五月の庭と塩入り紅茶
第二章 猫と苺大福
六月の雨が降りしきる庭に、紫陽花が冴えた青色を放っている。
薄いカーテンを捲り、窓から覗く。すると深い葉の色に浮かび上がるようにその姿が見えた。
咲き始めは周囲の葉にまぎれるようだった萼片が、少しずつ白っぽくなっていく。白くなった所から浸食されるように日に日に青さを増して、この鮮やかさに至るまでを見ていると、一体この色は何処からやってくるのだろうかと不思議に思えてくる。
雨が窓を叩き、色が滲んだ。
紫陽花は雨を待つように、ちょうど梅雨の時期に花を咲かせる。人は雨が降ればそれを避けるが、植物にとってはその身を潤す恩恵なのだ。これまでに叔母さんから話を聞いた植物は皆しとどに雨に濡れ、晴れた日とはまるで違う様相を僕の眼前に晒していた。
窓を開ければすぐ手に届く所にある草葉でさえ、物言わず雨に打たれているその姿は、やはり自分とは違う生きものであることを感じさせる。
叔母さんはそれでもこの庭に下り、植物の手入れをする。僕も手伝うと言ったのだが、駄目だと言われてしまった。
白衣の代わりのレインコートを濡らして、鬱蒼とした庭の一角に音もなく佇んでいる。途切れる事のない雨音の中、細い背中が深い緑に隠れていくのが、何だか妙に寂しく思えて仕方が無かった。植物が好きな叔母さんにはまた違って感じられるのかもしれないが、それはそれで、余計に自分との違いを感じてしまって、落ち着かない気分にさせられる。
あれ程その葉の形を、花の色を身近に感じたのに、僕にとって、どうしても雨の降る庭というのは寂しいものだった。
こうして窓からの景色が寂しさを増し、じわじわと心細さや人恋しさを喚起させるようになるにつれ、その分この小さな家の中が温かさと充足感を増していった。叔母さんが庭から戻って重いレインコートを脱ぎ、さらりとした白衣を羽織り直すのを見ると落ち着いた。
しかしそんな彼女も、今は家にも庭にもいない。彼女が仕事に出ている間のこの家は、普通であればどうということもないけれど、時折霧のように広がっている物寂しさが、心の隙をつくように襲ってくることがある。
カーテンを開けたままソファに座り、外を眺める。
元より植物に囲まれたこの家は、雨に包まれることでより一層世間から隔てられていくようだった。いつもは果てしなく続く空の色を覗ける上空でさえ、分厚い灰色の雲に覆われる。自分のいる場所がどこか別の、閉じられた世界であるかのような錯覚を起こして、そこで過ごす人間の心情を知らずと物憂いものにしていく。
普段からそれ程起伏の激しくない精神は、落ち着くのを通り越してそのまま沈み込んでいきそうだった。
……最近また、口数が減ってしまった。
梅雨入りしてから以前のように庭に下りて、そこにある植物の話を聞くことが無くなった。そうでなくても目につく粗方の植物の説明は聞いたので、あとは新しく咲いた花のことであったり、よりくわしい説明であったりを、思い出したように聞くだけだ。
慣れてしまえば僕と叔母さんは基本マイペースで、二人揃って自分の部屋にいることも少なくない。それは母と二人で過ごしている時でも言えたことだが、叔母さんが母よりも口数が少ないのは明白なことで、同じ部屋に居ても無言で過ごしている事もある。
平常なら居心地が悪いとは感じないだろうが、否、今も決して悪いわけでは無いのだが、まだ距離感が曖昧であるために、やっぱり落ち着かなかった。
一昨日、叔母さんに聞いた。
――花弁に見えているのは、本当は何枚かの萼片の集まりなんだ。
――紫陽花は、土の酸性度で色が変わるって言ったけれど、それは酸性度によって、土に溶けるアルミニウムの量が変わるから。
――紫陽花にはアントシアニンという色素が含まれていて、そこへ土に溶けたアルミニウムが吸収されると、青色になる。他にも補助色素だとか、いくつかの要素に左右されるけどね。
(どの花もそうやって色が決まるの?)
