文字列は、私が世界に存在している証明
なぜ文字列を生み出そうとするのか。
私は、なぜこんなにも“文章”を書きたいと思うのか。
私は、特にこれといった意味もなく、noteのアカウントを開設した。
ただ胸の内にあったのは、
“文章を書きたい”
これだけだった。
しかし、投稿に挑戦しようとするも、テーマすら思いつかなかった。
これまで2つテキストを投稿したが、
なんとまあ、
異臭を放つ投稿か
ただ憂鬱な気分を、文字にしただけではないか。
そこで、私は“なぜ文章を書きたいのか”を考えることにした。
“自分の気持ちを言語化しないでどうする!“
10分意気込んで考えて、Twitterを見た。にじさんじが最高ということが分かった。
埒が明かなかったので、本に頼ることにした。
どこかに正解があるだろうと。
年長者の熟成されたお説教でも聞いてやろうかと。
本屋で出会った一冊の本を読んだ.
まあ
はじめに手をつけた本が、いい意味で最悪だった。
田中泰延氏の「読みたいことを書けばいい」である。
私の文章を書く動機の一般論を悉く粉砕していった。
「読み手など想定して書かなくていい。その文章を最初に読むのは間違いなく自分だ。自分で読んで面白くなければ、書くこと自体が無駄になる」
目から鱗だ。
“これが正解だろう”
“一般的にこの事象には、このような感想を抱くだろ“
今までこう思い書いてきたが、確かに面白くなかったし、楽しくもなかった。
神絵師の絵を見て、興奮しながら書いたTwitterの方が、何倍も面白かった。
そこには、“私”という個人が文字に表れていた。
この本について書き出すとキリがないので、この辺に
といった感じで、何冊か本を読み
私が“なぜ文章を書くのか“この外殻があらわれた
私の感情を“私”という個人を、この世界に存在させたい。
“思っているだけじゃ伝わらない”
私の頭の中に存在しているだけではだめだ。
この息苦しい世界で、自分が息を吸える場所を創りたい。
「文章を書くことは世界を狭くすること」だと、田中氏の著書であった。
この文章を私は、書き表した狭い世界でも自分が存在できるのだと解釈した。
おそらく、著者の解釈とズレているだろう。
私は
他の世界から学びを得て、私は“私の世界“を創造し続ける。
拙い文字列を、無数の世界が存在するインターネットに投げ続けようと思う。
今後の道標として、宣誓しておく。
ちなみに、
私にとって、文章とは“己の思考をなるだけ忠実に文字化したもの”である。
今の私が書く文は“文章”ではないと考えている。
そのため、今は私の書く文は“文字列”と表記する。
ちょっとしたこだわりだ。
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