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これも今はもう止めてしまったのですが、スピリチュアリズム講座を受講して下さった方を対象に、その後の段階の学びとして、グループレッスンを開催していました。いわゆる私塾のようなものです。こちらはその学びの振り返りのため、自身の変化や成長の記録などをレポートにまとめて頂いたものです。12人いましたので、個別にて。2013年と2015年の二回分です。

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M・Mさん2013年度レポート 

スクールでの4年間                              
●最初の2年間

養成講座が終わり、そのあとのおさらい会を過ぎて、最初のクラスメートと過ごした2年間は、楽しみだった反面、私にとって緊張感のある、少し居心地の悪さを感じることも多かったときでした。

居心地の悪さを感じたのは誰かのせいではなく、私はいつも、周りの目を気にして、自分が注目されることを望んでいたからです。少しの指摘にも傷つきやすく、大げさに感じるばかりでした。また、人並みにあつかって欲しいとひたすら求め、たぶんスクールのみなさまを緊張させる一因になっていました。居心地の悪さは、自己愛の強さから来ていたようでした。

注目されることを求めるのではなく、私が人に注目しよう、と思い始めたときがこの時期でした。個人セッションの時に、
「友人は自分が何かを助けてもらうためにつくるのではなく、自分が大切だと想えるひとのことをいうの」と教えていただいたとき、何かが少しずつ変わっていったように思います。

この2年間の初めのほうで、障害についての考え方を見直す機会がありました。今度生まれてきたときに障害を持ちたいか、ということを聞かれたときです。私はとっさに、自分の気持ちでなく、「障がい者としてこの質問にどう答えるか」ということを考えていました。

私にとって、それまでの人間関係は、自分が生きるための道具であり、戦略でしかなかったのかも知れません。障がい者というかたちで生きることは今回限りにしたい…そういうほんとうの気持ちに向きあうまで、スクールの時間がとてもつらく感じました。

障がい者手帳を持たない方から、障害を持って生まれてくる本当の意味と、私もその例外ではないことを知らされたことに抵抗があったのです。思えばそれが私にとっての、スクールでの最初の大きな出来事でした。

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その後も、多くのことをひとつひとつ指摘されるたび、心の中がざわついて、何とも言えない罪悪感と焦りを体験しました。それでもそのひとつひとつに私なりの答えが出せるかたちで進むことができたことは、とても感謝しています。

私の過去生について、重要なことを想い出したのは、障害のことを乗り越えたあと、このメンバーで過ごした後半だったと思います。多くのエネルギーのアチューメントを受けさせていただいて、過去生を知る機会が増えていたことも確かでした。

過去に私がやってきたことがあまりにもひどく、残忍で、私がやってきた行いによって多くの人の人生が狂ってしまい、今も狂わせていると知ったとき、どうそれを受けとめればいいのかわからなくなりました。

みなさまの前で2500年前の告白をしたとき、私は、スクールメイトであるみなさまも、それぞれ自分の過去生を受けとめて、こんなふうに大変な思いを抱えているんだと思いこんでいました。
私は自分がいちばんわかっていないと感じ、他の方々はいろんなことがわかっているんだと思っていました。いつも他の人の話を聞いていることが多かったと認識しています。それはしゃべることが大変だったのではなく、何をしゃべっていいのかわからなかったのでした。

最初の一年半が過ぎた辺りから、毎日の瞑想を怠けずにやりはじめました。
それまでは毎日はやっていなかったと思います。最初は精神的にもそんなに変化もなく、ただ義務感でやっていました。

クラスメートの一人がやめることとになった事と、私の小指の骨折が関連していた一連のハプニングは、多くのことを知るということへの責任と真摯さを問い直す出来事になりました。知るということはそんなに甘いことではない、と身をもってわかりました。

私が今生かされているということはどういうことなのか、生まれさせていただいたということはどういうことなのか、このまま生きていくということはどういうことなのか、この時期はとても悩み、答えは出ませんでした。