――ううん。多くの花は種で色が決まっていることが多いから、紫陽花みたいに環境によって色を変えるものは珍しい。七変化とも言われるくらいだから。
――紫陽花も、他の花についても、花の色についてはこれまでに多くの研究がされてきた。科学の進展に伴って推進がみられたけれど、依然として全貌は解明されていない。私たちは世界のことを、本当は全然知らないんだよ。まだまだ、たくさんの課題があるんだね……。
そうか、と思った。僕のような子供からすれば、学問というのは元々学校にある教科書で、学ぶために用意されているものだ。それも繰り返し、当たり前のように学ばれているものが。しかし叔母さんからしてみれば肝心なのはその先で、まだ分かっていないものを、自分たちの手で、これから解明しようとすることなのだ。見えていないものを、遠くにあるものを、見て。
時折見せる眼差しの意味が、少し分かったような気がした。
寂しくは、ならないのだろうか。
そんな、あるのかどうかも分からないものを見続けて。
……そういえばあの人はこの家に、元々は一人でいたのだ。今の僕のように、誰かの帰りを待つわけでもなく。
人目を阻んで、植物に囲まれて。こんな雨の日にも空の家を背に庭の手入れをし、また家に戻って机に向かう。
ローテーブルに乗った両腕を引き寄せる。横には唯一僕と同じ場所で息をする、アジアンタムの柔らかな葉があった。
それをぼんやりと眺め、腕に顔を埋めた。
どれくらいそうしていたのだろうか。部屋に響く高い音に気がついて、頭を上げる。
続けざまに鳴った音は、インターホンのものだった。時計を見ると、調度叔母さんの帰る頃である。
鍵を忘れたのだろうか。あの人は隙のない外見をしていながら、一つのことに集中すると他への意識が疎かになることがあるからな……などと思いながら、玄関に向かう。
自分のスニーカーにつま先だけ突っ込んで鍵を開けると、僕が扉を開けるのを待たずに外側から勢いよく扉が開いた。静かに開くと予想していただけに、僕は大げさに壁際まで後ずさり、座り込んでしまった。一瞬ひやりと、頭の隅が冷たくなる。
にわかに大きくなった雨音と共に、その人物は中に入ってきた。
「あんた誰?」
不機嫌そうに吊り上った眉の下の、大きな猫目で見下ろされ、声が出ない。
それは一見、少年のようにも見える女の子だった。
顔に見覚えはない。女の子とはいえ、僕よりはいくらか年上だ。フードのついたパーカーに短パンという、スポーティでボーイッシュな服装だが、パーカーは雨に濡れて色が濃くなった面積の方が多い。
今も短い髪からポタポタと絶え間なく水滴が落ち、その面積を広げていた。
「涼音さんは?」
「す、すずねさん?」
二、三本リブの折れた傘を三和土に放ると、耳を突く音とともに、飛沫が散った。
「だから、この家の人だよ。新條涼音。大学の先生の。涼しい音で涼音」
涼しい音。
まだこの家に来て間もない頃の、庭に立つ叔母さんの姿が浮かび上がった。
「……名は体を表す」
「え、うっそ分かる?」
彼女はじっとりと雨水を吸って重そうなスニーカーを三和土に落とすと、これまた雨水を吸った靴下を脱いで廊下に上がった。僕の前に来てしゃがみこむと、目線が並ぶ。
「五月生まれだからね。合ってるでしょう」
「あ、えっと……?」
僕よりも背は高いものの小柄で、それ程体格に差が無い。彼女と僕と、玄関なんかで二人して座り込んで、子供同士の作戦会議のような図になった。……小学校の友達ともしたことはないが。
「まあ、初めからどう育つかは分からないけど。逆に、名前とか生まれた季節が育ち方に影響したりもするのかな。どうなんだろ」
突然の来訪者は目の前の僕にかまわず、首を傾げて思考を巡らせている。
そうか。母が四月生まれで陽香、叔母さんが涼音と、季節感を表して付けられた名前なのかもしれない。母は春の柔らかな日差しよりも夏の強い日差しが似合うような人だが、叔母さんはやや響きが女性らし過ぎるものの、思わず納得するくらいに似合っているように思えた。しかし五月生まれというなら、おそらく僕がこの家に来てから一緒に暮らす間に、誕生日が過ぎていたのだ。いや、それよりも、自分は実の叔母の名前も知らずに一か月もの間この家で過ごしていたのか……。
