38℃の日本から
分かっていたことだけれど、世の中はオリンピックばかりだ。
いや、それは世の中に失礼だな。
テレビの中はオリンピックばかりが正しい。
多分テレビを見ない人は、今パリでオリンピックをやっていることを知らなくても不思議ではない。
少なくとも、夕飯の買い物をするスーパーで誰がメダルをとったとか知らされないし、街を歩いていて国歌斉唱を聞かされることもない。
もともとこの炎天下、出掛けないけれども。
とにかくテレビさえ見なければ、オリンピックなど些細なことで、国民の大多数にとっては、この異常な暑さや、バカみたいな物価高の方が大問題であることは間違いないはずなのだ。
ただまぁ、わたしはテレビを見る人だ。
なんでも本当に今の若年層はこのオールドメディアを見ないそうで、だからきっと世の中の趨勢からすれば、わたしは取り残された老人なのだけれど、そのことはいったん置いておく。
とにかく習慣としてテレビを見てしまう人なのである。
そうすると、嫌でもなんでも競技の模様が流れてくる。
競技にもいろいろあるから、それは元から興味のあるものもあるし、知らない種目だってスポーツとして生き残っている以上、ちょっと見ていれば面白みも湧いてくる。
先ほど、ネットで「馬術のクロスカントリー」という絶対テレビでやらない競技が流れてきたが、ずいぶん楽しそうだった。
そう、スポーツ観戦とは、基本的に楽しいものであるはずではないか。
だから競技そのものにどうこう言うつもりはないし、恨みもない。
小学校以来ずっと体育が苦手で、逆上がりに苦労したことも、高校の体力テストでボール投げが下から3番目だった苦い思い出も、今は克服している。(いやそれは競技ではない)
ただ、そういう楽しいはずのスポーツにまとわりついてくる、「世界が注目!ニッポン、メダルをとりました」「まさかの敗退、でも感動をありがとう」「メダルの影に秘められた知られざる物語」みたいな切り口がどうにも苦手なのだ。
なぜテレビの中では、スポーツは物語としてしか語られないのだろう。
アスリートが完璧な人格者だろうが、後ろ暗いところがあろうが、兄妹だろうが、10代だろうが、それは競技を離れたただのお話に過ぎない。
属人的な物語を離れて競技自体を語る言葉を、なぜ我々は持ち得ないのだろう。
ちょっと主語を大きくした。
物語は、どれだけ言葉を尽くしても、それは所詮物語に過ぎない。
必ずそこから抜け落ちるものがあり、必ず過剰に語られる部分がある。
それは目の前で繰り広げられる、紛うことなき競技スポーツという真実を、毀損してしまうものではないかと思えてならない。
スポーツはスポーツ。
勝負は勝負。
その楽しみ方はこっちの自由だ。
テレビの言葉などに決めてほしくないのである。
ちょっと大上段、かつ喧嘩腰にまとめてみた。
偏屈なぼやきだ。