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歳なり

若い時は実年齢より上に見られた。

中学生の時、家族で食事に行って、両親がビールを頼んだ。
運ばれてきたグラスは、親父とわたしの前に置かれて、ちょっと動揺したのを覚えている。
どうやらあの頃から、老けはじめたらしい。

高校、大学、就職して30くらいまではずっと、だいたい五つくらいは上に見られていたようだ。
大学を出てストレートに教員になったのだけれど、初任校では同僚に何校目ですか?と聞かれた。

それどころか、最初のあだ名は「おじわか」であったらしい。
あまり気の合わなかった音楽の教員が、「ねぇ、しってる? 」と嬉しそうに耳元で教えてくれたのだ。
「生徒はよく見てるわよねぇ、若いくせにおじさんだからでしょ」

幸いこのあだ名は定着しなかったようで、この時以来耳にしたことはない。

余談ながら、音楽教師のあだ名は「あおばぁ」で、これは彼女が転出するまで、毎年そう呼ばれていた。
控えめにいってざまぁ見ろである。(わたしは執念深い)

閑話休題

その後のわたしは、30過ぎるとだいたい年齢なりに見られるようになり、驚いたことに40の声が聞こえる頃には、歳より若く見られるようになった。

それで気づいたのだが、どうやらわたしは顔形で老けていたわけではなく、雰囲気で老けていたのだ。
つまり、新任時には、新人らしい初々しさがなく、やたらと落ち着いていた故の「おじわか」だったのだと思う。

それが実年齢が上がるにつれて、そういう落ち着きがおかしくなくなってきたのだろう。本当に短期間で、老けていると言われなくなった。

その上わたしは、頭が薄くなったり、極端にお腹が出てくるといった、わかりやすい老化のしかたはしなかった。

また、教員という仕事柄、ずっと18歳までの生徒を相手にしていたことと、子供の減少で採用が減ったことあおりで、自分の後に新人が入らず、結果、校内でずっと若手のポジションに甘んじていたこともあって、いわゆる人が老成していくコースを辿れなかったように感じる。

前にも書いたことがあるが、だんだんと「万年青年」みたいな歳のとり方をして行くことになるのである。

若く見られるというのは、この国この時代においては、わりとポジティブなことである。
とはいえ、歳なりに見られないというのは、やはりどこかに歪んだ部分があったのだろう。

40過ぎてからの自分は、若い時とは逆に、自分の「重さ」のなさに悩んだりするようになる。

< 多分続く >




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