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日本の良さが弱みになる時

〈SungerBook-カラーグラス8〉

―「お花畑」が戦争を招く⑤


プーチン大統領がウクライナの4つの州を併合するとの記事を見てのちに、ゼレンスキー大統領がウクライナのNATO加盟申請を表明したとの報道に接しました。これは、どう考えてもゼレンスキー大統領の対抗策であると想像されました。国際政治のことはよくわかりませんが、ゼレンスキー氏の巧みな判断とアクションと私は理解しています。

その後触れた動画で高橋洋一氏が、ロシア・ウクライナ問題が、戦争ではなく政治的側面が動き出し、今後の政治的駆け引きの選択肢が広がったと解説していました。ロシアの侵攻から8ヶ月近くになってしまいましたが、早々に平和的決着を見たいものです。

国葬済んで日が暮れて


わが国においては安倍晋三元首相の国葬儀を終え、品格を欠いた野党の一部議員や、故人となってからも「安倍政治」を認めないと騒ぎ立てる全ガキ連のお年寄り達の、日本人の教養を貶める行動が目立ちました。群衆数が多かったせいではなく、偏ったマスコミが切り取っていただけのことです。むしろ、マスコミに煽られてなびく人々が哀れというものでしょう。

安倍元首相といえば、2015年の9月に成立した平和安全法制の時、国葬反対と同じようにゴタゴタしたのはつい昨日のことのようです。その際、集団的自衛権行使を容認する安全保障関連法案が論争になりましたが、最近「亡国の集団的自衛権」(柳澤協ニ著)という本が目に止まりました。見るからに安倍政権批判という印象ですが、虚心坦懐に一読してみれば論理展開に沿って、意識は安倍政治の瑕疵を疑っていました。しかし「本当にそうか?」とこの論述に対する自分の私見を明確にしなくてはとの思いに駆られています。
まず、この本は2015年2月発行ですから法制成立前に出されています。著者は防衛官僚でしたが2009年に退官、それまで政府内において集団的自衛権について反対意見を表明していて、その思想を世に問うべく退官後、上梓となったようです。

立憲主義がたいせつ!

この柳澤氏の著書で展開されている論点で、抽象度が高く意見が対立しやすい事柄は、集団的自衛権が「立憲主義に反する」というものでしょう。以下引用してみます。

「そもそも、立憲主義は近代民主主義社会の根本原理であり、政府の権限の限界を憲法によって規定するものです。その観点から言えば、政府が自ら課してきた制約を自ら緩めることは許されませんし、政府のフリーハンドを広げる解釈の変更、特に集団的自衛権のような戦争と平和の選択に関わる判断基準を、政府の自由度を高める方向で自ら変更することなど、それこそあってはなりません。···」(同著p54)

これは、2014年7月1日の集団的自衛権を認めた閣議決定についてのことです。氏は「事実上の政府による解釈改憲」と批判しています。「フリーハンドを広げる解釈」「政府の自由度を高める方向」といったフレーズに
は、氏の義憤を感じさせるものがあります。
実は、以前私が憲法改正について本を読み漁った際に、集団的自衛権に関わらず立憲主義の問題に出くわしました。ちなみに、立憲主義とは、憲法が政治権力を制限するというものです。

お花畑が「亡国」を招くのでは?

憲法学者の西修氏によれば、わが国の護憲憲法学者にあきれておられるのですが、彼らいわく「有事法制は『戦争をするための法制』であって、『戦争しないとする憲法』に違反すること、有事にあって人権を制約するのは立憲主義の原則に反すること、自衛隊が米国の軍事戦略に組み込まれ、米国と一緒になって戦争することになるというものである。」(「憲法改正の論点」 西修著p18)と紹介していて、専門家ではない素人の私にも十分にあきれさせるものがあります。

少し引用が続きますが、西氏の見解の非常に重要な部分です。
「平和主義とは、平和が侵されるのを座視することでは決してない。平和が侵されないためにいかなる方策を講じるべきか、また万一、侵されたときにどのような対処をするかをあらかじめ設定しておくことは、平和主義になんら反するものではないし、むしろ当然に取っておくべき措置である。どの国にもみられる共通の法体制である。それゆえ、有事法制は「戦争をするための法制」ではなく、「戦争をされないための法制」であり、「平和を維持するための法制」である。」(同著p19)という具合です。

立憲主義の泥濘に足をすくわれている憲法学者や柳澤氏に対しては、西氏の論考で事足りていると私は考えています。WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プラグラム)の洗脳から抜け出せない一群の学者はじめ、日教組や弁護士等々わが国にとって、残念な思考構造となっています。その意味でこれは「お花畑」と言えるかと思います。

アメリカが日本を守る!