思いもよらない事実に愕然とし、訪問者を前にした現状のただ中で呆然とした。
同じく、目の前には僕のことを忘れて、自由に思いを巡らせている様子の彼女がいた。
すると彼女の背後で再び、今度は殆ど音を立てずに扉が開いた。
「ただいま――」
閉じた黄緑色の傘を持った、叔母さんだった。
未だに座り込んだままでいるのを思い出し、立ち上がる。しかし叔母さんはしゃがみこんだまま振り向いた来訪者の顔を見て、目を瞬いた。
「るか」
ドライヤーとサマーセーターを借りた彼女は、タオルを首に巻きつけたままリビングで緑茶を啜っている。
目は猫だが、ついさっきまでは濡れ鼠だった。まだ乾ききっていない黒髪は叔母さんと同様に短いが、どちらかというと子供っぽい印象を受ける。叔母さんの大学に通う大学生だそうだが、まだ高校生くらいにも見えた。
葛西るかというらしい彼女のことを、着替えている間に叔母さんに尋ねたのだが、叔母さんはどうも心ここに在らずといった様子で、反応が鈍い。どうも驚いているように見えた。
「何か部屋、すっきりしたね」
「あ……。うん」
部屋を見回してそう言った彼女に、叔母さんはわずかに目を伏せた。
僕も改めて部屋を見回す。片付いているのは、僕が来る前に掃除したからなのだろうか。しかし、元々置いてある物自体が少ないような気がするのだが……。
案外、自室に物が押し込んであったりするのだろうか。紅茶を渡すときにも扉の前で、中を目にしたことが無いから分からない。
「もう、傘が折れてさ。避難しに来た。まあ、元々来るつもりでいたんだけど……」
そう言って鞄の中から、里村屋と書かれたビニール袋を取り出してテーブルに乗せる。
「引っ越しがやっと終わってね。引っ越し資金稼いで、部屋探して、移るまでに結構かかっちゃった。そんで大学の帰りに寄った」
「家、ここから近いの?」
聞きながら、僕は中身の少なくなった彼女の紅色の湯呑に緑茶を注ぐ。
「まあね。十分くらいかな。前はもっと近かったけど」
「十分……」
叔母さんが呟いた。思わずモノローグが漏れたという感じの、小さな呟きだった。
「そういうあんたは何なの?」
頬杖をつき、僕の方を見る。さっきよりはあたりが柔らかい。
「甥っ子だよ。姉が出張の間、預かることになったの」
「預かってもらってます」
ふうんと言って、彼女はもう一度横目でちらりと僕を見ると、袋をがさがさと探って大福を一つ取り出し僕にくれた。苺大福だった。
それから叔母さんと、自分の前にも普通の大福を置き、包装をはがすなり口に運んだ。
つられて叔母さんも、包装をぺりぺりとはがし始める。
「里村さん、元気だった?」
「うん。元気、元気」
叔母さんと彼女がごく自然に会話しているのを見て、僕はどうも驚いているようだった。叔母さんが気を許すような人が、あまりいるとは思っていなかったということだろう。
しかし、それはきっと自分が出会った時のイメージからそう思ったのであって、話しかければきちんと返してくれる人だから、もしかしたら大学ではこのように親しい人が多くいたりするのだろうか。元々家が近いそうだから、それで顔見知りになったのかもしれないが……。
「食べたら。美味いよ」
彼女が自分の持っている食べかけの大福を振って見せた。
悪い人ではないように思える。大福をもらったからというわけではないが。
表面が片栗粉ですべすべとした大福は、一口食べると餅が柔らかく伸びる。もう一口食べると餡と苺が一度に口に入って、ああ、こんな味だったなと、何だか懐かしい気持ちになった。随分前に食べた記憶がある。
彼女はすっかり大福を食べ終え、また緑茶を飲んでいる。
叔母さんも一度、置かれたままだった緑茶に口をつけ、再び大福を食べ進める。
色々聞きたいことはあったのだが、場が落ち着ききっている。
叔母さんと初めて食事をした時のように、こうして机を囲んで茶と茶菓子を味わっている空気感に、じんわりと思考を奪われてしまっていた。先ほどまで浮かび上がっていた疑問が、心の奥深くに絡め取られていく。
口に残る最後の一口の大福を飲み込んで、緑茶を啜る。
