藪の外へ-伊藤詩織氏の可能性
〈SungerBook-カラーグラス999〉
このお名前は一躍知られるところとなりました。彼女を著名人として取り扱うことについて、ご本人も異論のないところと思われます。今や、彼女は世界的ジャーナリストであり、女性の性的暴力問題について最も高い意識を持った日本女性と言っていいのではないでしょうか。私がそう思うというより、世間が、世界が、そう仕立てているように見えます。
昨年(2019)12月伊藤氏の民事訴訟での勝利判決以来、この事件に関する夥しい報道が為されています。伊藤氏側に立った論調がやや多いように見えますが、しかし、私はいずれが正しいかといった議論をするつもりはありません。これはもう「籔の中」に陥っているように思われます。本質的に「籔の中」の性質をもった事象ではないかとさえ言えましょう。
芥川龍之介「籔の中」は、一人の殺された男をめぐって、三人がそれぞれ自分が殺したと述懐する話で、誰が正しいのかわかりません。一番悪いのは、きっかけを作った多襄丸にはなるでしょうが、殺人そのことだけで言えば、真犯人は混沌としています。この小説の解釈について定説があるかどうか知りませんが、むしろ、真相不明、証明不能を描きだしている、とみるべきではという気がします。この視点で見るとき、伊藤氏の事件が同質のように考えられるのです。
だから私は、誰が正しいかとか、どちらを応援するかとか、その判定を避けて通るとかではなく、そんなことより「籔の中」で暴力を受けた妻の、その後の生き方が気になっています。つまり伊藤氏の人生について、興味があるということです。
この事件が報道されたのは、 私が知ったのが 2016年か2017年か不明瞭になりましたが、伊藤氏が実名報道された頃のことです。この時、私は、この女性は自分の人生を賭けて、この問題と闘い始めたと思ったことを鮮明に覚えています。目の前に道が二股に分かれている一方を、明確に、一大決心を行ない選択した、と。名も顔も出さず市井に沈潜する道を選ばなかったということです。
繋争中(1月6日山口氏東京高裁へ控訴)の方の人生について、勝手なことを申し上げるのはいかがなものかとの謗りは免れませんが、私の見方では、伊藤氏の勝訴、敗訴に関わりなく、彼女の方向性は確定的と想像しています。つまり、そもそも彼女が闘うことを決めた判断の中に、すでにある大きな選択が為されていると思うのです。言い換えれば、裁判の先を見据えたビジョンを彼女は持っている、そう思わせます。
そのように私が感じるのは、もし彼女が裁判に敗訴したところで、世間や世界は彼女に味方すると思われるからです。むしろ、負けるほどその支援が強まるのではという気がします。すでに、彼女は世界を味方に付けている面がありますし、悲しくてつらい目に遭った極東の一女性であるとともに、今や燦然たる国際的なオピニオンリーダーとさえ、目に映ります。
公での露出ぶりをピックアップしてみましょう。
(事件は2015年のこととされています。)
・2017.10.18 「Black Box」出版
・2017.10.24 外国特派員協会で記者会見
・2017.12.6 「準強姦事件逮捕状執行停止問題」を検証する会第3回 「ジャーナリスト伊藤詩織さんとの意見交換会」で会見
・2017.12.12 文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」に出演
・2018.2月 スカンジナビアでのトークショーに
出演
・2018.3.17 国連本部で記者会見
・2018.10.13 北陸朝日放送「日本女性会議」に参加
・2019.1月号 COURRiER JaPon 「性暴力はなぜ起こる」伊藤詩織 責任編集
・2019.4.10 「オープンザブラックボックス」発足集会 伊藤詩織さんの民事裁判を支援する会に参加
・2019.12.18 民事裁判勝訴 外国特派員協会で記者会見
・2019.12.19 外国特派員協会で記者会見
先月、民事一審勝訴後、日本外国特派員協会での英語でのスピーチぶりや、「勝訴」の旗を掲げての笑顔。遡って以前の国連での会見、欧州の番組でのゲストとしての応対ぶり。「ブラックボックス」の出版…
すでに伊藤詩織氏は、女性問題体現者としての国際的なジャーナリスト、私にはそう見えています。
このような彼女の振舞い、言動、それを許容している世界を見るにつけ、すでに勝利者と思えてしかたがありません。裁判の勝ち負けのことではありません。ご本人にとっては、大変な体験と、大変な判断に至る苦渋の意思決定を経て、ある大きな回路が開かれた、別次元のステージが目の前に展開してきたのでは。そういう言い方ができるのではないでしょうか。
