父の話(7)
父は宮崎の泉ヶ丘高校という、そこそこ優秀な学校に入学した。
在学中は演劇部、さすがに大学までは行かせてもらえず、、卒業後は郵便局員となった。
当時の郵政職員は、入局にあたり郵政研修所と言われる施設で教育を受けたのだが、生前、父はこの研修所を最終学歴だと言い張っていた。
明らかにおかしな言い分なのだが、それが父のプライドだったのかも知れない。多分父は大学に進みたかったのだ。
内心忸怩たるものがあったのだろう。
ところが、その研修所でたまたま経済学の講座を持っていたのが、九大あたりの先生で、いわゆるマルクス経済学者だった。
戦後ののどかな時代で、いちいち人選などしていなかったと思われるが、父はここで、唯物史観だの、階級闘争だのという、新鮮な思想を学んだようだ。
このことは父の大きな転機となり、のちに何度か語ったり文章にしたりしている。
父は労働組合活動にのめり込んでいくのだ。
当時の郵政労組である全逓は、大変に強い力を持っていた。
組織率も高かったので、最初は父も何も考えることなく、自然と組合員になったのだろう。
しかし、九州の片田舎でも組合の力は大したもので、そこに父は魅かれていく。
例えば、有給を出さない局長を組合員が囲んで、「出すのか出さないのか」などと机を叩くと、それで出ないはずの有給が簡単に認められたりした。
悪い方もわかりやすかったし、正義の行使も直接的であったのだ。
そういう素朴な「良い活動」に父は長らく求めていた自分の居場所を発見したのではないか。
熱心に勉強会などにも参加し、地区の青年部の役員などもしたのだろう。
やがて、この父に、東京中央郵便局への異動話がくる。
もちろん通常の異動ではない。地方の生きの良い活動家に目をつけた、全逓によるいわゆる組合人事であった。
父はついに自らの力で、東京に戻った。