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五月の庭と塩入り紅茶

植物学者と甥のお話。 第4章(全5章)

 第4章 僕と塩入り紅茶

 終わりの時の痛みは強くても一瞬だ。
 息を止めて、別れを告げるものの大きさに気が付かないふりをしていれば過ぎていく。そのまま息つく暇もなく訪れる日常にまぎれ、薄れていく。
 もう、例えそこにわだかまりが残っていたとしても、ただただ自分が楽になりたいから発散するようなことはしない。それは相手の迷惑になるばかりで、成長もなければ後悔しか招かない。
 人のことと割り切れず、わだかまりを感じてしまう幼さを持ったままでも、きちんと相手のことを考えて余計なことをせず見守っていられれば、いずれは大人に近づけるだろう。
 人間は癒されなくても生きていける。そうなることが大人になることなのかもしれない。でもそうであれば、大人になる事はひどく寂しい。
 僕はまだ歩み出したばかりの、この広い世界。皆は長い間、歩いていた。
 自分に空いた隙間を埋められないまま、寂しいまま。
 叔母さんも、母さんも、父さんも。あてもなく、前を向いていると信じて歩いている、この愛しい世界。
 だから僕も歩いていく。
冬の朝みたいに冷たく澄んで、どこか疎で、吸い込まれていきそうな大気。 
 何だか心許ない。
 僕だって隙間が空いているのだから、つりあってちょうどいいのだ。
 静かに息を吸って、足に力を込めて。広い空を仰ぎ、地面に縋るように歩き出す。
 大丈夫だ。
 この世界には優しいものがたくさんある。
……でも。こんな感情のまま、この先何十年も生きていけるのだろうかと。
 ふと、不安になる。

 朝紀がキッチンで、紅茶に塩を入れているのを見た。

 束になった答案用紙の表面にある一枚の、最後の回答欄に赤いマルを描く。名前から顔を思い出すことの出来る生徒の、几帳面な文字が並んでいた。
 今朝紀は、るかと一緒に、近くの神社で行われている祭りに出かけている。
 それ程大きなものではないし、暗くなる前に帰るよう念を押したけれど、やっぱり自分もついていけばよかっただろうかと、今さら未練がましく思った。
 キャップを閉めて、ペンを机に置く。
 私は自室で、自分で淹れたコーヒーを飲みながら試験の答案を採点していた。
 他の人間がいなくなった家は、ふとしてペンの動きを止めると、向こうの部屋まで広がっている静寂が耳につく。
 風が無いから、庭にも音が無い。

……やはり気のせいではなかったのだ。
 三週間程前のことだ。
 かすかだった塩味も、その頃には砂糖とミルクを入れても分かる程だった。
 朝紀に紅茶を淹れてもらっている間に、大学でチョコレートをもらったことを思い出したから、それを伝えようと思ってキッチンに向かった。そして、そこにいる彼の姿を見つけて、足を止めた。
 味にもうすっかり慣れてしまっていて、それを見て、ああそうだったと、思い出した。
 丁度雲が太陽にかかって翳ったキッチンは、やけに薄暗い。
 彼は身動きを取らない。
 後姿が知らない子供のように見えた。
 声をかけたいけれど、かけられない。
 塩が入っていると気づき初めた頃には、私に何かを示しているのかと考えたこともあったが、その時にはもう、そうではないと分かっていた。彼はきっと、私が気付いていると思っていないのだろう。

 では、何故か。
 相手には伝わらない、けれどその行為を繰り返すのは何故か。
 手に取ったカップを揺らすと、残り少なくなったコーヒーの水面が黒く波打つ。
 音をたてずにキッチンを離れた後、自室に戻る途中で冴えた色が目に入った。
 青いモルフォ蝶。
 前に三島先生に聞いた話を思い出した。
 “蝶の鱗粉は普通では落ちないけれど、狭い所で暴れたり、人に掴まれたりすると取れてしまうんです。
 鱗粉は水を弾いて羽を守ったり、空気の抵抗を減らして飛びやすくしたりする。だから全て無くなってしまうと、蝶は飛べなくなってしまう。
 というのも、鱗粉は再生することがなくて、一度取れてしまったらもう、二度と戻らないからです……。“
……彼は。胸の中で暴れているのかもしれないな。
 一人、胸の内を見せない彼が、自分の心をすり減らし落としているようで、言いようのない気分になった。
 けれど、それはあの日を境に、ぱたりと無くなっていた。
 それから湯気の立つ紅茶を、何度味覚を研ぎ澄ませて舌の上にのせてみても、何の変哲もない、茶葉の味がするだけだった。
 行動があったからには、何かそうさせる感情があったはずだ。そしてそれが、この家でこれまで通り過ごしている間に、無くなったとはどうしても思えなかった。
 ペンを取って、採点を再開した途端にしくじり、コーヒーを呷るように飲み干した。 
 目に見えて作用を及ぼさなくなった原動力は、その感情はどこにいったのだろう。
 祭りにはあまり行った事がないから、嬉しいのだと言っていた。一見、元気そうには見えるのだ。
 それなのに。
 籠の中で、青い羽を捥いでいる蝶の姿が頭に浮かんだ。
 籠の周りは、やけに暗い。
 ペンを置き、眉間を指で抓る。
 また、悪い癖だと、頭を振った。

