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異端の時代

茫洋として捉えどころのない全体性を特徴とし、最大外周を囲うことによってのみその存在を薄明かりの中に指し示すことしかできないのが「正統」だとすれば、その中から特定の項目だけを選んで明るいスポット光を当てるのが「異端」である。中世カトリック教会の秘跡論でも、朱子学の理気論でも、20世紀の共産主義でも、あるいは現代民主主義におけるポピュリズムでも、「異端」とされるものは常に、本来的で健全な全体を構成していたはずの特定部分が不均衡に亢進して暴走した結果を示している。

森本あんり『異端の時代―正統のかたちを求めて』(岩波新書)P199

どうしても、「その位置」に立ってしまう。
全体における欠点を指摘すれば、その指摘する者は翻って正義を味わえるから。
そんな「正義」なるものから、煮え湯を飲まされてしまったのでしょう。
(正しさなんて、求めなければいいのに)


以上見てきたジェイムズ、エマソン、ソローという三人に共通しているのは、既存の制度を否定し、その権威を否定し、それに代わって自己の内心を真理の最終審級の座とすることである。(中略)だが、正統の消失は、それだけでは終わらない。背景としての正統の消失に付随して、異端もまた明確な輪郭をもつことが難しくなる。異端は、本来正統を批判するだけでなく、それに代わる新たな伝統を形成する志をもつことで異端となるからである。異端であるには、やがて自分こそが新たな正統の担い手となる、という気概が必要である。

同上 P213

でも
違うことは、違うんだ。
異を唱えないことは、その場の在り方を認め、さらにはその場の在り方を補強する行為となる。
……足りなかったのは、おそらく「気概」。
(年を重ねて、少し視界が開けた分、怖くもなった)

足りなかったことは、もう一つ。
それは、つながろうとする努力。
もう少しだけ、人を知ろうとして。
もう少しだけ、人を信じて。
もう少しだけ、……信じて。
(いつも、ここで躓く)


明日が、始まる。

人びとが当然の前提として寸分も疑う余地なく承認しているところ、したがって誰もそのことに思いをいたさないところにこそ、正統は存在している。

同上 P234

毎日は、そうやって誰かが守ってきた「正統」によって続いていく。
その誰かに感謝できるようになったとき、異端という位置に立っても、しっかりと目を見て、自分の異を唱えることができるのかもしれない。




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