ある意味前向きで、アクティブな側面に光をあてる時、この裁判に纏わる議論を進める時の、深刻で、息詰まった、合理性の袋小路といった感じのトーンから転調し、解放される感覚にならないでしょうか。本コラムは、スキャンダラスなこの事件について、そのトーンを打ち破って噴出している別の一面をクローズアップしたいと、企画しています。
この視座に立ち何某かの見方を述べる時、孤軍奮闘している方に、甚だ失礼なことを申し上げていることになるのでしょうか。伊藤氏の前向きの努力をクローズアップしてくれるならいいと言うのでしょうか。私は彼女の取り組みを、そのように評価することを趣旨としているわけではありません。また、彼女の一連の行動を否定的に描き出すことを望んでいるわけでもありません。ただ事実として、回り始めた伊藤氏の人生の一側面を照射し、指摘したいと思っています。その結果、その指摘を通じて批評性を帯びる可能性はありますが、批判や礼讃を狙っているわけではありません。
名だたる著名人がこの裁判をめぐって巻き込まれているように思われます。「籔の中」の事件とはそういう性格を持っているのでしょう。また、右派対左派の構図も明確に出ています。それだけではなく、山口氏を一刀両断に斬ったり、当初の刑事訴追の見送りを暴露的に語ったり、もう一方では伊藤氏の民事一審勝利を危ぶんだり、彼女の派手な立ちまわりに違和感を表明したり、また彼女の英語力を点検した番組等々、さまざまに取り扱われ、語られ、これらも、要は巻き込まれています。
伊藤氏は左派リベラル系の支援を受けているように見えますが、そのような風も一身に受け、帆を張り大海原を渡っていくでしょう。MeeToo運動や、フェミニズムに関わる人々、また、それを取り上げる世界的メディアの関心を呼び寄せ、集め、それらをすべて自らの糧として、突き進んでいくでしょう。
ここには明確な自立した意志が存在しているわけで、環境問題で「餓鬼の遣い」を演じている女性とは異なり、おそらく家族も親戚もクラスメートも友人も、ある意味なげうって、人生戦略的舵取りを自らの意志で行なっているわけです。周囲に操られるのではなく、周囲を使い倒している、したたかな存在と思えます。
「人生戦略的舵取り」と記しましたが、この部分を掘り下げれば、私は伊藤氏に対する一つの見方として、ミニマックス戦略を採ったと言えるのではないか、と考えています。
この戦略に対する私の理解は、自分が命を落としそうな場面に直面した際に、自分の片腕を切り落とされることを選択してでも生き延びるというものです。通常、被害を最小化する戦略的判断として語られているように思います。今回のケースではその被害を最小化するという点にポイントがあるのではなく、被害を転換して効果を最大化する方にこそ力点を置く考えかたです。そう見れば、これはミニマックス戦略とは呼べないかもしれません。
山口氏との裁判をゼロサムゲームに見立てているわけではなく、伊藤氏の人生スキーム設計におけるひとつの思考の意味においてです。
ある種の犠牲を伴っているという意味では、上述の戦略思考の当て嵌めも言えるのですが、むしろ、チェスにおいて最後の一手ですべての駒の色目を転換してしまう、このメタフォアこそ近いのでは、という気がします。裁判の勝利を語っているのではありません。裁判の先にある伊藤氏の人生の地平のことです。戦略的選択と言っている以上、「利」に対する判断もあったのかもしれません。むしろ、「賭けた」と言うべきでしょうか。
ひとりの日本女性が、家族主義的、集団主義的なるものから飛び出して、個人主義的な生き方に進んだという捉え方はどうでしょうか。
共同体(家族)の一員としての人間関係の均衡や、家族それぞれとの和を尊重し、親戚、隣近所、クラスメート、恩師、後輩、同僚等々、との穏やかな関係性を維持し、社会的な緩やかな紐帯の中に身を置くアイデンティティをかなぐり捨て、主張する一個人として立ち上がった、とも言えるかもしれません。周囲に何らかの心理的負担を強いることになったことでしょう。
図式化して言えば、伊藤村の娘が山口村の男に暴行を受けたと公にすれば、このトラブルが表面化し、村対村の戦へのトリガーをひくことになるや、この情報が他の村々に知れわたり、無用なスキャンダルを拡散するなどの「大人の判断」から、周囲は公にすることを封じこめる方向での動きを考えることは、ありそうなことです。今日でも伊藤村の娘の将来に「傷」が付くことを、家族は何よりも心配するでしょう。
(脱線しますが、そもそも村同士が対立している背景がある前提では、彼女と彼が相思相愛で周囲が反対する場合は、ロミオとジュリエットになりうる可能性が出てきます。)