 一斉に鳴った夏の音に、意識を引き戻される。
 見れば今いるかき氷の出店の前から、十メートル程先に風鈴の出店があって、色とりどりの鐘と短冊が揺れていた。
 るかも目を引かれたようで、食べ終わっていたかき氷のカップを捨てると、すぐに転がるようにそっちへ走っていった。
「朝紀ー、来て来て。綺麗ー」 
「ほんとだねー」
 僕もるかの隣に立って、店先に吊るされた風鈴を見上げた。
 風鈴を見たことが無いわけではないけれど、こんな風にたくさん並んで売られているのを見るのは初めてだった。それが一度に鳴るのも、やっぱり初めて聞く。
「風鈴の出店なんてあるんだ。こっちじゃ、いつもあるの?」
「んー、どうだろ。あったのかもしれないけど、あんまり覚えてないなあ」
「お祭りに来るの、るかも久しぶりなんだっけ。あ、見てあれ。林檎飴みたい」
 僕は自分の持っている林檎飴と、紅いガラスの風鈴とを交互に指差して笑った。
「そっくり! 可愛いじゃん。買う?」
「うーん、元の家だと近所迷惑になるかもしれないからな。叔母さんとこみたいだったら、いいのかもしれないけど」
「ああ。朝紀のとこ、マンションだっけ」
 眺めいている間にも時々吹く風に煽られて、硝子や陶器の鐘が、一つ一つの冷たく軽やかな音を混じらせる。水の一滴一滴の流れが川になるように音は響いて、店先の一帯に清涼な気配が立ち上った。
 風鈴の音というのは、なぜこうも涼しく感じるのだろう。暑さと蝉の声にしびれた頭に、心地いい。
 色や形の違う鐘や短冊の中でふと、ぱっと浮かぶように白く映える、一つの鐘に目が留まった。
 朝顔の薄紫の花と、しなやかな葉と蔓の絵が入り、短冊は黄緑色だった。
「……あの白いの、叔母さんに買って行こうかな」
「あ、いいんじゃない。涼音さんぽいね」
 こういうところで、やっぱりるかとは感性が合う。言葉にしがたい感覚が口にせずとも理解されることを心地よく思いながら、お店のおじさんに、指さしてそれを下ろしてもらった。
 紙で丁寧に包んで箱に入れてもらって、手提げに仕舞う。 
 そろそろ帰ろうかと言い合って、まだ賑やかな境内から、進む程に人の少なくなる道を歩き出す。
「ねえまた、遊びに来てよ。あと、あたしも遊びに行きたい」
「うん、来て来て。電車で一時間。本読んでればあっという間」
「都会っ子だから、遊ぶところも色々知ってるんじゃない?」
「うーん。図書館めぐりとか?」 
「こっちでも出来るじゃん」
 元の家に帰る前に、るかとこうして二人で外を歩くのは、これが最後かもしれない。 
 日暮れが迫る辺りの景色は真昼程クリアではなく、けれど鮮烈で、家路を急ぎたくなるような、でもずっとここに留まっていたいような、そんな感情を湧きあがらせた。
 プールがあった日の学校の帰りのような、ゆるく柔らかい空気。 
 少し切ないけれども、幸せな終わりの時間の空気だと感じた。   
 例えこの先、るかと会うことが減り、感性が少しずつずれ始めて、やがて会うことがなくなったとしても。
 空の明るい方を見ると、太陽の光が強く、赤くなり始めていた。
 叔母さんは今頃どうしているだろう。試験の答案の採点をすると言っていたけれど、それはもう終わっただろうか。
 叔母さんとも、もうお別れなんだな……。
 叔母さんのことは、もう納得したつもりだった。でも、今の僕には一つだけ、また別の気がかりなことがあった。
 今朝の玄関での、叔母さんの様子だ。
 叔母さんはいつも玄関にいる時、意識してかしないでか、一瞬、モルフォ蝶の標本に目をやる。
 その目は明るく、翳りがなくて、いつものように寂しそうではなくて、僕はそれを見るのが好きだった。
 一人で外に出かける前にお守りにするかのように、密かに期待して、その目を待つ。 
 それがどうしたわけか、今朝、叔母さんは標本を見なかった。
 少しずつ、胸が苦しくなるようなことが増えていく。 
 もうわめかないと決めたばかりなのに。  
 たまたまだったのかもしれないけれど、一つの光が消える所を目にしてしまったような気がして、思いのほか、すぐに解消できない打撃を受けていた。
 これから、お互いに一人で生きていくのに。
 ずっと一人なのに。
 何も言うことなく離れると決めた今、その一つのことが棘のように胸に刺さって、痛んでいた。
 あの、モルフォ蝶を見る目。
 それ一つで、ちょっと世界が明るくなったような気がしていたのに。
「どうかした?」 
 今日は何だか時々、上の空だったね、と隣を歩いている、るかが言った。
「そんなことないよ」
「……言って良いんだよ。朝紀」
 歩きながらさりげなく言うのに、その声は心深くに直接投げかけられていて、僕は驚いて足を止めた。
「人に自分のこと話すのは、勇気いるよね。でも、気軽に言っていいんだよ。あたしにはもう、お互い様なんだから。あたしは朝紀が聞いてくれたから、あの時涼音さんにも話せたと思う」
 るかも足を止め、僕をゆっくりと振り返る。
「……本人に上手く話せない事を、一度話す相手になるっていうのは、友達の大きな役割なんじゃないかな」
 軽やかさの消えた彼女の姿は、初めて見る彼女の本当の姿のようで、それは僕が思っていた以上に強くて、目を奪われた。
「何が気になるの?」
 何が……?
 彼女の視線に捕らわれた中で、誤魔化しようのない痛みが浮き上がる。
 胸が痛む。痛む……。
 今、一番痛いのは……。
「……あの人はどうして、寂しそうなんだろう」 
 叔母さん。
 離れて人を見る目。植物の中にいる姿。
 それが痛い。
 やっぱり寂しそうに見えるんだ。
 気のせいじゃなく思える。
 あのままでいて欲しくないのだ。
「……ごめん。あたしのせいでもあるんだよ」
 顔を上げると、るかの視線はいつの間にか僕を通り越し、多分、背後の日の沈む方を見ていた。
「あたしが子供過ぎて、感情全部ぶつけて、心配かけて。一人でしかいられないようにしたんだ」
「るか……?」
「丁度あの時……」
 ゆっくりとまた、視線を戻す。
「朝紀のお父さんが事故にあって、意識が戻らなかった間」
 傾いた陽の光が反射して、るかの目の奥が光った。
「ごめん。朝紀にこの話をするのはどうか考えてて、なかなか言えなかった」
 違う。
「プライベートな話なのにね。朝紀のお父さんとお母さんの話なのに。涼音さんのお姉さんの方で何かあったって聞いて、あたしが知りたいって、だだをこねたから」
 知ってること、黙ってて、ごめん……。
 僕を見る、るかの瞳が、一瞬苦しげに揺らいだ。
 違う。
 だって父さんは死んだりしなかった。今では変わらず仕事をして。
 僕は意識の戻らない父さんの姿を見たりしなかった。知ってすらいなかった。
 何もなかったのと同じだ。
 もうすっかり、日常に戻ってしまったんだ。今さら掘り返すなんて……。