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●3年目
2期生の方々との合同のクラスになった一年間は、今までのスクールへの私の固定観念を崩すと同時に、私の過去生からの行いを反省する年でもありました。

ひとつひとつのものすべてにおいて「こうあるもの」と思い込んでしまう思い癖を修正する時間をいただいたように思います。また、多くの過去を想い出す機会をいただいて、スクールのみなさまの人生に過去生の私がマイナスに関与していることを知ったのもこの一年でした。

1期生の方々に対してもその傾向がありましたが、2期生の方々には私の過去生がマイナスに作用していることが多く、申し訳なくていたたまれない思いにかられることもしばしばでした。恥ずかしくても申し訳なくてもそこに居続けることができたことは、今考えるととありがたい時間だったと思います。。。つらい思いをしたのは私ではなく、過去の私の言動や行動につきあってくださった方々なのだということを忘れてはいけないと思いました。

クラスで過ごした時間は、発見が多く、とても楽しく、充実した一年間でした。

1期生の方々が結果的に半数以上離れていったことは、私はなかなか理解できなかったことでした。私はやはり物事や人の心を表面的にしか見ていなかったのだと思いました。自分にいいように解釈して、ただその世界を見ていただけ、自分のことだけを理解しようとするだけで、人が見ている世界や価値観を理解しようとしなかったというか、興味を持とうとしなかったのだなあと思いました。なにも察しがつかなかったのが、そのことを物語っていました。

この時の一年間は、自分の立ち位置を見極め、自分以外の世界を理解することを心がけていたように思います。本当に少しずつですが、我の強い部分が薄れはじめ、寂しさや恐怖感を手放しはじめたように感じています。

一年間過ごしたあと、スクールをやめようかどうしようか悩みました。長く在籍すること自体が私の依存心からになっていないか。介助の人が入れ替わり立ち替わり出入りしてもらう状況で参加し続けていいのか。
スクールが引き続き開催されることがわかったとき、私が気になったことはこの2点でした。アルマさん、みなさまに引き留めていただいて、あと一年続けてみようと思い直してからも、この2点のことで悩んでいました。

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●4年目の一年間
スクールに残る決心をしては見たものの、私はまだ緊張がとれないまま出席をしていました。みなさまからのサポートを受けながら、私がスクールでできることを探し続けていました。数多くの自分の過去生が明らかになっていく中で、あるとき、何かができることを誰かにわかってもらいたかった自分がまだいたことに気がつきました。

なにもできないそのままの自分をまず自覚して、みなさまの中で、周囲に興味を持つようにしたら、自然に自分のやるべきことをできるようになるのかも知れないと思うようになりました。物理的になにもできないこと、空気を感じられないこと、人の気持ちに鈍感なこと、すべてが今の自分の現実なんだということをいったん受け入れて、そこからはじめようと思えたのでした。出来ないなりに出来ることはやろう、感じられないなりに出来る限り興味を持とう、鈍感なりに人の気持ちを感じる努力をしよう、と。

いつからか、心の緊張を感じているのは私だけではないのかも知れないと思えるようになりました。自分に集中しないということはこういう感覚なのだと少しだけわかったような気がしました。まだまだ把握できないことばかりで、ご迷惑をかけるとは思いますが、あまり過度に緊張することなく、いくぶんか自然にいつづけられるようになったように思います。

また、どなたかの心が癒える瞬間に立ち会えることが、とても貴重な経験であり、うれしい時間でもあります。少しでもそれがわかるようになったことが、何とも言えない豊かな気持ちを味わえる機会を持てるようになったことなのだと思います。

自分を特別視してしまい、人を上から見てしまうのは、私自身が無知だったからだと思います。多くの知識が身につけられるよう学びをつづけ、長い年月がかかったとしてもいつかはそれを自分の血肉としていかせるように、努力していきたいと思います。

一年前は、スクールを続けるかどうかで迷いましたが、この場所は私にとって大切な経験が出来るところであり、さまざまな立場にたつということを試みられるところでもあると今は考えています。誰のためでもなく、誰に言われたからではなく、未来の自分へのプレゼントのために、出席し続けたいと思っています。私自身に意識集中してしまうことを出来る限り控え、みなさまといっしょに考え、時間を過ごさせていただく中で、いつの日か多くのことが理解できる心を持てる日が来たら幸せです。

