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藤沢周平の愉楽にひたる②

〈SungerBook-舌鼓2〉


短編小説集「たそがれ清兵衛」を読んだ時、はじめのうちは、個性の違う八人の武士を巧みに描くことを凄いことだと思っていました。しかし、ちょっと引いて考えてみると、同工異曲に過ぎないようにも思えてきて技巧が目立つ分軽く見えてもきました。

エンターテイメント作家の技術を、文学的芸術性の高みから批評を浴びせることもできそうですが、ここは専門家でもないし、ディレッタントの立場から冷静に「たそがれ清兵衛」を分解してみたいと考えています。前回は標題作の「たそがれ清兵衛」一編を取り上げましたが、今回は収録された八編全体を通じて論じようと思います。

この八つの短編集には、八人の主人公が登場しますが、共通の特徴があります。それは、冴えないしょぼくれた男でありながら、実は剣術のすぐれた侍というところです。そういう設定に作家の美学が感じられますが、同性の読者を惹き付ける要素の一つになっているように思われます。例えば刑事コロンボのようなキャラクターです。

いつもヨレヨレのコートを着て、一見うだつの上がらない刑事のようでいて、その実冴えた知性と推理力で犯人を暴いてしまう。そんな感じに似ていると言えるかもしれません。もちろん「たそがれ清兵衛」は推理小説ではなく、剣豪小説とでも言うのでしょうか。

描かれたのは人間剣士

八人の侍は、それぞれ秘剣の技で勝つわけですが、悪は敗れて正義が勝って終わりというものではなく、それぞれの個性なりの複雑な思いをにじませるところがこの小説の味わいどころと言えるかもしれません。

「うらなり与右衛門」は、アゴがしゃくれたうらなりづらで、三栗家に婿入りした温和な男として描かれます。話のフレームとしては藩政政策に絡んだ派閥抗争ですが、与右衛門は犠牲になった若い助蔵に対するあだ討ちの念によって立上がります。

斬り合いについては、四頁に亘る長さとなっていますが、これはそもそも与右衛門が仕掛けている経緯から必然といえましょう。凄まじい決闘は、多くの目に触れられることになり、その剣術ぶりによって「うらなり」は世間から畏敬の念をもって見られるようになります。

剣そのもので周囲にもっとも評価を得たのは、八編中この「うらなり」と言えます。というより、純粋に剣術の力に焦点を絞ったのがこの作品と言うべきでしょう。最後こう結ばれます。

「・・・その顔を見てももう笑いをこらえるような顔をする者はいなかった。それどころか、あきらかに畏敬の目で、そのとほうもなく長い顔を見つめる若者もいた。・・・」

しかし「ごますり甚内」では、曇弘流六葉剣の術者である彼は不正の首謀者を一騎討ちでやっつけるものの、ふだんから「ごますり」に与えられる軽侮は、ついに変わらないのです。

また「かが泣き半平」では、藩の意向での誅殺を行なうものの、只働きという苦さを味わうことになる、という具合いでかが泣く、つまりぼやくことで終わります。つまり、主人公のキャラクター設定が、実は物語を規定しているところがあります。これを制作者サイドから言えば、ストーリーと有機的関係を持たせたキャラ作りを発案した、と言うことができます。

この短編集について、剣豪たちの剣さばきを自在に描く藤沢周平の筆さばきが読みどころとは、誰しもが認めるところでしょう。その一方では、私は女人の描きかたが、あまりに魅力的でその女人たちに恋してしまうほどです。ほんとは教えたくないのですが、少しだけご案内してみましょう。

魅惑の女人たち

まず「日和見与次郎」。この作品には、与次郎の従姉織尾が登場します。織尾がどんな女性なのか、二行だけ引用してみると
「織尾は与次郎より三つ歳上で、はや三十を越えたが、天性の美貌はますます磨きがかかって、その上胸も腰もずしりと稔り、臈(ろう)たけたという形容がふさわしい婦人になっていた」
と描写されます。
与次郎は昔からこの従姉に惹かれていたという関係ですが、この魅惑の従姉という設定が極めて斬新に感じられます。現実の世界で、こういうことはありますが、何というか、雑多な日常にふと顔を出す鮮烈な美とでも言えそうな輝きの放ち方、そういう女人の魅惑を従姉から切り取ってくるという、その筆さばきが絶妙です。

特に、これは引用はやめておきますが、嗅覚での織尾に対する与次郎の表現があるのですが、これが印象的です。甚だ官能的で、記憶に残るというより、生理的に刻印される、そんな感じがします。

