勢いまで感じます。これに対して「いちごが好きでも赤なら止まれ」は、コミック作者の性的マイノリティに対するやさしい視線を感じます。「いちごが好き」とは、当事者たちの嗜好や感性をメタフォアしていて、「赤なら止まれ」とは、社会的ルールはしっかり守るよ、と言っているように思われます。つまり、マジョリティに対するマイノリティの世界観を表明しているような気がするのです。
もし、そうだとすれば、赤信号は止まるものだというルールを徹底させるべく、標語としての選者なのか、採用者なのか、使ってみようと思う気持ちはわからないではありません。「赤信号みんなで渡れば怖くない」はパワーがありすぎたので、対抗意識が働いたのかもしれません。
コミックの作者の意図を確認する術はありません。私の類推に過ぎない仮説と言ったところです。
これについて御存じの方があれば、コメントをお願いします。

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