そして来世では、自分の体を自由に動かし、そばにいる人たちにつくせることがある自分でありたいと思っています。私が自然に出来ることをひとつでも多くするために諦めないで生きたいと思っています。

アルマさん、みなさま、本当にいつもありがとうございます。この場所に今月もいられたことに感謝いたします。これからもよろしくお願い申し上げます。

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M・Mさん2015年度レポート

■2年間
                                 
アルマさん、皆様。この二年間の体験ができたことに、心から感謝を申し上げます。自分の現実と向き合った2年間でした。これまでの気づき、変化、課題を書いてみようと思います。

【気づいたこと】
●「子供の目線で生きていた」
2014年の初めまで、私は自分の目線に無意識だったし、見方を変えようという考えもなかったのだと思う。自分が子供目線で世の中をみているということさえ、わからないまま生活していた。

「大人の(親の)目線で生きたら、世界中の子供があなたの子供になる」
とアドバイスをいただいた時、自覚できたのは、自分の精神年齢が15歳ぐらいで止まっているという感覚だった。早い人ならば孫がいるぐらいの実年齢だというのに。

私自身、その時まで少しぐらいは大人の目線でものが見えていると思っていた。そういうことは意識しなくても日々生きていれば身につくと思っていた。初めて自分の目線を意識し始めた。私に関わってくださっている方々、お世話になっている方々のことを、どう思ってお付き合いしているのか。
ただ「身の回りのことを頼む人」としてみているだけだったのではないか。
自分がその方々をサポートしていくという視点はあったのか。私には何もなかったと思う。ただその日をつつがなく過ごすことに意識が向いていた。

大人の目線というものを、「誰のせいにもせず、相手のことを考えながら行動し、自分の人生に責任を持って生きること」とするならば、私はやっているつもりなだけだった。
つもりなだけで何もできていなかったと気付いたのは、日々の人間関係に怒っている自分を自覚できた時だったと思う。なぜ怒ってしまうのかといえば、自分の要求(やり方、手順)通りに人に動いてもらいたいという希望が叶わないからだった。子どもの目線をやめるということは、このひとつひとつの自分の目線を見直すことなのかも知れないとおもった。

親の立場ならば日々の出来事をどう思うのだろうと思った時、物事を知らない自分に改めて気づいた。振り返ることをしてきたつもりで出来ていない自分がいた。両親が私を育てた年代に、もし自分が同じ立場で子供を、育てることになったとしたら、できたか……答えはノーだと感じた。私ができなかったことを両親がやってくれたんだと気付いた。

若い頃から手放せずにいた被害者意識は、子供目線から来ていたことなのだと気付いた。気付いたのだから手放す時だと思った。年齢も高くなり、とっくに甘えられる年ではなくなったことにさえ、気がついていなかった。
ただ、大人になった気になって、正当に扱われるのを望むだけだった。気づこうとしなければ物事はわからない、変わっていかないものなのだと知った。

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●「受け身で生きていた」
自分がものすごく受け身で生きていたということを気がついたのはそれから間もなくだった。子供目線と受け身という言葉が繋がって、受け身をやめたらいいんだ、能動的に生きたらいいんだと思った。
そのことはわかったけれど、ではどうやったらいいのか、そこまではなかなか分からなかった。このことをわかったということに、誰かの承認が欲しかった。誰の承認が欲しかったのだろう。

幼い子供は、親の承認を得ながら、少しずつ一人で歩く範囲を広げていく。
承認が欲しいという発想自体、子供目線の発想なんだと気付いた。誰の承認も求めず、自分の人生を自分で決めて生きるということは、私は本当にやったことはなかった。誰の承認も求めないということは、誰にも認められようとしないということだ。自分のなかで考えて決めて行動して、そこから何かを感じ、次に生かしていくことだ。それをやってこなかった。だからいつまでも人の反応を気にして、認めてくれる人を探し続け、その人に依存的になっていく繰り返しだった。