また、柳澤氏は「アメリカは日本を守らざるを得ない」としています。「···アメリカにとって、太平洋を挟んでアジアのいちばん縁に日本があるということは、アメリカが何らかのかたちでアジアに関与・介入していく場合の拠点となるわけですから、地政学的に非常に重要なのです。····(本論制作者中略)····アメリカがアジアで何か行動を起こそうというとき、空母を修理するためには、広大な太平洋を抜けて西海岸まで戻らなければなりません。····(本論制作者中略)····しかし、日本に米軍基地があるおかげで、修理は横須賀で行うことができ、そこから一足飛びにアジアの国々へ向かうことができるわけです。」(柳澤著 p123)ということで、アメリカが日本を見捨てる懸念には同意できないとのことです。「アメリカにとって日本を手放さないことにより得る利益は、日本が感じている以上に死活的に大きいものなのです。」(同著 p124)ここに、またまた「お花畑」を感じるのは私だけなのでしょうか。

一方ではアメリカは日本を見捨てないと指摘すると述べながら、もう一方では集団的自衛権の落とし穴として「集団的自衛権で日本が何をするのか、その合意が日米間でがなされていない」(同著p31)としています。アメリカさんが日本を見捨てないなら、集団的自衛権での合意がなくても何を心配するのでしょう。というかアメリカにすれば、日本のすることは日本の意志でやれば、ぐらいに考えているのかもしれません。合意がなければ確実ではないと言っている一方で、決して見捨てないと思うバランス感覚は、あまり説得力がありません。

YOKOSUKA軍港めぐり船

お花の咲き乱れる港

ところで、横須賀米軍基地の挿話が出てきて思うのは、横須賀にある遊覧船「YOKOSUKA軍港めぐり」のことです。横須賀米軍基地はわが国の海上自衛隊横須賀地方総監部と隣接しています。私は、日米地位協定がありながら、よくアメリカがそして防衛省が、この民間営業の遊覧船を認可したものだとあきれています。汐入にあるショッピングセンター「コースカべイサイドストアーズ」が発着点になっています。

以前のブログでこのことに触れた際に、私はこれを平和のシンボルとしての見立てをしつつ、迷いもある書きぶりをしています。しかし、2022年の情勢を踏まえる時、私の見方はあまちゃんだったと振り返ります。当然ながら、この遊覧船の営業条件となる契約は横須賀市も絡んでいます。いつだったかイージスアショアの設置に絡んで秋田県議会や市議会が、攻撃対象になるからとノーを表明したごとく、一部を除き日本の自治体は国防意識ゼロのお花畑であり、私はある横須賀市議とやりとりした経緯からもそれを確信しています。横須賀市はともかくもなぜ防衛省までお花畑なのか。自ら日本の艦船を懇切丁寧に説明紹介し軍港の地形まで開陳して憚らない。さすが憲法九条のお国と言いたくなります。

横須賀では数年前、高台のアパートに外国人が住み、米軍や自衛隊の基地を偵察しているとの噂が流れたことがあります。ならず者国家なら当然そんなことはとっくに行なっているでしょう。何しろ軍港めぐり船も、開業してからすでに14年経っています。誰でも普通に客として乗船でき、軍港をガイダンスしてくれるのですから、ならず者国家にとってこんな有益な情報はありません。桜の季節にこの米軍基地に入れる機会がありますが、携帯持込み厳禁、パスポートや身分証明書携行厳守とは随分異なるお目出度さときています。

