開沼 博/ゼロ年代に見てきた風景
ドアを開けると「日本テレビのバンキシャという番組の者ですが」と男性が二人立っていた。「ジェイコム株の件でお話を聞けないか」と。
今あらためて調べてみて、この「ジェイコム株大量誤発注事件」から既に10年近くたとうとしていることに驚いた。
2005年12月8日、みずほ証券社員が、この日東証マザーズへの上場を果たした人材サービス系企業「ジェイコム」の株を市場に流す際に、「61万円1株売り」と発注端末に入力すべきところを「1円61万株売り」と誤り、そのまま発注してしまった。つまり、「この車1台、61万円でどうですか」と言うべきところを「1円の車、61万台売りますよ」と言ってしまった状態だ。当然、客は殺到する。車自体何の問題もなさそうだし、この車を売ろうと思えばどう考えても1円よりは高く売れそうだからだ。しかし、車の対面販売ならば、まだ取り返しがつくが、証券取引は1秒以下の単位で契約が確定し、次の展開に進む「待ったなし」の世界。この「若い男性」と報じられたみずほ証券社員は1分25秒後に誤発注に気づき慌てて売り発注を取り消したが、時既に遅し。みずほ証券はこの1クリックで407億円ほどの損失を被ったとされる。
で、なぜ、「お話を聞けないか」と聞かれるシチュエーションに私が置かれたのか。もちろん、この取引の当事者としてではない。ただ、その時働いていたITシステム開発の会社のオーナーがこの事件の関係者だった。
夕刊紙などで「24歳の会社役員」と報じられた彼は周囲から「キャップ」という愛称で呼ばれていた。キャップは元から引きこもり気味で高校には通わず、代わりに子どもの時からの貯金やアルバイトで貯めた100万円ほどを元手に株取引をはじめ、それを増やしながら生活をしていた。大検を受けて、大学に進学し、そこでも毎日午前・午後の市場に張り付きながら株取引を続けていった。息抜きは友人たちとの夜遊びとその友人たちが経営する企業への投資だった。
その友人の中には、彼と「ドリームゲート」でつながった人々がいた。「ドリームゲート」とは、当時、国内での起業家創出文化の育成を目指した経済産業省が仕掛けたプロジェクトで、大学生や若手ビジネスパーソンを対象とした起業イベントや様々な創業支援制度を実施していた。そこは、当時生まれつつあった「学生起業家」たちが交流するメーリングリストやオフ会のプラットフォームともなり、キャップもそこに出入りしていたのだった。
その「学生起業家」の一人の会社で私が働き始めたのは大学2年、20歳の頃のこと。そこは株価予測のシステムの開発を看板にしつつ、企業のWEB制作などを日常業務としていた。私は、溜池山王・米国大使館近くの雑居ビルの中にあった20畳ほどの広さのオフィスで、ベンチャーらしく体力が続く限りPCに向かい、力尽きたら床に寝て仕事を続けていた。下の階には、当時そこそこ流行っていたお笑いコンビ「テツ and トモ」の事務所があって、たまにあの赤と青のジャージの彼らが出入りしていたのも覚えている。
その日も確かオフィスに泊まっていた気がする。既にジェイコム株事件が起こったことは知っていたし、キャップがそこに絡んでいて、法的に提出すべき株式の「大量保有報告書」が公になれば騒ぎになるとも聞いていた。そして、実際、メールや電話でメディアからの問い合わせが殺到し、「バンキシャ!」のようにオフィスまでやってくる人もいた。私の働いていた会社の登記簿にキャップの名前が入っていたからそれを調べて突撃してきたのだった。
番組のスタッフに「残念ながら本人はここにはあまり出勤してないんです」と事実を伝えると、彼らは名刺だけ置いて帰っていった。既に机の上には新聞、雑誌、テレビなど数十枚の名刺が置かれていた。
ただ、報道から得られた情報で知ることも多かった。キャップは現金決済で5億円以上の利益を出していたという。計算すると、少なくとも10億円以上の個人資産がないとこの利益はでない。ただ、プロの投資家が全てをこの取引にかけているわけではない。少なくともその数倍〜10倍ほどの資産があってこそこの利益が出るという。確かに、キャップが相当の資産を持っているのを周りは知っていたが、その規模だとまでは誰も思っていなかった。
この経験は、「一生まっとうな経歴を積み、まっとうに働いて1〜2億円ほどの生涯年収を得る生き方」を相対化するきっかけとなったできごとの一つだった。理屈ではなく、実体験としてそれは私に価値観の転換を迫ってきた。もちろん、「一生まっとうな経歴を積み、まっとうに働いて1〜2億円ほどの生涯年収を得る生き方」を軽んじるという意味ではない。それがいかにある時代に成立した貴重な価値観で、その後の弱肉強食の時代から見ると望めない価値観なのではないかという意味で。