受け身でない生き方は、受け身だったことを自覚するだけよりも難しい。本当に生き方を変えていかなければ、受け身であったとわかったことにならないから。

承認が欲しい衝動は、今でもいろんな場面で現れてしまう。その度に気持ちが揺れて、不安にかられる。その時起こる感情をひとつひとつみていかないと、その部分は越えられない気がしてしまう。日々の出来事をひとつひとつ振り返り、自分のなかで整理していくことが、受け身にならない生き方に結びつくのかも知れないので、地道にやってみようと今は思っている。

●「無意識から卒業できずにいた」
受け身で生きてきたことに気づかずにいたということは、無意識に生きてきたということ。無意識に生きるということは、エレメンタルに意思を任せてしまうということ。
私はこの2年間、迷走していたように思う。たとえば、日々のトレーニングについても、やりたいと思って始めたことなのに、毎日の行動の流れを決めてしまうと、それをやっているという事実として無意識に安心してしまっていた自分がいた。それは、「やっています」というアピールになった。
承認を得たい、依存的な自分がいた。

繰り返しになるけれど、「やっている」という自己主張は、子供の意識から抜け出せないままでいる証拠だったと思う。行為そのものに満足感を得ても何も得るものはない。そこは指摘されないとわからないところだった。長い間勘違いしていたみたいだった。

日々、「さぼらずおこなっている」ということに満足して、気づきを得る努力をせずに、そのものを行っている自分にこだわってしまったのだと思う。
承認を得るために。  

教えていただいても、なかなか気がつくことが出来なかった。改めて、「内省だけでなく気づきが必要」と教えていただくことで、気づこうとしていなかった自分に気がついた。チャクラヒーリングを再度受けることにより、エレメンタルの整理ができると、今までこだわっていたものから自由になっていくような気がした。

自分の持っているエレメンタルを整理すると、余計な感情に邪魔されずに、
物事を捉えやすくなるのだということが実感できた。受け身をやめるということは、積極的に気付こうとすること、それを実践すること。学ぶという姿勢は、毎日意識的につくらないと、なかなか思うようにいかず、できた気分になるという罠にはまるだけになるのだと知った。

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 ●「加害者の自分と向き合う」
2年間で一番向き合わなければならなかったことは、自分の過去生のことだった。ほとんどを加害者として生きた事実のことだ。

今生までの5000年間のほとんどを、私は「加害者」として生きていた。卑劣なやり方、卑怯なやり方で、人を苦しめ、殺め、誇りを奪い、人が生きるために大切な、あらゆるものを奪っている。 そして自分だけがいつも助かろうとし、間違った正義や正当さの中で「尊敬されたい人」として生きようとしてきた。そこに他者の心は関係なく、他者の気持ちをわかろうともしなかった。
 
自分はいったい何だったのか。人のために生きるということが、なぜできなかったのか。
 思い出した過去の人生の中で、私は一度も自分の身を捧げる経験をしていない。 他者に与えた行為を目の前にして、感情の起伏もない過去の自分。いつも自分の身を守ることだけに執着し、人を自分のように慈しむことができなかった。なぜそうなってしまったのか。

過去生の私は、他者を理解しようとする視点を持とうとしなかった。自分が正しいと思っていた。人の意見を聞こうとしなかった。一時的な感情に振り回されていた。その社会の「王」に憧れ、権威に従うばかりで何も疑わなかった。つまり考える心を育てようとすらしていなかった。

その行為により、どれだけの苦しみを、多くの人に与え続けたか。

チャクラヒーリングの最中に、火のようになった過去の自分を見た。怒りに燃えた自分だった。ここから、他者の理解をやめ、自分だけの世界しか見なくなったらしい。心の成長を止めてしまったのだと思う。

