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ドストエフスキー「大審問官」① ロレンスの大審問官論


 ロレンスとドストエフスキー

 ロレンスは死の直前に、英訳『大審問官』の序文を書いている。

 ロレンスは折りにふれてドストエフスキーに言及しており、気になる存在ではあったのだが、ほとんどすべて、否定的なものだった。ところがここにきて、肯定に転じている。

 ドストエフスキーは、キリストにも解らなかったこの破壊的真理を悟った恐らく最初の人間である。

D・H・ロレンス「大審問官」島田太郎訳

 おそらく「黙示録論」を書いたことで、ロレンスに心境の変化があったと考えられる。

 だがその前に、「大審問官」の梗概をざっとしめしておこう。

「大審問官」は、ご存じのように、『カラマーゾフの兄弟』にある劇中劇である。次男、イワン・カラマーゾフが自作し、弟・アリョーシャに語って聞かせる。

「大審問官」

 舞台は十六世紀のセヴィリヤ。「大審問官」は、名前は伏せられているが、異端審問所で決定権をもつ最高責任者である。年齢はおよそ九十歳、ローマカトリック教会の枢機卿であり、かれが「異端」だと宣告すれば、その者は火炙りの刑に処せられる。
 
 その日も、善良な市民の眼前で百人以上の異端者が焼き殺された。そこにイエスがあらわれる。民衆はすぐにイエスだと気づき、かれの周りに集まり人垣ができた。それを見た枢機卿は部下に命じてかれを捕縛し、神聖裁判所の牢獄に収監してしまう。

 その晩、かれは一人で牢獄を訪ね、イエスを問い質す。

――なぜ、お前はわしらの邪魔をしに来たのか。

 無言のままのイエスにたいして、かれは畳み掛けるように自己の正当性を主張する。イエスは、終始無言のまま、かれの言葉に耳をかたむけている。

 かつてイエスは自由もとめ、そしてそれを民衆に与えた。掟に盲従するのではなく、みずからの意志において神へといたる道を歩むことを期待したのである。しかしその自由は人びとを苦しめ、それに堪えきれない民衆は教会の指示に服従することで、自由のもたらす不安と苦悩から逃れた。山上の説教で示された理念は、選ばれたる強き者の倫理と信仰でしかないのだと、大審問官はいう。

 大多数の者は、イエスの理想を実行にうつすことはおろか、その意味を把握することすらかなわない。だからこそ自分たち教会は、自由の重荷を一手に引き受け、かれらから自由を奪い支配統治することで、かれらの幸福を保証してきたのだとのべる。無辜の民は喜んで従属し、自由とひきかえに安心立命を得た。「お前は何もかも法王に渡してしまった」はずだ。人間の集団にすぎぬ教会に、ほかにとりうる方途などなかった。
 なのに、どうして邪魔をしに来たのかと、イエスに問うているのである。

――いまさら、その権利をわしらから奪う気など起こしてはならん。

 そして、荒野におけるイエスと悪魔との問答がもちだされる。

 それは悪魔による三つの試みとして知られるエピソードである。マタイ、マルコ、ルカの三福音書に共通して記載されている。
 三つの試みとは――

一、汝もし神の子ならば、この石をパンとならしめよ
二、汝もし神の子ならば(神殿の頂から)身を投げよ
三、われを拝せば、これらのもの(世界支配と栄華)を、ことごとく汝に与えん

 悪魔はイエスを誘惑したのである。イエスはそれらをことごとくしりぞける。「人はパンのみにて生きるものにあらず」「主たる汝の神を試むべからず」「汝の主たる神を拝し、これにのみ仕うべし」 

 しかし大審問官は、この悪魔の三つの問いこそ「永遠の英知」なのだと断言する。
 なぜならば、そこにはその後の人間の運命が集約された完全なかたちで予言されており、「人間の本性の解決されざる矛盾があますことなく表現」されているからだという。後続する憤怒と絶望の入り混じった大審問官の長広舌を私なりに整理すると、次のようになる。

 悪魔の三つの問いは、民衆の心を征服し永遠にとりこにする「三つの力」に対応しているという。すなわち、「奇蹟、神秘それに権威」である。

 奇蹟とは、神の手から「地上のパン」をうけとることであり、卑俗な言葉でいえば、「現世ご利益」である。
 神秘とは、現実や自然を超えたものを希求する人間の本性を意味している。
 そして権威は、万人がその前に額づきその命に服する存在のことである。