“ううん。ちょっと、仕事がはいってね。行ってくるから、留守番してて。”
 母さんは。
 お互いに優秀で教師からも一目を置かれていながら、子供のようなけんかばかりしていた幼馴染の父さんと、大学を卒業してすぐに結婚した。
 それでもとても専業主婦として家庭の中に納まるような人では無くて、僕を生んでしばらくしてからは、夫婦ともに仕事に力を注ぐ道を歩んでいた。
 父さんは仕事柄転勤ばかりで、これでは殆ど母子家庭だと、母さんはさほど困ったふうでもなく言っていた。

 突然のことだったのだ。

 父さんは転勤先で事故に遭い、一週間近く意識を失っていた。
 けれど母さんはそれを僕に言わなかった。
 僕が事故のあった後に初めて父さんを見たのは、意識を戻して、退院して、リハビリのために家に戻ってきた姿だった。
 リハビリは順調だったようだ。治り方は早い方だったらしい。
  そうしてすっかり回復してから、また父さんが転勤していくまで、あっという間だった。
 悲しんだり、怖くなったりしている暇もなかった。
 それでも父さんが治ってから、それまでと変わらない日常を過ごしている中で、じわじわと反動のように、胸の中で何かが渦巻き始めた。

 何故、言ってくれなかった?
 そんなに大事なことを。
 分かってる。
 僕が子供だったからだ。
 母さんの様子がおかしいことに気が付かないくらい。
 きっと、その時父さんが事故にあったなんて言われていたら、パニックを起こして、ただでさえまいっていた母さんを困らせていただろう。
 分かってる。
 母さんだって、余裕がなかったんだ。
 僕のことを考えてのことだったのかもしれない。
 もう終わった事なんだ。
 今さら掘り返すなんて、出来ないよ。

 だけど……。
 懐疑心は罪悪感と共に胸の中で、消そうとする度、見ないふりをする度、かえって押し寄せてきた。濁った色に煮詰まり、時々泡立って、苦しくなった。
 楽になりたくて、吐き出そうとして、それでしたのが、何故か母さんの紅茶に塩を入れること。
 それを続ける途中で母さんに見つかって、塩の入った紅茶をシンクに空けた。
 ただの勘違いということになって、伝えたかった想いごと、どこかに消した。
 気付かれなかったからいいのだと。
 そして、それは今も。
 叔母さんにまで。
 それではどうにもならないことを、ようやくあの時知って、やめて。 
(……あの思いは、今頃どこにあるんだろう)
 この世界のどこか遠くにあるようでいて、まだ僕の奥底で、澱のように溜まっている気がする。
 汚いな。
 なんてどろどろとした胸の内なんだろう。
 その分、日常的に接する度に、愛想を増して。
 本当の僕を見たら、彼女たちは、僕のことをどう思うだろう。
 僕は綺麗じゃない。
「色んなことが重なった時期だったんだ。涼音さん自身に、何かあったわけじゃないのに」
 我に返って、顔をあげる。
 そうだ、今、叔母さんの話をしていたのだ。感傷に浸っている場合ではない。
 るかはさっき、何と言った?
 自分が一人にさせたのだと。それがちょうど、父さんが事故にあった頃だと。
「元々あたしが、前からまいってたもんだから、好き勝手に発散してた時期だった。それから学校でも、仲のいい同僚の女性が、精神面の理由から退職してね……」
 そんな時に……。
 父さんが事故にあったという知らせを、たまたま母さんに掛けた電話で聞いたのだと言う。叔母さんは父さんが意識不明のままでいる時に、母さんに付き添いに、遠い病院までやってきた。
 そして、彼女にとって強い存在だった姉が、夫の事故に打ちのめされている姿を見て、衝撃を受けたんだろう、と。
 母さんが駄目になっていた間、叔母さんも、それを支えようとしたのだ。それでも何だか、叔母さんの方も駄目になってしまったらしい。
 母さんがもともと、心が折れることなどないのではないかと思う程、気丈な人間だったから、その母さんが駄目になっているのを見て、どうにも悲しくなってしまったらしい。
 最初は取り繕っていて、それからやっぱり駄目になってしまったから、それが余計に。
「それから、人が少しでも悲しそうな顔をしていたり、苦労している話を聞いたりするだけで、たまらなく悲しくなるようになっちゃったみたい。皆人に見せないところで、我慢しているように思える。皆本当はギリギリのところで生きているように思える。それが辛くて耐えられないから、自分がまた駄目になってしまいそうだから、あまり間近で見ていられなくなったって……」
「そんな……」
……そんな事って、あるだろうか。
 皆が皆、悲しく思えてしまって。他人まで、幸せであって欲しいと願って。でも、そうとばかりはいかないから、見ていて耐え切れなくて、人を遠ざけるようになって。自分が毎日やっていこうとして。
 そんな人っているだろうか。
 それでも結局、こうして受け入れている。
 一度親しくなれば、心配する気持ちが勝って、例え耐え切れなくても、辛くてももう振り払えない。皆とても大事で。愛しくて。ずっと見ていたいけど、心が揺れるから、ずっとは見ていられない。
……だからあの庭に出て。植物を見て。人を忘れて。
 でも植物だって大事で。遠くて寂しくなって。
 どっちにしろ、癒されないじゃないか。いつまでたっても、辛いままじゃないか。
「そんなのって、ない…」
「あの人はね。優しいんだ。優しいから、周りに傷ついた人間が集まる。そんな人間を見て、どうにかしたくて。でも不器用だし、弱さの無い人間なんていないから、どうにもできなくて。どうにもならないのを見て、あの人はまた傷つくんだ。……愛情があっても、そう上手くはいかない」
 るかはそこでどこかが痛んだように、眉間に皺を寄せた。
「それだけ、一度ついた傷がすっかり癒されてしまうのは、難しいことなんだと思う」
 噛み締めるように、息と共に吐き出した。
「……だから私も、自分できちんと立ち直るまでは離れようと思って、自分なりに折り合いをつけてから、戻ってきた。そしたら朝紀がいてさ、また同じ事してるのかって、ちょっとだけムカついた。甥だって聞いた時に、大変だったんだろうなと思ったし、朝紀を知るようになってからは関係なくなったけど。それに昔のあたしと違って、自分のことだけじゃなくて、涼音さんのこともきちんと考えてるのが、嬉しかった」
 ほんとに嬉しかったんだと言って笑って、僕を見た。
「あの人が辛くならないためには、傷ついてない人間であるのが良いのかもしれないけど。でも、朝紀みたいに人のことを考えられるなら、例え傷ついていても、傍にいることに意味があるような気がする」
 それは……。違う。僕は自分が一番大事な人間だ。
 でもるかの、穏やかな笑顔を見ていると、口に出せなかった。
「僕は……叔母さんは大人で、強い人なんだろうって、だから傍にいる必要はないだろうって、最近になって思い直してた……」
 傍に人は必要ないと。叔母さんに限らず、そういうものなのだと。
「そんなことないよ。きっと……そんなことない」
 自分にも言い聞かせるように、そう言う。
「辛そうな涼音さんは見たくないけどね。でも、周りに誰もいなくて、一人でいる涼音さんなんて、絶対見たくない」
「るか……」
「お互いに思い合ってるんだからさ。きっと何とかなるんじゃないかって、思う……。本来、人がいることは力になるはずなんだ。寂しさを消してくれるはずなんだ」
あたし達だって、そうでしょ? と、問いかける。
「あたし、涼音さんと話す前、朝紀がいたことが本当に力になったんだよ。一人じゃどうしようも無かったことが、出来てしまえるものなんだって、その時分かった」
涼音さんだってきっと、人が必要なんだ……。るかの声が空気に溶けて、僕の頭に沁み込む。
 そうなのかもしれないと、思った。
 だって今、ここにるかがいるのが、嬉しかった。心強かった。
 強い友情だ。
 離れたって、きっと変わらない。
……一人じゃないんだな。人間って。
 まだ少しぎこちなく、それでも笑い返すと、るかは頷いて、僕の手を掴んだ。
「いつかきっと、涼音さんは立ち直ってくれるって思ってる。前みたいに、もう少し人と関わるようになれるって……。あたしのせいでもあるけど、でも、だからこそ、あたしはそのために出来る事をしないと」
「うん……。僕もだ」
 目を見合わせて、笑う。
 繋いだ手に、力が生まれるようだった。その温度が心地いい。
「それからね、朝紀。この間さ、涼音さんに言われたんだ。もっと自分を大事にしてくれって。自分のこと大事にすることは、悪いことなんかじゃないって」
「え……」
「子供なんかは特に、絶対に必要なことだって。それに罪悪感を覚える必要はないってさ。“るかは人のことも考えられるから、思う存分自分を大事にしろ”って言われたから、それは朝紀じゃないの? って言ったら、二人共だ、って。朝紀も、そういうところがあるから、心配だって言ってた」
 僕は驚いて、二の句が継げなくなった。そんな僕を見て、るかはにやっと笑った。
「そうゆうこと」
 僕の手を握る力を強め、ぶんぶんと振ってから、離した。
 僕は、何だか急に重しが奪われてしまったような気持ちで、肩をすくめて笑った。
「あーあ。なんか、敵わないかも」
「今度は、あたし達の番さ」
「そうだね。……時間がかかるかもしれないけど。僕はるかみたいに、一歩踏み込む度胸が、なかなかないから」
「あたしのは度胸なんかじゃなくて、相手の都合より、自分の感情が先に出ちゃうだけだよ。それに言ったでしょ、朝紀の支えがあったからだって。だから、今度何かあったら私に言って。心配してくれる人がいるだけでも、全然違う人間になれるから」
「うん」
「大丈夫。朝紀はあたしより、ずっと大人だよ」
「うん……」
 何となく二人とも、遠く空の明るい方を見た。
 きれいな色の夕焼けだった。茜雲が浮かんでいる。
 辺りの空気が軽かった。
「……帰ろうか」
 二人で歩き出せば間もなく、るかとの分かれ道だった。
 でもまだ、手の平に温度が残っている。一人で歩いて行ける。
「じゃあ、またね。気を付けて」
「うん、朝紀も。もうすぐ暗くなるから」
「ちょっと遅くなっちゃたね。叔母さんに怒られるかも」
「朝紀、滅多に怒られることしないもんね」
 あ、でも、とるかは何かを思い出しように、ふふ、と笑った。 
「たまには失敗もするんだね。前に一度、急に来て朝紀が涼音さんのために淹れた紅茶、奪ったことがあったじゃない? 学校の休み時間にせっかく見つけたのに、涼音さんずっとあきらと喋ってて、話かけられなかったーって」
 でも、あたしが飲んじゃって良かったよと言って、首をすくめた。
「朝紀、うっかりしてたでしょ。しょっぱかったよ。ミルク入れても分かるくらい」

