無関心
物心ついた時からずっとロングヘアである。
顔のデカさは分かっているのでわざわざ事故を起こす事もない。
美容院にも頻繁に行く必要がないのでものぐさにもやさしい髪型だった。
だが他の誰でもない、自分自身が見飽きてくる。
結婚し、対異性という点では戦線は離脱している。余生を農場で過ごしている身では連れ合いに多少びっくりされた所で農作業には変わりない。
人生一度はショートカットにしてみよう。
丁度その時期、芸能人達のヘアードネーションが盛んに行われており、切った髪が人の為に役立つなら一石二鳥と伸ばし始めた。
サロンも家の近くにあり後は品質を保ちながら伸ばすだけである。
31センチ以上の髪を寄付する必要がある為、長さは自分史上最高になる。
ロングに慣れているとはいえドライヤーで髪を乾かせばお風呂上がりなのに汗だく、結んでいた髪を解くとどさりと音がしそうな質量を感じる。
もう切ってしまいたいのだが、いかんせん今の私には使命がある。
髪長いね、と言われれば、ヘアードネーションするからとやや上向きで答える声色には良い事を、して、やっている。という気持ちが全くゼロではなかった。
奢り昂りの真っ只中、一つの記事が目に入った。
ヘアードネーションで髪の毛を提供するのは本当に良い事なのか。
ウィッグを作るお金も不足している。
ウィッグだけ渡しても解決にはならず、提供により髪の毛がある事が正解にはなっていないか。
付ける、付けないの選択肢を提供できる社会になる事が重要。
全てにおいて考えさせられ、最後の、一番の敵は無関心で自分の事さえよければそれでいい人と向き合っていくしかないと書かれていた。
自分の事さえいい無関心な人はそのまま私の事だった。
テレビで頭髪を揶揄された表現に単純に笑い、髪の毛の存在に疑問を感じた事はなく、ヘアードネーションをする、自分。に酔いしれていた。
それから31センチはゆうに超え、45センチまで伸ばした。
美容師さんはヘアードネーションの行為を誉めてくれ、腕も良く、人生初のショートカットは事故にはならなかった。
カットされ、並んだ髪の毛の束はドライヤー前のヘアオイルのおかげかそれなりに艶があり、生産者としては一安心であった。が、それと同時に分かったつもりで、慢心し、その裏に疑問を持たない無関心だった日々を恥ずかしく思うのだった。
考えさせられた記事。
本当にそうだなとしか思えなかった。