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結局人生って、●●じゃない? 【仏教から学ぶ、気持ちが少しだけ楽になるかもしれない人生論】
こんにちは、ウィトゲンシュタインズのふらーと申します。
今回は、少しだけ生きることが楽になるような、
そんなお話を紹介したいと思います。
結局人生って、一興じゃない?
今回の結論を一言でいうとしたら、この言葉になります。
私の高校は、仏教の宗門校でした。
週に1回、月曜日に、仏教について学ぶ授業があります。
そこでわたしが学んだ「好きな言葉」をご紹介したいと思います。
いま、いのちがあなたを生きている
「逆じゃない?」と思う方がほとんどかと思います。
実は、逆ではないんです(笑)
どういうことかというと、
いまわたしが生きているこの「いのち」は、
生態系の一部であって、
地球上の有機物によって構成されているものであるということ。
つまり、いのちはわたしのものではなくて、
いのちは地球の一部である、ということ。
それがたまたま「わたし」という個人や、
「あなた」という個人をかたちづくっている。
ただそれだけである、ということなんだと思います。
仏教ではこんな教えもあります。
「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かなものは悩む
しかしすでに自己が自分のものではない。
ましてどうして子が自分のものであろうか
どうして財が自分のものであろうか
(岩波文庫 ブッダ 真理のことば 感興のことば 中村元訳 P19 第5章 愚かな人 より)
「そもそも、自己が自分のものでない(本当の自分などというものすらそもそもない)のだから、財も、他人も、子どもすらも、自分の支配下に置くなんてことがどうしてできようか。いや、できるわけがない。」ということです。
(仏教の教えは、時々びっくりするくらいドライだったりするので面白いです)
ありのままを、ただ、「ありのままの事実」として受け入れる
自分自身すら自分のものではないのだから、
いわば、人生に起こりうる出来事だって、
本質的に、それ自体が自分のものではないし、自分に降り注いでいるものでもない
なのに、自分に降り注いでいる災いのように、自己の思考や感情でそれを受け止めてしまう
だから悩んでしまうのだ
わたしはこの仏教の言葉を通して、そう思います。
身の回りに起こったことを、つまり、イベント(一興)としてとらえる。
イベントを楽しむのか
イベントに悩むのか
イベント自体を流し見するのか
それは自分次第なんだと思います。
もちろんわたし自身もまだ、反応してしまうこともありますが
自分にどうしようもできない辛いイベントがあったときは
なるべく、流し見するようにしています。
もちろん、自分がなすべきこと、自分ができることはすべきですが、
自分がどうしようもできないことに悩んでしまうのは、ただ辛いだけなので、
そんな時は、流し見でいいと思います。
いのちがあなたを生き終えるまでの
ただの一イベントに過ぎないのだから。
人事を尽くし天命を待つ。
わたしは、わたしの責務を全うする。
ちなみに、
一は全、全は一
わたしの好きなマンガ「鋼の錬金術師」に出てくる言葉です。
この言葉も、個人的には、非常に仏教との親近感を感じる言葉だと思います。
まとめ
そこにある事実を、ただの事実としてとらえる。
快か不快か、
それを決めるのは自分の心であり、
ましてや快も不快も、必ずしも持つ必要もない。
自分ではどうしようもできない、嫌なことには反応しない。
これを少し意識できたら
ちょっとだけ、気持ちが少し楽になるかもしれません。