……一瞬、血の流れが止まったかのように空白が訪れて、その直後、強く脈打つ。
――叔母さん……?
 ダメだ。
 また、痛い……。

 庭に出ると、ちょうど辺りが暮れなずむ頃だった。傾く日差しが、目を細めずにはいられない程眩しい。
 その光が、草木を金色に染めていた。
 息を吸った。
 自然は心を奪ってくれる。
 幼い頃から、自然が好きで、特に、草花が好きで。
 学生になり、学問としてそれと接するようになり、そのまま大人になり、仕事になって。
 見方が大分変った面もある。変わらない面もある。
 複雑になって、見えるようになったり、見えなくなったり。
 一つ一つに目的を持って集中することが多い中、こうして広く全体を見渡す時、とても懐かしい気持ちになる。
 どこか現実とは違う場所があり、そこに通じたものが、ここにあるような気がしてくる。その歴史や、奥深さ、壮大さ感じさせるのは、自分にはどうしたって行けない場所だ。
 幻滅したって、無味乾燥なものに見えたって、たまに押し寄せてくる、強い憧れと切なさ。
 理由があるわけじゃなく、誰にとってもそういう物であるわけでもない。ただ自分が見ていて、何故だか堪らない気持ちになる。ただ在ることが意味になる。それが自分にとっては、これなのだ。自分にとってこんな物があるのが不思議だった。人の心を揺らすために、作られたわけでもないだろうに。
 それは強く、生きていく糧になる。
 辛い時ほど姿が顕わになる、空を駆ける、とてつもなく強く、太い一本の光の筋。生きていくための道になる。
 まだ見ていない、その先に在る何かが、とてつもなく心を揺らす。
 それは遠いもので、美しいもので、今の自分とはわけ隔てられたもので、ひどく寂しくなることもあった。
 全方を植物に囲まれて緑色の空気を吸っていると、気が遠くなるようなことがある。
 息を吐く。
“自分の心配をして。”
……傷つけてしまっただろうか。
 自分のただのつまらない性格よりも、朝紀が負った傷の方が優先されるべきだと思った。でも、間違った対応だったのかもしれない。
 彼らを、知らないうちに何度傷つけたことがあるのだろう。
 私の知らないところで、どれ程傷ついてきたのだろう。
 私の子供というわけではないけれど、なら、どれほど干渉していいのか。いいとしても、
 何をしていいのかわからない。 
 傷ついて、ダメになってしまう子供がいる。
 傷ついて、乗り越えていく子供がいる。
 その決定的な違いはなんだろう。必要なものは何だろう。
 彼らはこれから自由に、無理なく大人になっていくことができるんだろうか。
 大人だって……。
 姉さんのように、立派な大人になってから決定的な打撃を受けることもある。
 私が、自分は完全に大人だと胸を張れないように、誰もが傷を残したまま、大人になっていくのだろう。
 姉さんのような、強く見られることに躊躇が無い、大人であることに言い訳をしない人間の方が、実は内側には、たくさんの傷がそのまま、誰かから癒されることなく残っているんじゃないだろうか。
 どんどんと、歳とともに増えていく。
 苦しくはないのだろうか。しんどくはないのだろうか。皆、そんな風に見えてしまう。
 私のような、辛い時にも残る、人知を超えるような糧があればいい。でもそれすらなければ、私にはただ、目と耳を塞いで蹲る自分の姿しか思い浮かばない。