するとそれは一緒に呑みこまれて、音も無く消えていった。
霧を吹き飛ばすつむじ風のように現れた彼女はこの小さな家の中に留まり、少しだけ湿度を下げるようにして、やがて馴染んだ。
*
「っていうか、朝紀っていくつ?」
「十一歳と七ヶ月」
「あたしの二分の一くらい? 大人びてんね。仙人とかあだ名付けられない?」
「ないよ」
緑茶を吹き出しそうになった。
「あんまり涼音さんと似てないね」
「母さんと叔母さんも似てないしね。父さんの血も入ってるし」
初めの鋭い視線は印象的だったが、その後彼女が全くといって良い程に僕に対して気を置かないので、つられて僕の気までゆるんでいった。こうやって叔母さんが帰ってくるまで二人で過ごすことも多くなり、気付けば長い付き合いの友達だとか、気の合う親戚のような間柄になっている。
叔母さんを待つ間は概ね、リビングのソファで緑茶を啜っていた。るかが和菓子を持ってくるので、緑茶を淹れることが多かった。
るかの祖父母は和菓子屋をやっているらしく(母方の祖父母で、姓を里村というらしい)、最初に持って来た大福は買ったものだが、普段売れ残ったものや形が不恰好でお店に出せないものがあると、分けて貰えるのだそうだ。
今は彼女の持って来た漫画を、床に並べて二人して読んでいる。
同じ姿勢で読んでいるうちに肩が凝ったので、一度読みかけの漫画をテーブルの上に置き、伸びをした。床に座ったままソファに上体を預けて、視線を変えると、ダイニングテーブルの上の花が見えた。
細長いグラスに活けられた、白い花だ。片側が五つに割れた飛行船のような、鐘のような、面白い形の花がいくつか、連なって茎から下がっている。今日るかが来るなり、折れてた、と言って手渡してきたものだった。この家までの道の、空き地の前に落ちていたらしい。昨日は雨が大降りだった上に風も強かったから、煽られて折れたのだろう。叔母さんが帰ってきたらどんな花なのか聞こうと、そう思ってのことだろう。
「涼音さん、まだかな」
心を読んだようにるかが言って、カーテンを捲る。雨は降っていないが、暗くシルエットのようになった枝の間からは、白一色の空が見えた。
こうして叔母さんの帰りを待つということは、以前には無かったことらしい。合鍵があるわけでもなく、また叔母さんが家にいない時に来ても意味が無いので、授業の後や休日に時折訪れていたのだそうだ。
それ以外にも、二人でいる時に叔母さんの話を聞く機会が、何度かあった。
学校での叔母さんについて、孤立とまではいかないが、誰とでも気安く接するというよりは、ある程度距離を置くタイプだと聞いた。生徒に対しても敬語を使い、質問に答えていることはあっても、るかのように友達然として話しているところはあまり見ない。もちろんこうして家を訪れる生徒も他にはいない。るかも友達をここに誘ったことはないそうだ。
――うん。そうだな。人が多いの苦手そうだし。
――それに何か、隠れ家みたいでね。今はそうでもないけど。
そう言うるかの口調はどこかしみじみとしたもので、僕の知らないその当時の様子を想像させるものだった。
何となく、るかが叔母さんと知り合ったきっかけは聞かずじまいでいた。自分が気後れするだけでなく、彼女が気丈そうでいて、一部とてもナイーブなところがあるのを、見ていて感じたからだった。
雨の中、或いは不穏な曇り空の下にあるこの家は、人さえいれば、もしかしたら一番安心できる空間なのかもしれない。そこで歳の差はあれ、こうして子供同士で過ごすというのは、例えば秘密基地のなかで秘密を共有するような、そんな心地だった。
叔母さんが帰ってくると、ここは秘密基地のままのような、それとはまた少し違った場所のような、不思議な空間になっていく。
大人と一緒にいるような、けれど子供同士でいるような、どこか欠けた、けれど柔らかい、妙な安心感があった。
るかは分かりづらいものの、寂しいのではないかと思えるような素振りを見せることもあって、それが僕といつも通り言葉を交わすにつれ、さらに叔母さんが帰ってからは、身を潜めていくようだった。