労働組合における個人主義化が顕著だといわれているようですが、私の体験的感受では、そもそもは組織や企業に組合が導入された頃から、組織にあった日本的家族主義、集団主義的人間関係に、ヒビが入ったと思っています。それまで家族的関係でつき合ってきた上長を「管理職」という分類で括り、人間的関わりを遮断する動きがありました。国鉄をはじめ、組合の強かったところほど、それは顕著であったろうと思います。
つまり、ここで申し上げたいのは、伊藤氏はもともとは何らかの山口氏との関係性を築こうとしていたものを、一気に遮断する動きに転換した、その側面のことです。
個人主義的価値観に生きる選択は、そういう集団主義的安寧を粉砕することと表裏一体のことなのでしょうか。グローバル化の波もあり、わが国では、村社会の共同体に淵源を発すると思われる価値観は崩壊の仕上げに取り掛かっているとも思われ、伊藤氏の登場は、女性の側から、女性視点から、最後の切り崩しを行なっているのでしょうか。その点では、彼女は最終場面、9回裏に登場したダークホースなのかもしれません。*
このような社会学的な文脈での捉え方が正しいかはわかりませんが、むしろ、女性学や女性史の流れで見た方が意義深そうな気がします。と、ここまで思い至って見るとき、この問題、伊藤氏の生き方というテーマは、むしろ男性的なるものを秘めているようにこそ、思えてきます。意志的、挑戦的、戦略的なのです。
この意味では、ギリシャ神話に登場する女性だけの部族の名から出たとされる、強い女性を表わすあのアマゾネス、日本版アマゾネスの誕生と言うべきなのでしょうか。
「変質した優雅」と題する三島由紀夫のエッセイがあります。この中で「大原御幸」という能に触れ芸術論を展開しています。このエッセイの全体的テーマとは関わりなく、私が恣意的部分的に引用するのですが、地獄を見てしまった女性が優雅を失ってしまう話が出てきます。何故このことが想起されるかといえば、伊藤氏の行動は、人間が成長の過程でナイーブなものを脱ぎ捨てていくように、ある何かの喪失を伴っているのではないか、と思われるからです。日本の家族主義的なるものから、欧米的個人主義に踏み出したと見れば、その過程で当然捨て去られる何か、大和撫子的なものからアマゾネス的なものへの脱皮というメタフォアで言いうる何かです。日本的な「優雅」の変質は避けられないものなのでしょうか。
昨年、令和に御代変わりし雅子皇后陛下が世界の来賓たちに対し、軽やかに英語で応対する様にインペリアルファミリーの優雅を見た思いがします。その一方で伊藤詩織氏が外国特派員協会記者会見で巧みな英語でスピーチする姿に見たものは、ある意味での日本的なエレガントの終焉だった、というのは言い過ぎでしょうか。戦後七十数年、米国の支配から脱け出せない日本が辿り着いた大きな区切、日本社会の節目だったのかもしれません。
さらに「春の雪」の一節を想起せずにはいられないのですが、冒頭付近でのエピソードです。山を歩き夜中さまよい疲れはてたが、冷たく清冽な水を見つけて掬い飲み、その美味にたいそう癒されるが、翌朝その水は実は髑髏に溜まっていた水だったことに気がつくという、鮮烈な挿話が出てきます。
山口氏はもちろん、伊藤氏もまた、この水を飲んでしまったと考えられます。
伊藤氏が受けたとされるような暴力は、水面下ではかなり発生しているようです。それだけに、「被害者のサポートを充実させるために立ち上がった」という伊藤氏のポジションは、今後の裁判の判決結果に関わらず牽引力を持つものと思われます。
女性学の研究者として、高村逸枝や原ひろ子や上野千鶴子の系譜に連なる方向もないとは言いきれませんが、むしろ女性ジャーナリストとして性暴力から敷衍して広く女性問題に取り組むこととなるのでしょうか。すでにリベラル系のサポートもあるようで、当然政治家への道も見えているのでしょうか。
山口氏始め多くの方々が「籔の中」に落ち込んでいるのに、伊藤氏は自らも「籔の中」に入る存在であるにも関わらず、ただ一人、唯一「籔の外」へ出る魔法のカードを入手した方と言うことができるかと思います。そのカードとは、いわゆるジョーカーであった、ということなのかもしれません。★
(初出2020.1.29)
*個人主義や集団主義についての私の捉え方は極めて皮相的なものであり、これはかなり議論のあるところかと思っています。「下手の横好き」の類いで、この部分は素人であることは白状しておきます。
また、集団主義と家族主義を同義で使っていることや、村社会にあった家族主義がその後の歴史的推移で、欧米化に染まる過程で個人主義化が浸透したという見方も、甚だ観念的なものなのかもしれません。