 この世のどこかでいつも身を潜めている、底無しに深い闇。それはおどろおどろしく渦巻く、予感ですら戦慄するような悪夢で。行けば二度と戻ってこられなくなるような、人間にはどうすることもできないような、どこかこの世界の果てにあるものだ。
 その闇につかまってしまう人が居る。引きずられていく人が居る。
 朝紀や、るかや、あんな小さな身体から溢れだすような、濃い闇が生まれることもある。発散できている内はいいが、それを外に出す術を失った時、その子はその人は、その心はどうなるのだろう。
 優先すべきは、癒す術を知らない彼ら。

 甘やかしていると言うのだろう。駄目にすると言うのだろう。
 確かにそれも分かる。自分の思うままに甘やかして駄目にしてしまう親もいるだろう。それが正しいことだとは思わない。 
 けれど時折、彼らを柔らかく幸福感に包まれた、何の不安も苦痛も無い場所へ、連れて行きたくなる。   
 そして一度傷を癒されれば、そこからでも、きっと自分の意志で羽ばたいていくのではないかと思うのは、私の思い違いなのだろうか。
 確かに力になりたいと思うのに。
 それでも結局、何もできないでいる。
 想うだけでは、何にもならない。いつも私は、嫌になるくらいに無力だった。
“何か、思ってることがあるんだったら……。もし、僕に相談にのれることがあるなら……”
 私のことまで、心配してくれた。自分の痛みがあるのだろうに。
 自分の痛みに耐えているのがやっとな人間同士では、癒し合えないのかもしれない。
 もっときちんとした、強くて、物事を知っている人間なら、そんな大人なら、助けられていたのかもしれない。 
 こんな風に何も出来ずに、ただ一人で悩んでいるだけなら。心配させて傷つけて、不用意に痛みを増やすなら。
(やっぱりもうしばらく、人と関わらない方が良いんだろうか……)
 日は沈まず、金色の草木が揺れていた。彼はまだ、帰ってこない。
 ふと、視界の隅が翳った気がした。
 西日の射す木々の間から長い影が伸びて、一瞬の間に、通り過ぎっていったようだった。
 その、通り過ぎていった先を見る。門がある方だった。
 そこには。
 知らない子供のような顔をした彼が、長い影を伸ばして立っていた。
 


 
 
 速足はいつの間にか、駆け足に変わった。
 一段と密度を増す、緑深い夏の庭。
 息苦しいような草いきれ。温い風が運ぶ、混じり合う草と花の匂い。
 汗が伝う。
 べた付く肌を、外側からじわじわと浸食されていくようで、ひどく不快だった。殆ど埋もれている飛び石を視界の端に感じながら、その庭の中へと足を踏み入れる。
……眩しい。
 ここはどこだろう。
 平穏で退屈な日常は、めまぐるしく景色を変える。
 
 叔母さんは、初めてここを訪れた日のように、それ以上に緑に埋もれるように立っていた。
 細い身体が周りの木々と同じように、鮮烈な日差しを受けて翳っている。
 その景色が、痛い。
 逆光だったけれど、かろうじて表情は分かる。目が合うと、彼女は黙っている僕に戸惑った顔をした。心配そうに、大きな瞳が彷徨う。
 またそんな顔をする。
「……どうして何も言わないの?」
 自分の口から、今まで何度も喉元で詰まった声が、意外なほどするすると出ていく。枷が外されたように、抑えようとする意識が働かない。
「紅茶の味。おかしかったでしょ? どうして怒らなかったの」
 叔母さんが小さく、肩を揺らした。
 頭が熱い。急に立ち止まった身体が強く脈打っている。
「馬鹿だね。心配かけてる? なんて聞いて……。僕の方から、心配かけさせてたんだね。……だからいいんだよ。そうやって、発散してるんだから。僕のは、僕は、心配する必用なんてない……」
 早まった鼓動はなかなか治まらないのに、外に出ていく声は淡々として冷たかった。嫌な声だ。
……だってそうだ。知らず知らず人を傷つけて、癒されているんだから。格好つけたってだめだ。結局はわがままな子供だ。傷つけられたと、わめく必要なんてない。
だから叔母さんも……。
 自分だけを守ってよ。そうでないと、甘えたくなってしまう。
 苦しめてしまう。
 叔母さんは、そんなことしなくていいんだよ。自分を守っていればいいんだよ。人の痛みまで、自分のものにする必要なんて、ないんだ。
「ね。僕は……、大丈夫だから」
「……駄目だよ。朝紀は、まだ子供なのに……」
「関係ないよ!」
 前触れなく飛び出した声は鋭く弾けて、辺りの空気を切り裂いた。
 叔母さんが息を呑む。
「子供だから、人に迷惑をかけていいなんてことない。成長するために、他人を犠牲にすることなんて、ないんだ」
 続く言葉も、抑えようと意識しなければ叫び声になってしまいそうだった。
「そうだよ。辛かった。不満だった。でもそれは叔母さんに対してじゃない。母さんに対してだ。父さんの事故のことを知らせてくれなかったのを、いつまでも根に持って、拗ねてるだけなんだよ。……母さんの気持ちも考えずに」
 目が見開かれ、大きな瞳が、揺れる。
……通じた。
 吐き出してしまった。こんなにあっけなく。
 僕らがいるこの場所には、強く熱い光を受ける、一面の草木がざわめいている。
 ここはもう、僕の渦中だ。
 黄金の波。感傷的で陶酔的で、分かり合えてしまえそうな……。
 でも、心は触れ合わない。触れ合わせてはいけない。
僕よりも、辛いのは母さんだ。父さんだ。叔母さんだ。
だから行き場がないんだ。この痛みは。
 だれかが楽にしてくれると思って、期待して待っていたって、仕方が無いのだ。
 自分でどうにかしないといけない。
「朝紀、それは……。それは仕方の無いことだよ。それだけ大きな事だったんだから……。長く続くのだって、仕方が無い。だからもっと、表に出して……。もっと周りの人に伝えて……」
 叔母さんは息を詰まらせながら、それでも僕に伝えようと言葉を返した。
 硬質さの宿らない眼も、決して僕から逸らさない。逸らすまいとしているようだった。
「誰に……? 母さんだって、まだきっと傷が癒えてないんだ。直接経験しなかった僕よりもずっと。父さんだってリハビリしてて、早く職場に戻ろうと頑張ってた。それでも、自分のことを優先していいなんて……。それは、僕のわがままなんじゃないの?」
 言葉が、止まらない。自分でもはっきりとは知らなかった感情が、形になっていく。
――辛さを吐露すると言ったって、結局は彼らを非難することだ。自分は彼らのせいで傷ついているのだと。だからあなた達がなんとかしろと、そう言うだけの話だ。
「確かに……姉さんたちも大変だったけど。でも、二人も朝紀のこと、きっと心配して……。あの人達なら、きっと言ったって、受け止めてくれるんじゃないかって……。朝紀は普段、ただでさえわがままを言わないんだし、そんな朝紀なら、きっと」
「叔母さんは、叔母さんなら、そうかもね。でも、それが正しいことなのか……」
 頭がぐらぐらする。
「叔母さんは、無条件に人に優しいから……信じられない」
 待ってと止める間も無く、言葉がすり抜けてゆく。喉が心地良い。
 でも、胸が痛い。
 叔母さんの瞳が揺れた。
 
