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子どもの成長から 集団で学ぶということ

 今年の春から、4歳の息子と一緒にストライダーの練習を始めた。

 ストライダーはペダルのない自転車だ。もちろん、付属のペダルを取り付ければ自転車として乗ることもできる。

 息子が自転車に乗れるようになり、近い将来、一緒にサイクリングをしたい。その願いを込めてプレゼントした。しかし、3歳の誕生日に買ってからほとんど乗ることはなく、物置の奥にしまったままだった。

 そのストライダーを出して、「今年こそは」と息子を誘った。

 ストライダーの公式サイトにある「ストライダーはじめてBOOK」によれば、ストライダーが乗れるようになるまでには5つのステップがある。


  1. 立ち歩きでゆっくり進む

  2. シートに座れたらヨチヨチウォーキング

  3. 歩幅もコントロール自在。ストライド走法

  4. 両足離してバランスキープ

  5. いろんな乗り方・遊びにレッツトライ


 5のステップまで乗れるようになれば、ペダルをつけて自転車のように乗れるようになりそうだ。今年中には5のステップまでいけるだろうと、1の立ち歩きの練習を始めた。

 しかし、1の「立ち歩き」から二人の悪戦苦闘が始まった。

 毎日一緒に公園を走り回って遊んでいた息子に、ストライダーにまたがり、ハンドルを持って歩くことに何の楽しさを見いだすことができるだろう。練習を始めてすぐに「ねぇ、走って遊ぼう。」と言われてしまうのだった。

 そこで、シートに座らせ、ハンドルを持って押してあげることにした。これならストライダーに乗る楽しみを感じて、練習をやる気になってくれるはずだ。

 案の定、息子は風を感じ、楽しそうに乗っていた。立ち乗りにも挑戦して、笑顔がいっぱいだった。楽しい乗り物に自分で乗れるようになる。その思いが少しだけ生まれ、立ち歩きに少しずつ慣れていった。

 次は「ヨチヨチウォーキング」だ。

 だが、ここで練習はまた停滞してしまう。

 ストライダーに乗って自分で歩いたところで風を感じられるわけではない。この乗り方には息子が感じた<楽しさ>はない。つまり、「ねぇ、走って遊ぼう。」が「ハンドル持って。」に変わっただけだった。息子とストライダーに乗る練習は、「なぜこんなことをするのか?」という「必要感のなさ」との戦いだった。

 これは長い戦いになりそうだと覚悟したが、その覚悟は杞憂に終わる。

 同じ保育園の友達の存在だ。

 いつものように公園で遊んでいると息子の名前を呼ぶ声がした。その友達はストライダーに乗っていた。しかも、ペダルを漕いでいたのだ。一緒に公園に来ていた友達の父に話を聞くと、二、三日前にペダルを漕ぐ練習を始めたばかりだそうだ。始めたばかりだというのに既にペダルを漕いで進むことができている。

 様々な意味で衝撃を受けていた私だったが、息子の呟いた言葉は聞き逃さなかった。 


 「僕も乗れるようになりたい。」


 「ねぇ、ストライダー取りに行こうよ。」と息子が誘ってきた。そこで、家まで取りに戻り、再度、公園で練習している友達のところまで向かった。

 「僕もね。ストライダーに乗れるんだよ。」と息子は「立ち歩き」で友達を追いかけた。友達は「ストライド走法」で勢いをつけペダルを漕ぎ始める。もちろんあっという間に置いていかれる。

 その様子を見て、ストライダーに乗ることを諦めてしまわないかと心配に思っていた。

 しかし、その心配とは裏腹に、息子は自然と「ストライド走法」のような漕ぎ方を真似して進もうとしていた。もちろんうまくいかない。「練習頑張ってね!」と友達に応援されながら、その日の公園遊びが終わる。


 その日を境に、息子はめきめきと上達し始めた。

 公園に行くときは必ずストライダーを持っていくようになった。

 ただ、練習をするわけではない。公園の入口からストライダーに乗って遊具のそばまで行き、乗り捨てて後は遊具で遊んでいる。

 大きかったのは、ストライダーに乗って保育園の友達が来てくれるようになったことだ。友達がストライダーに乗っている姿を見て、思い出したかのようにストライダーに乗り始める。先に進む友達と一生懸命追いかけ、追いかけた先で遊ぶ。そしてまた、ストライダーで移動して遊ぶ。それを繰り返していた。

 1週間が経つ頃には「ヨチヨチウォーキング」を終え、「ストライド走法」へと進んでいた。もうしばらくすると「両足離してバランスキープ」までできるようになっていった。そして、一月半程経った頃にはペダルを付け、漕いで進む練習を始めた。

 この頃から、息子の行動にも変化が出てきた。

 自分から「ストライダーの練習しよう。」と公園へ誘うようになってきたのだ。もちろんその言葉には「公園で遊ぼう」という意味が含まれている。そうだとしても、遊びの一部にストライダーの練習が含まれるようになっていったことが伝わってくる。

 ペダルを付けてからは、ぺダルを漕ぐ動きが難しいらしく、サドルを持って後輪を持ち上げペダルだけを漕いだり、タオルを脇に入れて吊り上げてバランスを保ちつつ進んだりして練習を重ねた。ペダルがぶつかってアキレス腱あたりに内出血もよくできていたし、「もうやらない!」と怒ることも多々あったが、毎日欠かさずストライダーに乗って公園で遊んでいた。


 そして、今日。息子はストライダーのペダルを漕いで自分で進んだ。

 昨日は下り坂を利用してペダルが漕げるようになり、今日は平らな道を漕ぎながら進むことができた。


 「できた!」と喜ぶ息子の笑顔は、たまらなく愛おしく思える。




 息子がストライダーを乗れるようになったのは、友達の存在が大きい。

 それは、「上手なお手本」ということではない。それなら私がストライダーを乗って見せたところで、息子は乗ろうとしていたはずだった。

 息子と彼の遊びを見ていると互いに同じ行為をしている。どちらかが地面に穴を掘れば、穴を掘る。どちらかが遊具に登れば、遊具に登る。「真似しないで」と怒る割には、真似によって遊びが生まれ、真似をやめることによって新たに真似たくなる遊びが生まれている。

 こうしてみると、息子にとって彼は、「近付きたい」存在になっていることが分かる。

 ある意味「憧れ」とも言えるが、対等な関係性の中で息子は彼に近付こうとストライダーを練習し、結果として上達していった。


 旧ソ連の心理学者、ヴィゴツキーが提唱した「発達の最近接領域」は教育の世界では有名な概念だが、それは「子どもが今日共同でできることは、明日には独立でできるようになる。(「思考と言語」より)」というように、「共同」、つまり、「他者」の存在を必要としていた。

 さらに、「興奮、無関心ではいられない契機は、どうしてもあらゆる教育活動の出発点とならなければなりません。(「教育心理学講義」より)」と、「情動的反応」も教育には必要だという。

 「発達の最近接領域」に見られる成長を引き出す「他者」は、誰だって良いわけではない。「僕も乗れるようになりたい。」と息子の心を揺れ動かしてくれた「彼」にしかできなかった。

 「できるようになりたい」と心を動かす「他者」の存在を<憧れ>とするならば、<憧れ>は人を成長へと動かす大きな原動力の1つだろう。


 学校の中に、そんな<憧れ>を生む場があるだろうか。
 教室の中にはもちろんだが、学年、学校と。もちろん職員室の中にも。


 明日も練習に励む息子はこれからどんな成長を見せるのか楽しみにしている。






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