三人でいる時の彼女は持っている活発さが制限なく表に出て、叔母さんもるかの歯切れのいい語り口に、思わずといった様子で笑うこともあった。
それが嬉しいようで少し寂しく感じてしまうのは、僕のわがままだな、と思った。
「あ、涼音さんだ。鍵、鍵」
るかが玄関へと駆けていく。僕はキッチンにまわり、叔母さんの分の緑茶を淹れるために茶筒を手に取った。
「ただいま」
「おかえり。授業どうだった?」
「うん。降りそうだったけど、何とか観察できたよ」
るかと共に部屋に入ってきた叔母さんが、床に鞄を下ろして、ソファーに座る。
「おかえり」
「ただいま。ありがとう」
叔母さんに緑茶を渡し、ついでに中身の減った、るかと僕の湯呑にも急須を傾けた。
叔母さんが手にしているのは、薄青の地に一か所だけ花模様が入っているいつもの湯呑だ。るかが使っているのは紅い湯呑、僕は藍色の湯呑と、三人がそろう時には何となくそれを使うようになっていた。一口お茶を飲んだ叔母さんが湯呑を置くと、三つの湯呑がテーブルの上で小さな三角を描く。
「ん?あれは……」
顔を上げると、叔母さんがダイニングテーブルの方を見やっている。
「あ。あれ、あたしが持って来たんだ。道に落ちててさ」
「そうそう。何ていう花なんだろ」
「ああ、これはね」
叔母さんは立ち上がり、ダイニングテーブルの近くへ行って、白い花を見下ろした。
「釣鐘草。学名はカンパニュラ・メディウムといって、カンパニュラはラテン語で『小さな鐘』という意味がある。“釣鐘草”の他にも独特な花の形に因んだ名前が多くて、風鈴草とか、英名ではベルフラワーとも言われているね」
「何か、蛍袋とかいう花で、こういうのってない?」
「うん。蛍袋も別名の一つで、花の中に蛍を入れて光を灯して眺めたからだとか、花の形が提灯に似ていて、提灯は昔“|火垂≪ほたる≫"と呼ばれていたからだとか言われてる」
「へえ。光を灯すって、何か随分ロマンチックだね」
滑らかな曲線を描く花を、指先でつつく。
視線を感じて見上げると、叔母さんがこちらを見ていた。
「なに?」
「うん……。そうやって家に花を飾るのって、嫌いじゃない?」
「? ううん。割と好きかな」
「そう」
顎に手をやって何か考えるような叔母さんに、一体何だろうとかと首を捻った。
お茶を飲む以外でも、三人で過ごす時間が増えていった。
自室にいることが多かった僕も、るかが来るとリビングで話をする。他愛ない話に花を咲かせていると叔母さんも、パソコンといくつかの資料を部屋から持ち出して、ダイニングテーブルで仕事をしたりした。
パソコンのキーを叩く音と僕らの話し声。それぞれのBGMとするにはこの場所は狭く、距離が近い。それらは一体となって響いて、部屋の空気に溶けた。
降り出した雨の音にも気づかない程に話し込んでしまい、ふと時計を見れば、夏場とはいえもうすっかり日の落ちている時間帯だった。
夕飯のお裾分けにと茄子と鶏肉のカレーが入った小鍋を受け取り、るかがまだ温かいそれを抱えて家を出る頃には、辺りはとっぷりと暮れていた。
玄関の扉を開けると、細い雨音とともに、外気が入り込んでくる。
水を吸った土の匂いが鼻を突いた。
「一緒に行こっか。十分くらいでしょ?」
彼女が一人、暗い戸外に出ていくのが、何だか目に痛く刺さった。
「帰り危ないじゃん。ダメだよ」
かたり、と音がしたので見ると、叔母さんが無言で自分の傘を取り上げていた。僕も笑って、すぐに自分の傘を手に取る。るかはなんとも言えない顔をした。
三人で彼女のアパートまで行き、二人で戻って来ることになった。
るかは素直に喜ぶ顔は見せなかったが、きっと嬉しいんだろうな、と思った。僕も嬉しかった。
*
――驚いた。
レインコートを雨粒が弾く感触が、肩越しに伝わってくる。
幾筋もの雨が視界を通り過ぎていく中で、その日の光景が蘇ってきた。
彼女。
るかがまたこの家に、以前と変わりなく訪れるようになるとは思ってもいなかった。
だからるかと玄関で会った時、とても驚いたのだ。
引っ越すことは聞いていた。しかし、それにしても長い期間姿を見せず、学校でも言葉を交わさなかった彼女に、もうすっかり来ないものだと思って過ごしていた。
――引っ越し? ……そう。どこに?