 この三つの要求は人間なら誰しも持っているものである。
 人間は自由気ままに生きたいと考えるものだが、それでいて、強い者につき従いたい、特別な幸運を手にしたい、現世的な価値だけでは満たされない、という三つの欲求をかくし持っている。

 それは人間のかくされた真実である。三つが結合すると、「他力本願」の責任放棄へと向かう傾斜を含んでいる。

 イエスは、この三つの要求を拒否したのだ。しかしかならずしも、たとえばニーチェのように、それを「蓄群思想」として否定したわけではない。

 人間は自由な存在であり、動物のように衝動に従属することなく、みずからの欲求にさからうことができる。
 奇蹟に頼らず、神を試みることもせずに、独力でみずからの責任において、神の神秘を、愛の理想をひたすら追求する――
 イエスはそこに自由の真の意味を見いだすのである。そしてそれは、そうしない自由をもふくんでいるのである。

 それにたいして老大審問官は、それはどこまでも強者の論理であり、これを万人に求めるのはどだい無理なのだという。

 大審問官はいう。

――人間の自由な愛をお前は望んだ。固く決められた古代の掟のかわりに、人間はこれからさき自由な心でもって何が善、何が悪かをみずからきめなくてはならなくなった。

 カトリック教会は、ローマ帝国による迫害を耐え忍び、ついには国教化され、中世末期には、とりわけ「カノッサの屈辱」以降は、地上の政治権力の上位に君臨する地位を確立した。

 大審問官のいう千五百年は、数知れぬ殉教者によって築き上げられた血塗られたキリスト教の黙示録的覇権奪取の歴史を意味している。
 それらはいわば、イエスの意志に反して、「奇蹟、神秘、権威」の上に打ちたてられたのである。それをいまさらぶちこわすつもりなのかと、大審問官はイエスを詰っているのである。

 ほかに、とりうる道があったというのか、万人がイエスのような強者のわけはなく、いやほとんどの人間は右往左往する弱者の群れなのだ。かれらはどうしたって導かれなければならない。その邪魔となる障碍はことごとく排除するほかにない。
 すべてはイエスの福音を広め守りぬくという目的のためになされたことの結果なのだ。
 しかもその責任の大本は、「地上のパン」を無視し、悪魔の力を軽視し、万人に強者であることをもとめたイエスその人にあり、その尻拭いを自分たちはやらされてきたのだと、大審問官はいう。

 よいか、わしも荒野に行き、蝗と草の根で命をつないだことがあるのだぞ。

 かれもまた、イエスに肖り、いったんは強者の道を歩もうとした。
 しかしかれは、迷える羊の群れを前にして、決然と「天上のパン」を棄て、「地上のパン」を選択したのだと告白する。そして、その責任の倫理から導かれる結論を、最後通牒としてイエスに突きつける。

――明日、お前を火炙りに処する。

 イエスは静かにかれの目を見つめたままで、なにも答えない。

 ところがかれはだしぬけに、無言のまま老人のそばに近寄ると、九十年の星霜をへて血の気も失せたその頬に、そっと接吻した。

 老人はぎくりとする。そして戸口に近づいていうのである。
「ここから出て行け、もう二度と来るではないぞ……絶対に、絶対にだ」
 イエスをそこから出し、暗い街の広場へと釈放してしまう。そこで劇詩「大審問官」は終わる。

ロレンスの「大審問官」論

 ドストエフスキーは、常に邪しまで、常に不純で、常に悪しき思索者であり、驚嘆すべき見者である。
 本当に人間は奇蹟と、神秘と、権威とを要求しているのであろうか。そして今後も要求していくのであろうか。まさにそのとおり。

D・H・ロレンス「大審問官」島田太郎訳

 これはロレンスにしてみれば最大級の賛辞であり、ドストエフスキーに満腔の賛意をあたえていると解される。

 だが私の目には、ロレンスが「黙示録論」で達したみずからの境地を、「大審問官」のうちに読み込んでいるように映る。

 ただし、ドストエフスキーを「邪しま」だといっているのは、かれが直観的に違和感を感じていたからだ。そこに、ロレンスとドストエフスキーとの間の、越えがたい裂け目が口をのぞかせている。