私の問題点は、学ぼうとしなくなったことにより、自分の成長よりも、外に自分への理解を求め続け、無責任に偏った自己愛だけを育て続けたことにあるのではないかと思う。本来、経験を積み重ねていくことで育つはずの、忍耐、他者への理解、思考すること。

すべての責任を放棄したかのように、受け身で情動的な人生を繰り返していた。それは、他者に対する攻撃となり、たくさんのカルマとなった。反省もせず自分だけの正義で繰り返していた。私を愛してくれた人、興味を持ち、近づいてくれた人、理解することを信じて進言してくれた人、自分の気持ちをきちんと伝えてくれた方々。通りすがりの方。私はその方々の気持ちを理解しようとしないまま、取り返しのつかないことをした。信頼をなくし、友情をなくし、誠実な心も何もかもなくした。

今の人生で、思い通りにならない体を持ち、情動で行動できないような日常生活をすることを選んだ。それでも今まで何もわからず、過去の経験でものを考え、自分本位に人との関係を感じてきた。考えてこなかった年月は、体験を偏らせた年月でもあった。

過去生で私の被害に遭った方々はイメージの中で、私に伝えてくださる。
「絶対あなたを許さない」犯罪が決して許されないように。被害にあった方々にとって、私の存在は嫌悪でしかない。私の行為は二度と消えない。被害に遭われた方々の気持ちも癒えない。

最近心に浮かんだ言葉は、「謝罪は、許してもらうためのものではなく、自分が犯してしまったことに対する悔い、反省、内省である」というものだった。

私は許されないことをした。多くの苦しみを生み出してしまった。そこを忘れないこと。そして、私は自分自身に対して、責任を持つ生き方ができるよう、この人生であらゆることを知る必要がある。忍耐強く、人の心を知っていくこと。人の気持ちを感じていくこと。自分が作ったネガティブなエレメンタルを捨てて、日々を観察して生きること。

自分が行った行為は取り返しがつかない。それを自分の行為として受け止め、今からの人生に活かしていくしか罪は贖えない。私にはまだ気づいていないことがたくさんあるように思う。二度と繰り返さないように、学び続けたい。

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●「何もできない自分を自覚する」
私にとっての体の障害は、情動的に行動することを制限するためのもので、障害を持った理由も学んできた。障害は、今まで情動的に生きてきた人生の行動パターンをとめるものだった。自己愛の強さを修正するためでもあった。

2年間の経験を通して、この自己愛の異常なほどの強さと、「自分が思った以上に何も出来ていない、理解できていない」ということがわかり、ものごとは、経験として心に蓄積しないと意味がないということに気づいた。物事というものは、それを体験して感じ、そこから考えて次の行動に生かすもので、そのもの自体を「乗り越える手段は何か」とか、何も感じないまま方法論を探すものではなかった。そのこと自体が分からなかったみたいだ。

何か起こるたびにそのことを「のりこえるべきもの」と機械的に考えていた。そこに課題があったように思う。物事に対して心で体験していなかった。乗り越えるための「正しい」方法、「答え」を頭で探し続けていただけだった。だからここまで生きてきたのに、何も経験になっていなかった。経験することから逃げてきた。これが今の自分の現実だった。

ものごとは「正しいかどうか」「正義かどうか」と頭の物差しで測りながら判断するものではなく、自分なりに感じたことを考えて行動に移すことで、
その判断がその場で良かったことなのか、そうではなかったのか、あとから感じる中で知っていくものなんだと思う。

私が間違えていたのは、常に「正しい行動、正義の行動をしたい」という気持ちばかりだったことだ。正しい行動について、正義の行動について経験をつんで知り得たことがあったわけではないのに。そこには、「尊敬されたい、認められたい」という大きなエゴイズムがあった。

そして、人の存在がそこにはなかった。誰かを心から知りたいとか、愛したいとか、守りたいとか、助けたいとか、その気持ちから始まっていなかった。エゴイズムを多くとり除いていくと、「何もわかっていない、できていない自分」がいた。経験のない、判断力のない、想像力も乏しい、やりたいことさえわからない、からっぽの本当の自分。エゴイズムのほうがまだまだ強くて、そちらのほうに引っ張られてしまう自分。

