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紅茶シリーズ①緑に囲まれた不思議な家

学生時代に書いた小説 "五月の庭と塩入り紅茶"
のシリーズです。

一人を好むクールで優秀な植物学者の叔母と
人並外れて大人びてしまった小学生の甥。

心に傷を抱えた二人が、少しずつ変化していくお話です。

季節や時間 気持ち その時々の空気感が好きで
この小説の中にも色々な時間が存在します。
主人公のように、入り込んで体感してもらえたら
嬉しいです。

まずはシリーズ①から。
第1章 "植物学者と桜草"   の最初の方。
順に載せていきます。
森に迷い込んだように、
お楽しみください。

*   *   *   *   *

緑色だ。

この場所を見て初めて思ったことはそれだった。
空が爽やかな青色をした、清々しい午前中のことだ。
これから三か月間世話になる叔母が住んでいるのは、僕のような小学生の足でも無理をしない程度には駅から近い一軒家だと聞いている。

しかし実際にその場所を訪れてみると、家が見えるよりも前に、周囲に溢れかえる緑で視界が埋まってしまった。

かろうじて道の役割を担っている飛び石に沿って足を踏み入れれば、庭中に園芸用ばかりとも思えないおびただしい植物が繁茂しており、その中に小さな白い家が埋もれるように、ひっそりと佇んでいた。なかなかの眺めだ。そういえば叔母は植物学者であると聞いている。しかしまさか、植物学者は皆こうした場所に住んでいる、というわけではないだろう。

庭の中央で一度立ち止まって息を吸った。
家を背にして立ち、辺りを見回す。

五月も始まって間もない新緑は瑞々しいばかりで、様々な色合いの緑が、光と陰でより複雑な様相を得て見飽きることが出来ない。端を比較的背の高い樹木がぐるりと取り囲み、その幹の間を草葉が隙間なく埋めているから、この庭は外からの視線が阻まれていた。

庭の中心に向かって伸びる木々の枝によって空間が伏せた椀状に切り取られて、上空にだけは先ほどまで見ていたのと同じ青色が覗き、白い雲が流れていく。

歩いて来る間にわずかにかいた汗が、もう引いている。

涼しかった。

ただ温度が低いだけでなく、潤いを持ってひんやりとした空気は、その時はじめて澄んだ空気というものを知らされるようで妙に気持ちが急いてくる。

体中を巡る血管を満たしていく、新鮮な粒子の存在が感じられるかのようだ。四肢の隅々まで、緑色の清涼な気配が迸る。

鮮やかな色彩が不規則に風に揺すぶられる度、美しさが噴き出してそこに漂うようで、まるで緑色の水の中にいるような浮遊感と高揚感があった。

多少の緊張を持ってたどり着いた庭先で思いがけず心を奪われて、しばらく、その場で立ち尽くした。

普段感じることの無い感覚を受け取った時、時折、別の世界の存在を知らしめられるような気持ちになることがある。

いつも、この世界のどこかにあったのに、ずっと認識せず生きていた自分に気づく。

きっと、その時その時に受け取ることの出来る感覚は、ほんのごく少ない感覚だけなのだ。そしてその範囲は日常の中で刻一刻と変化し続けている。しかし日常がパターン化する中で、その範囲は一貫してくる。

それはその人間が、毎日を送っていきやすいよう、必要な感覚を得られるように開いて。そして、その人間を揺るがすものを遠ざけるように閉じている。

それがこうした時。

自分では予想できないあるとき。

ふとした拍子に、ほつれる。

存在さえ意識していなかった壁の一部が急に消え去って開かれる。普段の自分の生きる世界ではない場所にあるものが思いがけず飛び込んでくる。

受け取った瞬間に訪れる、永遠とも一瞬ともつかない時間。

ふいに現れた存在は青空に浮かぶ稲妻のように不可思議で、強く意識を掴んで離さない。けれど、ただただその姿を目でなぞることしか出来ない。忘れていたことを思い出しても、感覚というものは曖昧で、記憶しきれないことにひどく儚い、頼りない気持ちになる。そこに忘れてはいけない本質があるような気がしてくる。

防ぐことができずに押し寄せる青い匂いは、何だか遠い記憶を呼び覚ますような気がして、ひどく懐かしい感情を喚起させた。

懐かしむ過去があるほど長く生きていないのに、おかしな感情だ。

薄い葉は光を透かし、艶やかな葉は光を照り返す。
マンションの七階で、土から離れて生活をしてきた身には、目に痛いくらいの緑だった。

……ふと、マンションの一室で一心にパソコンに向かう母の姿が目に浮かんで、胸が苦しくなった。

彼女は今、どうしているだろうか。
視線を落とした足元に、いくらか見覚えのある形の花が、木陰でぽつりぽつりと咲いている。
切れ込みの入った花弁が桜のような、ピンク色の可愛らしい花だ。そんな自分が見たことのあるような草花も、まるで目にしたことがない草花も、ここにはそこら中に溢れていた。
一度に目にすることで、気付かなかったそれぞれの特徴が際立って映る。

今までさして関心を引かなかったそれらが、今、まるで鉱山に潜む宝石のようだ。一つ一つを食い入るように見つめて、丁寧にその姿をなぞるうちに、いつしか時間が経つのを忘れていた。
 


扉の開く音がしたので、葉の裏が白い草の陰から立ち上がりその方向を見ると、白衣をきた女性が家の中から出てくるのが見えた。
あまり母とは似ていなかったがあれが叔母なのだろう。むかし法事か何かの時に見た、背筋の伸びたほっそりとした姿は朧げに記憶にあった。
彼女は一度ちらりとこちらを見たようだったが、声はかけず、そのまますぐ家の壁を這っている蔓に視線を移して、クリップボードに挟んだ紙に何か書きとめはじめた。
我に返って慌てて時計を見ると、約束の時間をまるまる1時間も過ぎてしまっていた。

しまった。久しく味わっていないような失態に、頭の隅がひやりとした。すぐに駆け寄ってその顔を見上げたが、叔母は壁に目を向けたまま、ペンを走らせる手を止めない。

「あの、遅れてごめんなさい。今日からお世話になる、瀬野朝紀せのあさきです」
そう言い頭を下げると、叔母はようやくこちらを見た。

肩に触れるかどうかということろで短く切られた髪に、切れ長の目がひどく涼しい。
背後の空の高い所で、鳥の鋭い鳴き声がした。

新條しんじょうです」
単調な声音だ。小学校の先生や近所のおばさんのような、普段の自分を取り巻く大人達とは明らかに子供への対応が違う。怒っているのだろうか?
様子を窺ってもその姿に感情の波立ちは見られない。心情が読み取れず、次に何を言ったものかと考えあぐねていると、叔母は持っていたクリップボードを脇に挟み、右手で扉を開けて支えた。

それに促されるように、僕は庭よりもさらに幾分か、気温の低く感じる家の中に入った。


                続きます。
      読んでくださってありがとうございます。



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