この価値観の転換は、ただ「キャップの事件」だけによってもたらされたものではない。その当時起こっていた様々なことと連動していた。それらが私の原体験となり、いまの仕事の出発点ともなっているとも考えている。
高校を出て、仙台で一浪して、大学に入った私は、とにかく「面白いこと」を探していた。「面白いこと」とは、とにかく「すごい人」に出会い、共に仕事なりプロジェクトなりをすることだった。(それはいまも変わっていない。)
はじめに行ったのは大学にあった「行政機構研究会」というサークルだった。東大では伝統ある有名な勉強会系サークルで、後に、社会学者の北田暁大さんもそこに顔を出していたことをご著書の中で知った。どんなところなのかは、彼の言葉を引用しよう。
「大学に入ってからは、まず行政機構研究会というサークルに所属しました。官僚や大企業社員、法曹など、そのまんま社会の真ん中で生きていく人たちの予備軍組織ですね。
よく覚えていないけれども、一番偉い人は幹事長だったような気がする(笑)。なんか、こういうふうにいうと揶揄しているように思われるかもしれませんが、本当にびっくりするぐらい優秀な人たちが集まっていて、いろいろと刺激を受けました。数理的な政治学のイロハを教えてくれたのも、ヘーゲルの『法哲学』の熟読をすすめてくれたのも、行機研の先輩です。」(宮台真司、北田暁大『限界の思考 空疎な時代を生き抜くための社会学』より)
北田さんは、私と10数年学年が離れているが、実態はそれほど変わっていなかったように思う。確かに、サークルのトップは「幹事長」という肩書だった。研究者志望はほぼおらず、当時でも8割がたが官僚か法曹を目指していた。
もう一つ顔を出してみたところがあった。それは「WAAV(ワーブ)」という早慶・東大・一橋を中心にしたインカレサークルだった。
これは内部に二つの部門を持っていた。一つはビジネスプランコンテストをやる部門、もう一つは政策プランコンテストをやる部門。いずれも夏に代々木のオリンピックセンターなどで1週間ほどの合宿形式で行われ、大企業や勢いのあるベンチャー企業の経営者、政治家、官僚などをアドバイザーや審査員として連れてきていた。このコンテストの実現のために、スーツを着て、名刺を持ち、あるいはプレゼン資料や契約書を持って企業や官庁に通うのがこのサークルの活動だった。当時いた年が同じくらいのメンバーには、財務省から岩手県釜石市に出向して全国最年少の副市長となった嶋田賢和さんや、福島県南相馬市で、市議選トップ当選を果たし、最年少市議でもある但野謙介さん、あるいは、他の省庁や企業、地方議会などで、様々な形の新しい取り組みを主導することで活躍し、頭角を現しはじめている人がいた。行政機構研究会が昭和的、伝統的な権力志向とすれば、WAAVは平成的なそれと区分できるかもしれない。
だが、いずれも、同時期にいたとしても私のことを記憶している人はいないだろう。はじめのうちだけ行ったもののすぐに足が遠のいてしまったからだ。それは、私が相当マイペースで集団行動が苦手なこともあるし、もっと、「大学生」という肩書を離れて力を試せる場所に行ってみたいと思っていたこともある。
そして、いくつかの企業(といっても、学生や20代の若者が少人数で運営する会社ばかりだったが)で働くうちに、「キャップの事件」の他にも、同様の価値観を揺るがされるようなことに何度も遭遇していた。例えば、ある人材系企業で働いている時、当時まだ20代なかばだったその企業の創業者は新卒で入ったゴールドマン・サックスをやめ、いまは「タワー投資顧問」という会社が本業だと言っていた。「有名な外資系投資銀行をやめて、なぜそんなよくわからない小さな会社に」と思っていた矢先、その会社が世間を賑わせることになった。2004年分の高額納税番付でタワー投資顧問の運用部長が所得税額約37億円で1位になり「芸能人や政治家・スポーツ選手・社長ではない、サラリーマンが長者番付1位に!」と話題になったのだった。少人数で何千億単位の資金を運用する投資顧問会社。彼は、そのメンバーだったことを知った。
私が大学に入ったのが2003年、タワー投資顧問の話が2004年でキャップの話は2005年。当時、いまとなっては誰もがかすかに憶えていながら、思い起こしきれない「世の空気」があったのは事実だ。それは、この「面白いこと」を探し続ける中で出会ったエピソード、ドリームゲートやWAAV、「ベンチャー的なもの」、あるいは後に「拝金」と騒がれる「ホリエモン的なもの」であり、それがじっとりと社会の動きの裏側に張り付いていた。