 その後ろでぷつりと、留めていた糸を切ったように。
 待宵草の蕾が広がった。
 その後も緩やかに広がりながら、またぷつり、ぷつりと、愕や花びら解いていく。
 嘘みたいだ。生きている。
 やめてよ。
 見たくなんてないんだよ。
 叔母さんから想われているだけのくせに。叔母さんに優しくもしないくせに。
 
「僕だから許されるんじゃないんだ。叔母さんが優し過ぎるんだよ。初めてこの家に来た日……」
 あの日から、この人はもう。
「カップが割れてた……。心配したんじゃないの。いつまで経っても来ない、まだ会った事も無い子供の僕をさ」
 そうだ。素っ気なかったけれど、あの時から変わらない。この人はどんな子供が来たって、心配してしまえる人なのだ。
「ゼリーやアイスなんて買ってさ。叔母さん、食べてるところ、見たことないし……。叔母さんはそうやって、皆のこと心配してるんだ。でも皆、心配してもらえるような人間なわけじゃないんだよ」
 それに気付いた時、嬉しくて心が温かくなって、少しだけ悲しかった。
 全て、この人が優しいからだ。
 甘えたらいけない。 
 僕じゃなくても、叔母さんは誰でも心配をしてくれる。
 その優しさが嬉しくて、救いで、嫌だ。
思わず痛みを投げ出してしまいたくなる。
 でも、違う。僕は。
 僕は心配される必要はない。
 僕の分は、必要ない。もう、一人で生きていきたいんだ。自由になりたい。
 
「っ、子供は、傷つけたらいけないんだ。でも、それだけじゃない。朝紀は……。客観的に見ても、大人で。十分すぎるくらい、気を使ってると思う。だから……少しくらい」
 いつも落ち着いている叔母さんの声が上ずっている。ひどいことを言ったのに、叔母さんはまだ、懸命に言葉を続けようとした。自分でも確信が持てないだろうことを、それでも。
 きっと僕のために。僕のための言葉を探している。
 でも。
 だけど。
「少し、話してみるくらい……」
 言葉を続ける彼女の背後で、別の花も一つ、また一つと開いていく。
 赤く萎んでいたあの花。
 夜でもはっきりと分かる鮮明な黄色は、黄昏時には煩い、無神経な色だ。
 過敏な神経を逆なで、刺激した。
「でも話したって、言ったって誰も楽にならないじゃないか。皆、痛い思いをするだけで」
 楽になれないんだ。
「話したって、楽にならないんだよ。余計に嫌な思いになることだってあるんだ」
 そうして、関係ない人まで嫌な気分にして……。
 だったら、言わない方がいいじゃないか。
 皆みたいに、自分で自分を支えて、生きていくべきなんだって。
 そうやって生きていきたいって。
 どこにも行けないのならもう、疲れるのは、痛い思いをするのは嫌だ。
 こんな風にわめいている僕なんてもう、見たくないんだ。
 嫌になるんだよ。
「それは、それは私が……、もっと上手く聞けたら。どうすればいいのか、分かったら。本当はそれは、朝紀の責任じゃないんだよ。周りの人間がもっと……」
「やめてよ!」
 耳が痛い。
 どっちが本当なのか、分からなくなる。甘く安心できる、繭のような温もりの中で眠る。凍えそうに爽快な道を一人で、大地を踏みしめ歩き出す。そのどちらかに。楽になるための場所へゆこうとするのに、揺らいで心が定まらない。 
「守られるべきだって言うんなら、こんな思いはさせないでよ。自立するべきだって言うんなら、優しくなんてしないで……」
 しゃべる程に、醜くなっていく。自分でも知らなかった自分の本当の姿が、焼き付いて、胸に刺さっていく。それを叔母さんに知られていくことが、さらに胸を痛くした。
 それでも、一度外に出した言葉は戻らない。
 少しくらい……?
 少しで済むか、分からないんだ。思ってた結果にもならない。上手く楽になれないんだ。
 ただ。外側から受けた傷は、内側からの傷より、強力で絶対的だ。
 僕自身全てに、影響を及ぼすものだ。
 だから外に出すことは、なるべくしないようにと思っていたんだ。
 こんな風になるから。
 ああ、少し前までは、この瞬間を思い描いていたのだ。
 破裂する瞬間。相手を突き飛ばして、思いきり傷つけて、それで楽になれると感じた。感情を全部ぶつけてしまって、吐き捨ててしまえば、あとはもう、爽快だと。
 けれど破裂しても、苦しい。殻を破って、外に出ても、その広い世界にもまた、閉塞感が支配している。自分の口から出ていく言葉が、さらに空気を黒くする。
 叔母さんの吸っている空気まで。
 ああ、だから。だからやめようと思っていたのだと、思い出す。
 
