知人の死、果たされない約束。③

バブルが弾けて数年経つと、地元も御多分にもれず不況の波に呑まれた。就職難、リストラ、早期退職者募集の嵐が吹き荒れ、そっと肩叩きの閑職行き、グリーンチームの結成、サービス残業、ワークシェア、給与カットなどなど…が、日本全国を襲った頃に少しだけ話を戻して。
彼女もまたその波のなか、「おとうさん」の許可を得て、そのころ自分の子として引き取った孫育てに専念する、を理由にパート仕事を辞める決断をした。

彼女は無職となりアパート管理人をし、「おとうさん」を完全にアテにした生活を始めたのである。日本中が目に見える不況のなか。自分がいた部所自体がなくなり、それでもパートを続けることは難しかったのかもしれない。

けれど、「おとうさん」とは不安定な恋愛関係で、愛人とはつまり、なんの保証もない間柄なのだ。この国に結婚制度がある限り。非常にあやうい選択だと私には思えた。

「おとうさん」の気持ちと金が、見通しのたたない不況のなか、いつまで続くか。次の約束のない訪れが何の気なしに遠退けば、あっという間に喰い詰める。

どれだけ彼女はわかっていたのだろうか。彼女は、既に成人していた彼女の子供からも僅かながらの生活援助を受けるようになり、「なんかもういつもお金がないの。もう慣れたけど」と諦念したような、先のことを考えない(不安になるから)思考を停めた、その日暮しの生活を送るようになった。

見た目でいえば一見派手。それでいて、どこか人を惹く色のある熟女の部類に入る人だった。生まれは東京・月島だと言っていた、はなやかなひと。一時は小料理屋のおかみ。結婚生活でいちばん嫌だったのは、暴力だったと言っていた。(彼女の不倫も離婚の事由にはあがったはずだと思うが)

そんな彼女は生まれか育ちか。よく見れば良いものを着て、ブランド品を持ち、食にもこだわりがあった。生来の好き嫌いも手伝ってか、口に合わないければ食べない。手をつけず捨てるーーそんな尖った一面もあった。
まるで貧乏たらしい事は恥だというような矜持をもっていたように思う。(実際、私もそれで「みっともない」と嫌がられたことがある)

けれど現実として窮すれば、彼女が価値があると認めていたブランド品を質に入れても凌がねばならない。彼女自身、あらたな職探しもしていたようだったが、田舎で運転免許もなく学もない、若くもない年齢。新卒でも就職氷河期。条件の難しい彼女の再就職先は当然なかった。

それでも、「おとうさん」の援助が途切れながらもあるうちはまだなんとかやっていた。けれど。
別れない、と彼女が思っていた関係はやはり根拠がなく。終わり。彼女は結局、放り出された。

直視する現実問題として、人ひとりを養うのにはいったい、どのくらいの金銭がいるだろう。高卒大卒で就職し、結婚し子供を抱えた状態で、ある日とつぜん、もう一世帯を養うーーそんな余裕のある人がどれだけ存在するだろうか。まず無理だ。その日一日や1ヶ月だけのことではない。生活とは、生きている限りずっと、だ。三ヶ月後も一年後も五年後もずっと、ずぅっと続くのだから。

ある日「家賃を5ヶ月溜めた」そう、電話がきたとき、もうダメだと私は思った。

収入といえる収入は相変わらず何もなく、かろうじて入る年金も国民年金だけの彼女だ。そもそも最初から貯金はない。それで毎月5万円の家賃その他をどうやって払い続けられるというのか。
もう少し安い所か、市営などへの引っ越しをすすめたこともあったが、慣れたアパートから出ることを彼女は拒んだ。

「もう無理だよ」と、私は彼女に生活保護をすすめた。追い詰められ泣く泣く神妙に、話を聞くだけは聞く彼女だったが、どうせ真実味を持って聞いてはいないのだ。彼女の生活はこの後も何も変わらない。

私は彼女との電話を切ってすぐ、市役所へ相談の電話を掛けた。彼女の境遇を話し、「傍目にもどう考えても無理ですよ」と切実な窮状を訴えた。
それで何が効いたのかわからないが、その電話で、彼女の住む地区担当の民生委員さんがすぐ動いてくれることになり。翌日には、彼女から直に聞き取りをした民生委員さんは、彼女が望むならすぐ生活保護へ繋げるよう動く、と約束してくれた。

とは言え、実際に生活保護を受けるにはいくつか条件がある。けれど彼女の場合、どれも出来ないことではなかった。一番難しいのは、「保護を受ける身になる」という彼女の気持ちの問題だったろう。

条件をクリアして彼女が保護を受ける決断をするまでには、少し時間がかかったが、「受けることにした。もう振り込まれたの」と、連絡を受けたときには私もやっと、ホッとした。


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