――……少し、遠くなる。
――そう……。
そう言う彼女はこちらを見ず、窓の外に顔を向けて、どこか遠くを見ているようだった。
当たり前のように振る舞い、時間がかかった理由を語る彼女に、その時の心境を尋ねることさえできないままで、この現状に至っている。現状に胸を撫で下ろしながら、けれど何事もないように気楽そうにしている彼女を見ていると、浮かんでくる不安を払拭しきれず、時折心がざわついた。
止まっている手を動かすと、握った鋏の感触が戻って来る。
白い花を落としたシマトネリコの、雨に濡れた艶やかな葉を掻き分け、根元から伸びる細い枝を切る。その横に、葉に隠れるようにして生えているキキョウを見つけて、また手が止まった。
それはまだ蕾で、風船のように膨らんでいる。キキョウは開花直前まで、花弁同士がくっついたまま膨らんでいくため、蕾がそうした形になるのだ。
――何ソレ。可愛い! めっちゃ可愛い!
実物ではない。その時るかが見ていたのは、パソコンの画面上のものだった。もし実物であったなら、鉢に植え替えて、残らず渡していたかもしれない。
今なら、ここで実物を見せることも出来る。
ほっとしつつ、けれど自分の知らない所で、何か取り返しのつかないものの影が身を潜めているのではないかと思えてくる。そしてそれが一向に見えないまま日常を送っていることに、焦りを覚え、背筋が冷えることもある。……全て気のせいかもしれないが。
何も出来なかったのではないか。
何もしなくていいのだろうか。
肩越しに、雨粒を弾く感触が、伝わってくる。
分からないことばかりだった。
ただ、この日常が壊れないままでいることを、願うばかりだ。
……以前と何一つ変わらない。
「叔母さーん! お茶、飲まないー?」
振り向くと、開いた窓の向こうで急須を掲げて、朝紀が笑っていた。
*
カウンターの上に、るかの持って来た和菓子が置かれている。それはカットされた、端の部分の大納言カステラだった。カステラの端っこというのは、実は結構好きだ。給食の食パンでも、たまに一番端の耳の部分が回ってくると、結構嬉しかったりする。
カステラを見ていたら、今日のるかとのやりとりを思い出した。貰ってばかりなのを気にした僕に対して、元々あたしが貰ってばかりなんだからいいのだと、有無を言わせない口調で言いくるめ、さらには軽く頭に手刀をくらったことまで思い出し、苦笑する。
るかは、人の傍に一歩踏み込むことを臆せずする。
怖くて、勝手に距離を作ってしまうことのある僕には、その一歩はとても眩しく映った。
見習わなくてはならないかもしれないな。
そう思いながら、ふと紅茶の缶を取り出し、蓋を開けようとした手を止める。テーブル上で、湯呑が描く三角が頭に浮かんだ。
缶を棚に戻すと、急須をカウンターの上に置き、緑茶の茶筒に手を伸ばした。
*
柔らかく包むような青い闇の中で、雨音が静かに響いていた。
遠い雨の音と、深い呼吸から入り込む夜気に、体の内側から浸っていく。やがて辺りに沈むように、体の細胞が少しずつ、それと同質になっていくようだった。
身体が享受する感覚をまだ手放したくなくて、薄れる意識の中でしがみつこうとするも、次第に思考も言葉も失い、自分さえ透明になって安らいでいく。
潮が引くように雨音が消え去ると、急にピントがあったように、目の前に明るい部屋が残った。辺りの静寂が耳を突く。まどろむような感覚はとうに消え失せて、覚醒した意識がはっきりとした光景を目に映す。
昼間の現実的な明るさの中にある部屋には、六月の雨の気配は微塵も無い。
ああ、夢か。と思った。
シンクやガスコンロの並ぶその内装は、明らかにキッチンだったが、叔母さんの家のものではない。カウンターの上に並ぶ道具類は、もう何年もの間目にしているはずなのに、その並びが嫌によそよそしくて、気持ちが悪かった。
目が覚めたら、綺麗に忘れてしまえばいいと思った。
忘れたって、覚えている。
始まりとなった日のことも、しっかりと。
