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金木犀の咲くころ

 毎年10月ごろになると、近所の垣根に咲く金木犀の香りが鼻いっぱいに入ってきて、毎年おばあちゃんのことを思い出す。ちょうどおばあちゃんの訃報を受け、日本に一時帰国したあの日も10月だったからである。
 私のおばあちゃんは、私が生まれた時から一緒に住んでいて母より愛情表現が豊かであったから、小さい頃はよく幼い私を抱きしめてくれた。その代わり弟とけんかすると、いつもその原因が明らかに弟からのものであっても、姉である私を叱った。
 おばあちゃんは、もともと福岡県の炭鉱の宿舎を営む父、私から見ると祖祖父の6人姉弟の長女として生まれた。その中で炭鉱で働く人たちへ食事を提供したり、炭鉱の人が使うランプのオイル交換などをしていたと、語ってくれた。おばあちゃんは、炭鉱の人たちとの交流もあったのか、やけに花札がうまかった。また、近所の祭りになると出掛けていって、綿菓子屋を手伝ったり、列を整列させたり、やけに手際がよかったのを覚えている。家の中では、観葉植物のゴムの木やガジュマロの木に声をかけながら水をかけたりして、控えめでいた。
 おばあちゃんは、私に「女学校にいきたかったわ。袴はいて網あげブーツはいて颯爽と。」とよく言ったものである。ある時、私は友人から譲ってもらったサイケデリックな服と合わせるように用意していた網上げブーツがあることに気づき、おばあちゃんと私の足のサイズが同じだったことを思い出し、おばあちゃんに袴はないけど、自分の網上げブーツを履いてみないか、提案したら喜んで履いてくれた。その時にあまりに喜んでくれたから写真に撮った。しかしその写真は、おばあちゃんが亡くなった時に捨ててしまった。どうしてその時捨ててしまったのか、今になったら悔まれる。
 おばあちゃんは、若いころ結婚してから靴職人である夫と一緒に満州へ移住していた。日本が敗戦する直前の昭和20年5月ごろに、夫であるおじいちゃんは徴兵され、そのころすでにおばあちゃんは、私の父を身ごもっていた、とおじいちゃんの戦地からの手紙に記されていた。数年後おじいちゃんは、戦友の方からの知らせで、満州国牡丹江省密山県半載河付近でロシア兵の銃撃を数カ所に受け、重症のまま息を引き取ったことを知った。だからおばあちゃんのアルバムを見せてもらうと、おばあちゃんの角隠し姿の写真のあとは、喪服姿のおばあちゃんだった。私にアルバムを見せる時、「そうなのよ、○○さんが戦争にいってしまったから。」としょんぼりした顔をするおばあちゃんの顔を思い出す。
 今までおばあちゃんの口からはとうとう直接語ってもらえなかったが、おばあちゃんの弟であるおじさんから聞いたのは、敗戦と同時に夫不在の中、お腹に父を身ごもりながら、一人で満州から引き上げてくる途上で、おばあちゃんは父を道端で産み落とした、との話である。今となっては、真相を確認することはできないが、敗戦当時の狂乱状態の時である、そんなことがあってもおかしくないのかもしれない。おばあちゃんの人生は、波乱万丈と言っても過言ではないのに、おばあちゃんとの暮らしの中では、そんな人生を体験したことなど口外せず、慎ましやかに暮らしていたように、私の目からは映った。
 棺の小窓からおばあちゃんと対面した。整えられたおばあちゃんの顔に眉墨と口紅を塗ってお別れした。
 

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