 叔母さんは何か言いたげで、それでももう、言葉を発さなかった。
 僕は彼女の口から、どんな言葉を聞きたいのだろう。何を聞けば楽になるのか、自分でも分からないくせに。
 それとも、ただ打ちのめすことが、目的だったのだろうか。
 彼女は目を逸らさない。僕を見る瞳が、揺れている。
 辺りの景色もざわめき、鮮烈なままだ。
 届きそう。通じ合えそうなのに。
 開いてゆく待宵草の花を背にする叔母さんの姿が、夢のように揺らぐ。
 
 悲しい程、遠くに見えた。
 
 この人……。
 少し離れたところで、距離を保って見ている。
 何も言わないけれど、まとう空気が優しくて。
 自分にも優しくされたいとか、そんなことは思わずに、ただ、幸せであって欲しいと願っている。
 寂しそうなら悲しくて、無理をしていそうなら辛くて。
 傷つく姿を見れば、他の何もかえりみずに、飛び込んでくる。
 なぜそんなにも優しいのか。そんなふうに人を愛せるのか。
 僕は今、何をしているのだろう。
 彼女に対して、僕は何だろう。
 迷惑をかけまいと思っている間に、心配をかけている。
それが当然のような気もして、悪い気もして、嫌な気もして。
 これが子供というものだろうか。大人と子供の関係なのだろうか。
 じゃあ、僕はまだ大人になれない? 心持ち次第というものではないのか。
 彼女に傷を残して。恨んで。その恨みでなんとか自分を保って。痛みはしつこく、持て余したまま。
 傷を与え続けて大人になるのか。周りが自然と、心配することをやめる年齢になるまで。歳を重ねるまで……あと何年だ。
 そんな僕を、その時彼女たちは祝福してくれるだろうか。……くれるかもしれない。
 でもそんなふうに大人になった僕に、何の意味があるのだろう。彼女達と対等に接する資格があるだろうか。
 
 光の悪戯か、彼女の姿が遠ざかっていくように見えた。夕闇の中に掻き消えそうで、手を伸ばしたい。けれど身体が動かない。
 
「……ねえ。叔母さんは、どうなの」
 近くに行きたい。
 距離がつかめない。一度外に出ることを知った言葉は止まらなかった。僕には関係の無いことまで土足で踏み込んで。彼女の胸をえぐる。
「叔母さんこそ、辛かったんじゃないの。直接その場にいたんだから」
 心配されるべきなのは、叔母さんなんだよ。
 優しい人が、綺麗な人が、優先されるべきなのだ。そういう世界であって欲しいのだ。
「なのに。どうしてそうやって、人のことばっかり見てるのさ。叔母さんの方が、辛いんじゃないの。だったら叔母さんも、人に甘えなよ」
 こんな綺麗な、寂しいところにいないでよ。
「こんなところに……植物の中にいるのだって、辛いんじゃないの。それで癒されるの」
 不安で、愛おしくて眩しい。
 だから通じ合わない。僕では無理だ。初めからすれ違うはずなのに、この人が優しいから、同じであるような気がしたんだ。
 でも彼女が悪いわけじゃない。
「叔母さんだって、自分のこと、何も言わないじゃないか。そういうのって、不安になるんだよ。僕のせいで苦しんでるのにも気が付けない。自分が嫌になるんだ」
 叔母さんが悪いわけじゃないのに……。
 
 風の音だけが、二人の間を通り抜けていく。
 叔母さんは黙っていた。その目を見ても、感情が読み取れない。
 傷つけてしまっただろうか? それとも嫌われてしまっただろうか。
 
 違うのに。
 
 何度も吐き出したいと思った時に浮かんだ、彼女達の姿。一人で、辛さを表に出す事なく。
 遠くに見えた。
 僕もそうなろうと思った。
 本当は見ていて悲しくて、その辛さをどうにかしたいと思ったけど。
 遠くて……。僕のような子供では、どうにも出来ないから。早く自分も、同じ気持ちを知ろうと思ったのに。
 
 本当はきっと、父さんと母さんだって受け入れてくれるんだ。
 ひどいと非難したとしても、それにとっさに反発する程、子供じゃない。
 ああ、自分達は子供を傷つけたのだと、胸が痛むだろう。傷つくだろう。表には出さなくても。それでも自分たちは親なのだからと腹を括って、そうして、僕の状態を何とかする方法を探すのだろう。
 皆きちんと、考えてくれているのだ。大人なのだ。
 それでも勝手に傷ついて……。苦しまなくてもいいことで苦しんで。 
 それを知られたくない気持ちと、知って欲しい気持ちと。
 表に出すべきだという主張と、隠すべきだという抑制と……。
 隠すべきだと思ったのだ。意地を張るにしろ、結果を考えるにしろ。
 
 中途半端に堪えようとして、堪え切れずに吐き出してしまって。人を傷つけて、自分も、楽になれずに……。
 
 こんなつもりじゃなかったのに。
 
「楽にできなくて、ごめん……」
 叔母さんが、小さな声で呟いた。
 押し潰されるように、胸が痛んだ。
 やってはいけないことをした。
 やっぱり、結果がこれなのだ。自分のわがままに付き合わせて、優しい人を、傷つけただけ。
 これまでの関係にも、戻れない。
 あんなに……あんなにかけがえのない時間だったのに。
 
 どうしていればよかったのだろう。
 誰に問題があるのだろう。
 いつも、一番馬鹿なのは僕なのだ。
 心配をかけていたのは、迷惑をかけていたのは、結局僕じゃないか。彼女が請け負う必要のない悩みを増やしていたじゃないか。
 だったら、始めから話す気も起きなければよかったのに。分かり合おうと、思わなければよかったのに。
 こうして……。
 こうして僕は、我慢が出来なくて吐き出してしまったんだ。
 せめて、叔母さんの口からも、僕への不満を聞いておきたい。
 でも、今の僕のように。叔母さんも言えば、痛みを増すのだろうか。
 