もう、経験することから逃げてはいけない。
自覚した日から、生き直しのような日々が始まったように感じた。

●「自分の愛情を表現すること」
私は人の気持ちを察したり、その場の雰囲気を察することができない。言葉で説明されるとイメージができるが、言葉でのないところでは、場の空気を感じることが難しい。昨年、スクールワークの中で、このことについてアドバイスをいただいた。

「空気を読もうとするのではなくて、今持っている愛を表現すればいい」
「気になったひとつのことについて、あとからでも意見を言えばいい」

心にしみて、やってみようと思うことができた。これから、ひとつひとつ経験を積んでいけばいいのだと感じ、何かをわかろうと理屈を頭で探すのではなく、少しでも表現して経験していこうと思った。ピアノを弾く練習のように、わずかでも毎日前に進む努力をしようと思う。

【二年前の自分と変わったところ】
●「感情に流されることが少なくなった」
特に怒りの感情がうまく整理できるようになり、普段の生活の中でも感情のままに何かを求めることが少なくなった。何かを感じても整理しやすくなったと思う。その分、相手の人がもし今これを言われたら辛いだろうなとか、まだまだわからなくてできないことが多いけれど、考えられるようになった。日々の中で、「この場面は以前なら受け入れられなかっただろうな」
「このような関係は苦手だったな」
と冷静に思い起こすことの多い自分がいる。

一時的に感情に流されても、「自分の態度を変えたらいい」などと思えるようになって、トラブルを回避できることが増えた。

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●「好き嫌いで関係性を判断しなくなった」
以前は、自分の感情が判断基準で、感情的に好きなものは好き、嫌いなものは嫌いというものの見方しかできなかった。それだけで関係性が決まってしまっていた。相手の方の気持ちを知りたいと思うことはできなくて、自分がどう思われているか「探っている」感じだったと思う。

いつからか、「好き嫌いで決めないことにしよう」と自分で思った瞬間があり、それから日々が楽しく思えるようになってきた。苦手意識が自分の中で強くなるような出会いがあっても、理解してみようとする気持ちが強くなった。その出会いを自分なりに大事にできるようになった。

●「仕事や役割、規則にこだわらなくなった」
つい最近まで、社会的な役割を持ちたいと、こだわっていた自分がいた。仕事を通して社会に認められたいとか、それを手放せなかった。今の状態が自分のそのままの生活なんだと思えたとき、日々のひとつひとつの出来事が貴重に思えてきたし、考えることが多くて忙しいと思えるようになった。また、人との関係性も、「役割」だけをみずに、その人自身とお付き合いしたいと思えることが増えた。

●「自己愛の強さ、視野の狭さを自覚した」
この二つを自覚したことによって、普通の感覚でないということや、見えていると思っていただけだったことにも何も気づかずにいた自分が見えた気がする。今までは、言われたことを「そうなんだ」と頭でわかろうとしていただけだった。

自分ではなかなか考え付くことができなかったが、個人セッションでの
「人の幸せをサポートする」ことに関しての具体的なヒントから、できていなかったということがイメージできた。わかってくると今まで感じられなかった「これでいいのか」という振り返りができる。今は慣れなくて戸惑うし、下記の課題に書いたように取り組む課題でもある。

●「日々お世話になる人たちに感謝して会えるようになった」
今の生活がとても大切に思えて、いろんな人とのおつきあいに楽しさを感じることがとても増えた。「仕事と役割にこだわらなくなった」の項目にかぶるかもしれないけれど、その日の起こることそのものを楽しみ、かんぐること、先回りして気にやむことが少なくなった。1日1日を大事にしようという気持ちが強くなった。

●「嫌われる存在でもあることを自覚した」
今回の人生においても、私の言動が原因で嫌な思いをされた方も多くいるということを自覚できた。自分は嫌われることもあるという自覚もなかった。
人の言葉の意味だけをいつも受け取り安心していた。自意識過剰だったと思う。嫌われることがとても怖かった。

