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「臨床の知」と共通感覚

新しい知の可能性としての「臨床の知」に先立って、哲学者中村雄二郎は、知ることを生命的な営みとして捉え返すべく「共通感覚論」を展開していきました。
 共通感覚という概念は、「現実」を一義的にのみ扱い、その多義性を捨象する科学に代表される近代の合理主義的な知のあり方に対する反省の立場から強調されてきました。この共通感覚は英語ではcommon senseと表記されます。common senseは日本語の「常識」に対応しており、この概念はひとつの社会の中で人々が共通に持つ、まっとうな判断力を意味しています。それと同時に、ひとりの人間の内にあって五感を貫き、その全領域を統一的に捉える機能も意味しています。この共通感覚という機能とは具体的にどういうことなのでしょうか? 例えば、私たちはある旋律を聴いたとき「甘いメロディー」などと言い表すことがあります。「甘い」とは、本来味覚によって捉えられる感覚でありますが、ここでは聴覚によって捉えられていることになります。すなわち、何らかの事象を把握するとき、生命的次元、生きた「現実」、ないしは「生活世界」に立つならば、ある感覚は単独で機能するのではなく、諸々の感覚の協働と統一のもとに成立しているというのです。そこで共通感覚は、一義的には規定しえない「現実」に即した、感性やイメージとも矛盾しない、「臨床の知」のような生命的な営みとしての知のあり方の基盤と考えられています。
 中村は、その「共通感覚論」において、①「視覚の批判」、②「記憶と場所の意味」、③「修辞学の再評価」という3つのテーマを取り上げ、共通感覚の特性を記述しています。①近代人は、事物や自然との間に距離を取り、それらを対象化する、いわば視覚をモデルとした、視覚優位の文明を築いてきたということを中村は指摘しています。これに対して、かねてより復権が期待されてきたのが触覚でした。触覚は、現代生理学では体性感覚の範疇に分類されてきましたが、同じく身体感覚に分類される筋肉感覚や運動感覚と結びつき、協働して初めて具体的に機能します。こうして、諸感覚の統合の基礎、ないしは共通感覚の座として新たに体性感覚がモデル化されます。②「記憶」と「場所」は、身体、イメージ、言語にかかわるものとして捉え返されます。ここにおいて「(想起的)記憶」は、コンピュータのメモリに典型的に見るような、それこそ機械的な暗記とは異なり、「経験を表象として喚起する自発的な」機能として考えられています。これはまた、言語との関連においては「物語」でもあります。同様に「場所」も、理性や科学の観点から浮かび上がる均質で抽象的な空間とは異なった、身体、イメージ、言語を介して体制化されたまとまりと意味のある世界として捉えられます。③そして「修辞学」は、純粋な概念的思考を目指し、抽象化の道をひた走る論理主義的な思考方法に対して、生活世界、生命全体に根ざし、潜在的なものの現前化を促すイメージを胚胎する「言葉」による思考方法として再評価されています。
 戦争や環境問題に始まり、人を育て、癒すはずの教育や医療の現場においても、科学的操作の様々な弊害が指摘されています。科学とその所産である科学技術が必ずしも人間を幸福にするものではないということは、今日ではむしろ自明となりつつある認識でしょう。中村の「臨床の知」や「共通感覚論」が注目されるのも、こうした時代状況を反映してのことと思われます。とはいえ、ここで中村の理論を取り上げたのは、心理学における科学的認識を軽視するためではありません。科学的認識も心理学における人間理解の一翼を担うものであり、その有効性を否定するつもりはありません。今日の科学における問題の根は、科学そのものにあるのではなく、科学技術と社会の功利性が結びつくことによって揺るぎないものとして確信されるようになった科学を絶対的優位な地位に置くことにあります。しかし、「臨床の知」のページで述べたように、科学もある時代的、社会的な規定を受けた一つの認識習慣にほかなりません。(2000年は超える人類の歴史の中では、科学的な認識はデカル以降のせいぜい400年にも満たないものです。)「臨床の知」と「共通感覚」における科学批判はそのことを再確認するとともに、人間の生命活動を生命的営みとして捉え返し、その中にあらためて科学を位置づけようというものであります。そしてこれは、本ページで紹介したような、理論や技法として定式化された心理的援助の各立場についても、それらが絶対視され、生きた「現実」と乖離することがないよう、同様に試みられなくてはならない作業であります。

#臨床の知 #中村雄二郎 #臨床心理学 #フィールドワーク #共通感覚

【参考文献】
中村雄二郎『共通感覚論』、岩波現代文庫、2000年
若山隆良(2018)『心とことば ー人間理解と支援の心理学ー』、八千代出版

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