中国の国策である一帯一路計画、パートナーシップ港連携第1号としての大阪咲洲メガソーラー発電所を語るまでもなく土地買い占め等々、日本はとっても美味しいものですから、あちこちに白アリ達がたかっているかのようです。わが国歴代首相の中でも評価すべき故安倍晋三でしたが、その移民政策については、私は反対します。なぜ労働力を外国人に求めるのか、ここは批判します。この町(仙台)に40年ぶりにもどり、つるんで行動をとる褐色の肌の外国人の群れを見るたび驚き、皇紀2682年の歴史がくすんでくるかのようです。強迫観念のように経済的成長だけを追いかけてどうするのでしょうか。

謝って済むなら政治はいらない

日本のソフトパワー?

柳澤氏の「亡国の集団的自衛権」は終盤に至り日本の歴史問題に触れ、くっきりとした「お花畑」に誘ってくれることとなります。
「自分が行ってきたことについては悪いことは悪いとはっきり認める、という態度は大きな道徳的優位性につながり、和解への道を大きく前進させることになるでしょう。」(柳澤著p169)従軍慰安婦に関わる日韓問題についてなぜこうも政治問題を道徳問題に還元してしまえるのでしょうか。道徳のわかる国ならそもそもこうはなっていないでしょうに。私は、確か2006年頃、何を勘違いしたか中国共産党に謝りに行ったノーベル文学賞作家を思いだしてしまいました。

話が逸れました。柳澤氏は批判中心ではあるものの、何か提案的なものがないかと思っていたら「···日本には、みんなで協力していいものを作るという協調性や勤勉性があるからだと思いますし、それが他の国にない日本の優位性と言えるでしょう。また、西洋の文明も自分のものに同化していくという一種の翻訳能力は、多かれ少なかれ日本以外の国でも必要とされていることですから、こうした日本のソフトパワーを世界に向けてもっと広げていく余地はあるでしょう。」(同著p163)
と語り、また、明治維新後「···多様な価値観を取り入れる受容性は、日本自身が戦争の原因にならないという意味での受動的なメリットにつながるものです。」(同著p163)とも述べています。この国の「受容性」がパワーの源泉だという文脈になっています。

しかし、本当にそうでしょうか。結論を言えば、私はこの「受容性」について疑念を持っています。「受容性」にひそむ微妙な陥穽というか、「受容」とともに喪失せずにはおかない性質、要素があるのではと考えています。明治以降日本は近代化、すなわち事実上西洋化を推進してきたわけですが、その旺盛な受容の一方で、何かを見落したというか、学ばなかったというか、気がつかなかったというか、その種のことがあるのではないか、と思うのです。それは「受容性」の表裏の性質なのかもしれません。

回りくどくなっていますが、端的に言葉にすれば「強さ」や「したたかさ」のようなものです。戦後、アメリカが日本人の特性を研究して、贖罪意識を植えつけるためにWGIPを作り、洗脳してしまうことを行なうような、そのたぐいのことです。国際関係の中で、自国の国家観にどれだけ執拗に固執できるか、といってもいいかもしれません。慶応義塾大学の伊藤公平塾長が慶応は学問研究では「全社会界の先導者をめざす」という意味のことを言っていましたが、大学はそれでいいかもしれないけれども、国家は技術研究開発の面でとともに、政治的にヘゲモニーをとれなければならないのでは、と思います。そういう意味では、ペリー来航の時以来、いや北条時宗の時の元寇以来、日本はついに気づかずこんにちに至っているのでしょうか。世界における日本のアイデンティティや、強烈な国家意識の自覚のことです。

周囲を海に囲まれた極東の小さな国のせいなのか、アングロサクソンとも違う人種のせいなのかはわかりませんが、日本は優しい国であり、易しい国でもあり、今の世界情勢下では「お花畑」といえましょう。軍事力によらない文化面など日本のソフトパワーを世界に広げていこう、としている間にひたすら「支配」をめざすならず者国家に追い詰められることになるのでしょうか。★

(「お花畑」が戦争を招く⑥ 次回投稿予定)

出典
柳澤協二「亡国の集団的自衛権」集英社新書
2015年
西修「憲法改正の論点」文春新書 2013年


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