「違うんだよ」
 両手で額を覆って、彼女から目元を隠した。
「違う。……ごめんなさい。心配するようなことじゃないんだよ。甘えてるだけなんだ。僕が、子供なだけなんだ」
 情けなく、聞こえるかどうかも分からない声だった。
不快なほどに高まり、脳を焼いた体温はすっかり冷めていた。
 でもまだ、頭がぐらぐらする。
 もう、終わりにしなくては。
 吐き出したのだ。いつまでも、ここで、こうしているわけにはいかない。
 叔母さんに早く、家に入って欲しい。
 それに、疲れてもいた。もう眠ってしまいたかった。
 はあ、と詰まる胸から息を吐く。
 こんな風に人の世話になって、迷惑をかけて。三か月もの時間を使って。
 結局、変れなかった。
 俯いた視界に叔母さんの足元が入って、それ以上顔を上げられない。
 
 向こうに求めた景色はないのだと、何度知れば分かるのか。
 もういい加減に、広く荒涼とした世界を受け入れて、息苦しくてもそこで生きていけるように、強くなろうとしなくてはいけないのに。
 
 嫌になるくらい子供だ。
 結局いつも、同じ事。それでも苦しければ、誰かに縋りたくなる。
 叔母さん……。母さん……。
 
「父さん」
 ベッドで半身を起こして、パソコンのキーを叩いている父さんに、ドアの隙間から呼びかけた。
「ああ。悪かったな、朝紀。びっくりしただろ」
「ううん、……僕、父さんが退院するまで、父さんの事故のこと、知らされてなかった……」
「そうなのか……?」
 部屋に入った僕に、父さんは珍しく、ベッドの端を叩いて、近くに座るように促すようなことをした。
「母さんもな。ショックだったんだろう。俺は事故にあった時のことも記憶にないし、意識も無かったから、驚いただけで、殆どショックは無いんだ。……母さんはいつも通り振る舞ってるけど、きっとまだ、落ち着かないと思う。リハビリが終わったらまた、向こうで仕事をしないといけないだろうから……。その間母さんのこと、見ててくれるか?」
 父さんらしくもなく、まだぎこちなさの残る腕で、僕の頭を撫でた。ずっと撫でていた。
 胸が苦しくなった。目の奥が熱い。
 ようやく、この人がいなくなっていたのかもしれないという、恐怖が身体を駆け抜けた。
 
 ねえ、父さん。
 見てたよ。
 ずっと、見てた。
 でも、母さん、僕に何も言わないんだ。
 母さんも叔母さんも、人前で喚くことも、人に当たることもしない。
 弱音を吐くことも、泣くことも。怒鳴ることもない。
 そんな彼女たちを見ている、僕はどうしたらいい?
 責めるに責められない。優しくするに出来ない。
 僕じゃダメだって、否定されてるみたいで……。
 
 ぷつりと。また、花が開く。黄色い花弁が庭に広がる。息苦しくなる。
 
 足りない。愛されている。大事だと思われてる。
 でも足りない。
 それでも足りない。
 僕が変わらなければと思った。変わろうとした。
 変われない。
 何がそんなに悲しいのだろう。何でこんなに苦しいのだろう。
 目の奥が懐かしく熱くなって、最近ずっと泣いていなかったことを思い出す。
 泣く歳じゃない。
 涙は溢れて零れることは無かったけれど、一粒目頭を離れて、草の上に落ちた。
 寂しい。寂しい。 
 父さん。母さん。叔母さん……。
「ごめん……」
 
 もう、こんなに苦しいのは嫌だ。
 楽になりたい。
 これは僕の本音だ。
 それだけだ。
 
……助けて――。 
 言えない。言いたくない。
 
 草木が風に、さらさらと揺れる音がする。
 少しずつ、辺りは暗さを増していた。
 やけに暗く、静かに闇に呑まれていくようだった。
 世界がまた、閉じていく。それでも広すぎる。恐怖を感じる程の寂寞の中で、一人で。
 この先ずっと、この痛みを抱えて。生きていけるだろうか。
 誰かの名前を呼びたい。
 撥ね退けたがり、嫌がりながら。
 それでも縋る相手を、痛みを委ねる相手を探してしまう自分が浅ましかった。
 情けなくて、悲しくて、消え入りそうだ。
 
 
「心配したいんだ……」
 
 
 気のせいかと思った静かな声は、それでも耳に、響きがずっと残っていた。
 顔を上げると、叔母さんも顔を俯けていた。
「……何も出来ないのに。それでも、考えていたいんだ。私は多分、心配したがりなんだね」
 ばつが悪そうに少しだけ笑って、目を伏せている。
「心配したがりで、構いたがりで。その上不器用で、どうしようもない人間なんだ。……私も、わがままなんだよ」
 言葉を切り、顔を上げると、息を吐きながら庭を見回した。透明な眼だった。
 彼女の目に、この庭はどう映っているのだろう。
「確かに遠いんだ。一生見ていたって、慣れないのかもしれない。平然と付き合える日はこないのかもしれない。……それでも、やっぱり好きなんだ。こうして同じ場所にいて、見ていられることが、どうしようもなく嬉しい」
 夕闇に浮かび上がるように、声が響く。
 それに何だかね……、と叔母さんは、淡い笑みを浮かべて振り返った。大人のものでも子供のものでもない。柔らかな、真っ白い笑みだった。
 何だか、辺りに滲んでいってしまいそうだ。
「この庭の景色が、少しずつ変わってるんだ。眩しいのには変わりないのに。途方もなく、遠いのに。……なのに。何だか随分、温かくなってしまって……」
 また、花が開く……。
「朝紀が来て、るかが戻って。植物に囲まれて。私は、もうずっと……」
 全ての花が、開く。
 
――何だかひどく、幸せなんだよ。
 
……沈もうとする太陽が、一際強く輝いた。
 息が止まるような景色だった。
 永遠のような時。
 粒子が身体の隅々まで迸って。深くに根付く痛みまで、さらっていくかのようだ。
 
母さん……。
 
 
……優しくされると、なぜかひどく、楽になるんだ。
 そこは広い荒涼とした大地でも、狭い囲いの中でもなく。
 本物の記憶なのか、思い描いたイメージなのかは、判別ができない。
 
 もっと幼い頃のいつか、三人で過ごしたあの日々。楽しいものがたくさんある。まだ見ていないものが輝いている。温かく、幸福で、何の心配も無い……。
 
 
 あの場所に、帰ってきたような気がするんだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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