紅茶に入れるはずもない結晶を、ほんのわずか。
繰り返す度、徐々に増えていく。
たっぷりのミルクと砂糖で消されてしまう。
徐々に白の面積が増えるスプーンを傾けながら、涙がじわりとながれるような……。
仕事で忙しくしている母に、お茶を淹れてあげるのが幼い僕の役目だった。
初めは嬉しかった。密かに得意にすら思っていることだった。
やるせない。我慢するばかりで気持ちを伝えられない。正面をきって言う勇気はない。軽口のふりをしてさらりと伝えてしまえる程、器用でもなかった。
その気持ちを吐き出すように、ある時、紅茶に塩を入れた。
分からない程度に、最初は、ほんの悪戯心で。それから、胸がどうにもならない鬱屈で一杯になった時に、その悪戯を繰り返した。口に出してしまいたかった。けれど、それは母の邪魔になってしまう。それは出来なかった。
だから、叱られるその時を、自分の気持ちを吐き出すその瞬間を夢見て。
一方的に違和感を持ち始めたこの関係。長く出口の見えない閉塞感。それに終わりを告げる時、破裂が生ずるその時。
解放される瞬間。楽になる瞬間。
その瞬間を思い描いて、だんだんとその量は増えていった。
母さんは。
紅茶に、ミルクと砂糖を多めに入れる。
分からないと知りながら、分かって欲しいと思いながら。そんな事が続いた。
カップを取り出す。迷う。
迷った時点で大抵ダメで、殆ど必ずだった。
あの時。
気付きもしなかったことの、恥ずかしさ。
何も言わなかったことへの、腹立たしさ。
スプーンの先にわずかに乗った白い結晶が、カップの底へと落ちてゆく。湯気の立つ濃い色の水面に触れれば、すぐに見えなくなってしまう。広がってゆく粒子の刺激だって、たっぷりのミルクと砂糖に掻き消されてしまう。
鮮やかな色。
湯気が立ち上って。
懐かしい、温かい、涙の滲むような芳香……。
そんな時自分が、何よりも嫌になった。
肩にぐっと、力を掛けられているようだった。
押し潰されるように重くて。
少し、くらりとした。
雨の音はいつから聞こえていたのだろう。目が覚めたのは、どこからだろうか。
部屋の湿度は決して低くないはずなのに、白い壁はペタペタと乾いて見えた。
カラカラだ。
ああ。苦しい。
彼女の顔が、見たかった。
*
……やっぱりおかしい。味が。
手に持っているティーカップを傾けると、水面が緩やかに揺れる。
今日は休日であり、家で長く机に向かう。
そのため今朝、朝紀に紅茶を淹れてもらった。
その味がおかしい。
ただ茶葉だけのものでなく、わずかな塩味を感じるような気がするのだ。
以前何となく、ミルクを入れる前に一口飲んでみた時に、その味にわずかな違和感を持った。気のせいのような刺激に、その時は何とも思わなかったのだが、それから時折、紅茶を運んでもらった時には、一口ストレートで飲んでみるようになった。
毎回ではないものの、途切れはしない違和感は、少しずつその程度を強めていった。そして今、確かなものになっている。
――塩が入っている。
シュガーポットに入っているのは砂糖であるし、別で用意しているのにわざわざ入れておく必要も無いから、間違えたということはないのだろう。
一体、どういうことなのだろうか。
紅茶を渡しに来る朝紀の顔に、これといった不自然さはなかったはずだ。
一見何の変哲もない水面を眺める。
背後で、くぐもったインターホンの音が響いた。
玄関の扉が開く音がし、るかの明るい声と、それを出迎えるいつもと変わり無い朝紀の声が、壁越しに聞こえてきた。
ティースプーンを手に取り、砂糖を入れようとして、再び元に戻す。
ミルクピッチャーとシュガーポットには手を触れないまま、もう一度ティーカップを持ち上げた。
リビングの方へと、声が遠ざかっていく。
確かな、けれど微かなその刺激を舌の上に感じると、目を閉じた。
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