もう一つは「祝い人(ほいと)助八」に触れてみます。祝い人とは乞食のことです。汚ない格好をした物乞いです。伊部助八は、ほいとと呼ばれるだけあって、いつもうす汚れていて、衣服は汚れ、悪臭を放つ存在で、仕事は御蔵役です。もし道で会っても避けて通りたい男ですが、しかし藤沢周平は、助八を、日ごろは史記を愛読する人物として描くことを忘れていません。

悪妻に先立たれた独り身の三十前の男という設定ですが、香取流の剣術使いであるものの、藩内での抗争に巻き込まれることになります。悪妻から解放され楽しんでいた一人暮らしが慌ただしくなってくるというわけです。この作に登場するのは飯沼波津。波津との関係は、波津の兄の親友が助八で、助八は波津の家を子供のころから訪ねあっていたと、されています。うらなり与右衛門があざやかに敵方を倒すのとは異なり、助八は死闘となります。

「たそがれ清兵衛」八編を通して見たときに、「祝い人助八」は、いくらしょぼい男たちといえど、祝い人とはちょっとひどすぎると思えるほどです。しかし、ここに巧みな藤沢周平の戦略が仕掛けられていることを見逃してはなりません。

「たそがれ清兵衛」八編中、波津はおそらくもっとも輝いている女性です。

「うつくしい目と頬、そしてほっそりしているように見えながら胸や腰の丸みは隠れもない波津・・・」

として描かれます。これだけでは「日和見与次郎」の織尾と変わらないのですが、物語の終盤に至り助八が手傷を負って帰る痛々しいさなかに現れる波津が、これはもう清らかさが過ぎて、一種ファンタジーと思わせるほどの仕上りです。

乞食とお姫様、そんな風に感じずにはいられません。何かメルヘンを思わせるだけでなく、私は昔観た映画「ポンヌフの恋人」を思い出してしまいました。助八の亡妻は悍婦でした。それだけに波津の清さが際立つのです。というか、そのコントラストを用いて波津を際立たせているといっていいでしょう。

助八との対比においても、波津はあざやかさが増してしまいます。ひょっとしたら作家は、助八を八編中最も薄汚い男という捨て駒を打つことによって、この一編を他の作品とは異なる成果を求めた冒険をしたのかも知れません。時代小説のままそれをファンタジーに転換するといった戦略があったのかも、と考えてみることはとても愉しいことです。

藤沢周平の満喫の果て

ところで、こういった論述は素人が文芸評論家の真似ごとをしていると思われて当然です。しかし、ディレッタントとしても、気ままに恣意的に述べているわけではありません。その恣意性や任意性を回避すべく、私はある方法論を用いています。

この短編集を全体的にバランスよく俯瞰するために「たそがれ清兵衛の分解」と題するマトリックスを作成しています。企業の経営指標のバランスシートみたいなものです。これにより、八編全体を偏りなく目配りすることに役立てられます。八編それぞれについて

・主人公・舞台設定・構成・主人公のモチベーション・関わる女人・ストーリー・山場・大団円・メインテーマ・評価の十項目の点から要点をまとめているものです。

(上記の全体図は文字が読みにくいので、下段の表をタップしダウンロードして、ドライブ等のアプリで開くと拡大できるようになります。)

評価というのは、文学性、おもしろさ、感動度について、八編を五点満点で採点してみたわけです。括弧内の数字が私の採点です。
ついでに八編のサブタイトルを作ってみたので以下に記載します。

たそがれ清兵衛─妻を愛する剣豪の幸福とは(4点)
うらなり与右衛門─外見とはたがう見事な剣士(3点)
ごますり甚内─剣は強し、されど尊敬されず(2点)
ど忘れ万六─愛妻家の倹しい幸せ
(2点)
だんまり弥助─無口野郎が切れる時
(2点)
かが泣き半平─最後まで愚痴ってます
(3点)
日和見与次郎─優柔不断の末ついに彼は・・・(3点)
祝い人助八─薄汚い男に咲く花もある
(4点)

改めて全編を振り返ってみると、やはり「たそがれ清兵衛」の味わいが印象的なことと、「祝い人助八」がその対局にあるように思えてきます。清兵衛は男として格好良すぎる以上に夫としてでき過ぎで、波津は女性として清らかすぎる存在です。ということは、藤沢周平は、清兵衛を女性にとっての理想的男性像、波津を男性にとっての理想的女性像としてシンボル化したいとの思惑があったのかもしれないと思えてきました。★

(初出2019.12.1)















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