 この件はあとにとっておくことにして、とりあえずロレンスの所論をみてみよう。

 ロレンスは、人を強者と弱者、指導者と大衆、あるいは、聖徒と俗人にわける。

 前者は「天上のパン」の意味を理解しそれによって生きる者であり、後者は、そんなことは目に入らず、ひたすら「地上のパン」を欲する者である。

君主とは、パンを与えてくれる者である。大衆は、パンを再配分してもらう時には、それが自分たちのパンだということを忘れているものだという、ドストエフスキーの言葉には、何と深い洞察があることだろう。パンを手元にとどめておくかぎりは、それは大衆にとって石ころほどの価値しかない、無力な代物である。しかしそれが偉大な施与者の手から返される時には、再び神聖なものとなる。

D・H・ロレンス「大審問官」島田太郎訳

 ロレンスにとって「天上のパン」とは生命そのものであり、人間はそれを頒けあたえられることで、世界に調和して生き生きとみずからの生命を燃焼しうる。

 ロレンスはその比喩として、「太陽」を提示する。

 しかし太陽は、常人にはあまりにはるかな存在である。誰かに近くに引きろしてもらう必要がある。君主が必要となるのだ。太陽を常人の高さにまでひき下し、その胸の中にもたらしてくれる人、キリスト教徒が選ばれたる一人と呼ぶ存在が必要なのだ。真の君主、高貴の人、生れながらの英雄の視力こそ、英雄でないために太陽を直接視ることのできぬ常人の心に太陽をもたらすのだ。

D・H・ロレンス「大審問官」島田太郎訳

 作者イワンにとってさえ、苦渋にみちた「大審問官」の主張を、ロレンスはあきれるほどあっさりうけいれる。それは掛け値なしの人間の真実であり、なにも驚くにはあたらない、と。

 だからイワンは、あんなに悲痛に、悪魔的になる必要はなかったのだ。彼は、人間についての発見、当然なされてしかるべき発見をしたのだ。

D・H・ロレンス「大審問官」島田太郎訳

 生命を樹木にたとえるならば、より根源に近い人と、枝葉の末端に位置する人がいると、ロレンスは考える。
 それは解る。末端の私も認めざるをえない。

 しかしそれを、現実の社会秩序にそのまま当てはめようとするロレンスの姿勢に、私は大いなる疑問をもつ。
「君主と大衆」という、あえて選ばれた反民主主義的な言葉には、われわれ一般人の心をことさらに掻き乱そうとするロレンスの意図が反映している。

 子羊は、獅子に食い殺され貪られることが、子羊の「平安」なのだと、ロレンスは書いている。それが摂理であり、その必然に生きることが、真の「平安」なのだというのである。(「平安の本質」)
 かれにしてみれば、獅子のとなりで安らかに午睡をとる子羊を表象するユダヤ・キリスト教の愛の思想は、反生命的であり、それゆえに途方もないインチキにほかならない。

 そうはいっても、子羊は獅子の爪を避け、獅子の牙から逃れようとする。それもまた自然の摂理ではないか。ましてわれわれは羊ではなく、人間なのだ。

 人間である以上、「生れながらの英雄」であっても、太陽を直視すれば、かれの眼は焼け、ついには失明にいたる。「太陽を直接視ることのでき」るという自己過信は、転落と崩壊の序曲である。

 人間は、ロレンスのいうほど固定的な存在ではない。もっと多様で多極的で、時空における関係性の変化に応じて人間性は明滅する。

 ドストエフスキーからしてみれば、ロレンスの称賛は、見当違いの有難迷惑という気がする。さぞかし冥府で苦笑いしていることだろう。

 両者の思想は一点で交差しはするものの、けっして一致するものではない。

 私は「カソリシズム」について書いたとき、たしかロレンスもドストエフスキーも「無免許運転者」のうちに入れておいたような気がするのだが、同じロジックを根底にもってはいても、このように運用の仕方しだいでは、まったく異なった結果を生じることになる。
 私もまた、無免許運転者の一人として、ロレンスの見解にはまったく同意できない。

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神原 伊津夫
福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。