24時間テレビ考
24時間テレビには興味がないし、見たこともほぼない。
それでも第1回の時には少しだけチャンネルを合わせていて、ピンクレディーが歌っていたのを覚えている。
1978年、高校1年の時であった。
実はその3年前に、ニッポン放送で「チャリティー・ミュージックソン」と言うタイトルで、24時間ラジオが始まっている。
萩本欽一が全盛期を迎えようという時期で、ニッポン放送の「欽ドン」は中学生だった自分にはお馴染みの番組であった。
その萩本が司会をやる24時間ぶっ続けの番組を、クリスマスイブから翌日にかけて放送するというのである。
何やら新しいことがありそうだというので、さすがに24時間ではないけれど、ずいぶん長い時間ダイヤルを合わせていたように思う。
チャリテイーという言葉もこの時初めて聞いた(ような気がする)。
視覚障害者用のとおりゃんせのメロディーが流れる信号機、あれを寄付金で設置するという趣旨だった。
調べてみると、ラジオは目の見えない人にとっての重要なメディアであるから、というのが理由でこの信号機寄付が決まったらしい。
結局、24時間ラジオ自体はさほど面白いとも思わなかったが、なるほど、こういう形の番組もありなのだということは、強く印象に残ったのである。
それで3年後の24時間テレビである。
チャリティーに二番煎じも何もないのだが、最初の司会者がまたしても萩本欽一であったこともあって、わたしには、どうにもラジオのマネじゃないかという思いがあったのは否めない。
最初から斜に構えていたし、その後は全く見ていないので何かいうことは烏滸がましいかもしれないが、、まぁ薬にも毒にもならないものなのだろうな、というのが当時から一貫した感想(といえるほどのものでもないが)である。
ところでこの記事を書くにあたって、Wikipediaで調べてみたら、24時間テレビにも、それなりの変遷があることがわかった。
47回もやってるのだから、それは当たり前なのだけれど、とりあえず1992年、第15回以前と以後では、どうも大きな違いがあるようだ。
つまりこの年から、24時間テレビははっきりとバラエティー化、あるいは感動の商品化に舵を切っているのだ。
例えばそれまでの14回は「アジア・アフリカの子どもたちに海外援助を」とか「お年寄りに在宅福祉を、障害者に社会参加を」といった具合に、その回ごとにかなり具体的なテーマが設定されていたのだが、この年以降は「チャレンジ」とか「勇気を出して」といったポエムになってくる。
また、第一回の最後では大橋巨泉が「総理大臣を始め、政府の方、全政治家の方に、本来はあなた方がやることだと思うんです。ですから、福祉国家を目指して良い政治をして頂きたいと思います」と発言しているし、どうやらそれなりに硬派な部分が色濃かったが、これがすっかりなりを潜める。
一方15回から始まったのが、悪名高いあの「芸能人マラソン」だったりするのだ。
うーん、なるほどねぇ、と思うのだが、まぁ最初に見ていないと書いた手前、あまりこれ以上深いことはいわないほうがよいのかと思う。
ただ15回以降、視聴率は以前より10%上昇して以後下がっていないようだ。
ということは、15回以降の方がより多くの人に望まれている、まぁ、そういうことなのだろう。
うーん。