もちろん、2003年に急に「ベンチャー的なもの」が始まったわけではない。この時期以前から始まっていた。象徴的なのが1999年2月に渋谷周辺のベンチャー企業経営者がはじめた「ビットバレー構想」だ。90年代後半から終わりにかけて、米国の「シリコンバレー」を中心に起こったITバブル。その日本版を、と「渋(ビター)谷(バレー)」を中心に、ITベンチャーとそれを支えるカルチャーを作る試みがそれだった。
日本のITバブルは2000年3月にあっけなく崩壊した。ただ、Yahoo! JAPAN、ソフトバンク、楽天、サイバーエージェントなど、現在も国内で主要IT企業として君臨する企業がこの渦の中で生まれている。そして、その中からトリックスターとして飛び出してきたのが堀江貴文率いるライブドア(オン・ザ・エッヂ)であり、2004年のプロ野球新規参入騒動、2005年のニッポン放送買収事件、衆議院選出馬、そして、2006年のライブドア・ショックへとつながる一つの系譜を作っていった。それは、決して国内のガラパゴス的な動きとしてではなく、2007年から明らかになっていたサブプライム問題、そして、2008年のリーマン・ショックにつながるグローバルな社会変動と照らし合わせながら考えるべきことでもある。
さて、なんで私が急にこんなチラシの裏にでも書いておけばいいような個人的な思い出をここに書いたのかということに最後触れながら締めたいと思う。
本稿を書いた背景には、ゼロ年代史をいずれ書きたい、書くことになるだろうという予感の中で、少しだけ自分の実体験と思考を整理したかったという動機がある。2014年はじめの現時点において速水健朗『1995年』(ちくま新書)や鈴木智之『「心の闇」と動機の語彙』(青弓社)のように90年代史を振り返ろうという一つの流れが生まれているように感じる。私は、その上に、まだ早いかもしれないがいつか、ゼロ年代史を記述したいと思っている。
いわゆる論壇の中で「ゼロ年代」と言えば、少なからぬ人が東浩紀さんや宇野常寛さん、濱野智史さんらが中心となって作品を生み出してきた情報社会論・コンテンツ論系の議論を思い浮かべるだろう。あるいは、歴史認識論争の末期や9・11からイラク戦争に向かう流れ、小泉政治や北朝鮮問題といった断続的に起こってきた個別の議論を上げる人もいるかもしれない。
しかし、おそらく、そうではない「ゼロ年代」があるのではないかと私は思っている。
それは、第一に、ここまで述べたような私がこの10年間置かれてきた環境から見えた「ゼロ年代」が、既存の「ゼロ年代」とはだいぶ違う何かだと感じているからだ。それは、「ゼロ年代経済史」と言えるものなのかもしれないし、あるいは全く別な何かかもしれない。いずれにせよ、もう少し掘り返して見る必要があると思っている。
第二に、この「そうではない『ゼロ年代』」には、その後に既にやってきている現代を詳細に読み解く鍵が眠っているのではないかと感じているからだ。端的に言えば、「ベンチャー的なもの」の代わりに、あるいはその中からせり出してきた「社会貢献的なもの」の正体を見抜きたいということだ。「社会貢献的なもの」と聞いてピンとくる人とそうではない人がいるだろう。まさにその同居が現代的だとも思う。その詳細は稿を改めたいと思うが、例えば若者の一つの憧れの像として、「ホリエモン的なもの」が衰退する中で、社会起業家やNPO活動家が、実際にどれだけ具体的な成果を上げているのか否かは別にして、少なくとも評価・注目を集めやすい社会環境が続いていることがその「社会貢献的なもの」のせり出しと呼べる現象の一つだ。例えば、国内において最も高名な社会起業家の一人である駒崎弘樹さん。彼が、2009年に誕生した民主党政権に30歳そこらながら、関与したことが象徴的だ。また、2011年の東日本大震災も追い風となり、その「世の空気」はますます強まってきているのかもしれない。もしかしたらすでにそれはピークを超えているのかもしれないが、しかし、それを整理することが現代を読み解くことにつながると思っている。
私も今年30になり、10年前よりは少しだけ「世の空気」を吸いやすい場所に歩いてきたのかもしれない。最近、震災復興支援に関して協力してもらっている、米国大使館のすぐ近くにある財団と企業を訪問する機会があったので、あの時のオフィスがどうなっていたのか見に行ってきた。ビルはきれいに建て替えられ、1階には以前なかった喫茶店ができていた。
【初出:2014年4月/ウィッチンケア第5号掲載】