それがものごとを先回りして考えたり、確認してしまったり、人の意見や行動をコントロールする原因のひとつになっていたと思う。嫌われてもその原因が自分にあるから仕方ない、自分の原因と向き合おうと自覚することによって、自分だけが嫌な思いをしているという思い込みから離れて、少し行動ができるようになった。自分の性格を自覚して意識的に生きないと、ことの大きさが違っても同じような過ちを犯してしまうことも知ることができた。

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【これからの課題】
 ●「他者の視点に立つ」

今年最後の個人セッションで、「人の幸せのサポートをする」ということについて、教えていただいた。ずっと前からの課題で、わかっていないということをわかるまでとても時間がかかった。自分ひとりではなかなかそのことをイメージすることにたどり着けずにいたけれど、何度も教えていただいたことで、他者の視点に立つ(人の幸せを思って行動する)ということが本当にできていなかったと知った。

自分の目線からしかものが見えないと、人を不快にさせるということもようやく感じた。今までは、少しわかったような気がすると、わかったということを誰かに認めてもらいたくて、そのことばかりに焦点が入ってしまった。
本当にわかるということは、行動ができるようになってはじめて言えることだ。誰かに認めてもらう必要はなく、相手の気持ちに想いを馳せて、思ったように表現すればいいのかもしれない。

視野が狭いということを自覚するのは私には難しかった。助言をたくさんいただかないと、一人ではここまでたどり着けなかった。思い癖を改善していきたい。自分本位に考えてしまうものの見方を、どうすれば改善していけるのか、悩みながら勉強を続けたい。

●「能動的に生きること」
受け身でないことと、思い込みで動いてしまうことと、区別がつかないで失敗する自分がいる。まだよく理解していないのかもしれないとも感じている。私が過去に多くのカルマをつくってしまったのは、自分勝手な、情動が多くの原因だが、原因のひとつに、物事について自分で善悪を考えようとせず全て受け身で動いていた、というものもある。

今大切にすることは、大事にしなくてはいけないものは何なのかについて理解を深め、日々の出来事について誠実に行動することだと思う。より多くの失敗を感じたとしても、自分本位な「正義、規則、役割」という枠から離れて、心で感じていることに意識を向けて、それについて考えて行動するということを積み重ねたい。いつか本当に心の底からやりたいことに巡り合うまで、日々の体験を大事にしたい。そうして生きることが受け身からの卒業につながるのかは未知数だし、理想かも知れないけれども、毎日振り返って生きかたの癖をつけていきたい。

●「謙虚な気持ちをもつ」
何も知らないということに気がつかなかったということは、謙虚な気持ちがなかったということだと思う。そして、自分本位な思い込みが本当に強かったからだと感じている。今、本当にそこを理解できたのか、まだわからない。今も、人に対して失礼なことをしていたということを、行動した後でわかることが多い。自分の状態をありのままに把握して(障害についても)、
たとえわからないことが多くても、自分に集中しない生き方を身に付けたい。教えていただけることに感謝し、今を大事にしていきたい。

●「未熟な自分を受け入れ、学びを深める」
私の経験はとても偏っている。誤った行動があまりにも多く、経験していないことがたくさんあり、人の気持ちがわからないまま行動することが多い。たくさんの方に支えられて今の生活があることを忘れずに、毎日の中からひとつでも何かに気づけるように観察して生きていきたい。

今、目の前にいてくれる人が、私が過去生でおこなったようなことに遭わされたとしたら、と思うと、本当に今もっと向き合わなければいけないと思う。過去生の自分を理解できないと、次には進めない。来世に、今生の記憶が消えて生まれたときに、過去と同じことを繰り返さないためにも、今必要な学びを深めていきたい。

また、過去生がとても大きく今の生に影響していることも身をもって知った。ネガティブなものを捨てることは、容易でなく、捨てようとする意識も必要な気がした。スクールで、多様な価値観や世界観を聞かせていただきながら、たくさんの本を読み、日々の経験値を増やし、自分を深めたい。

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【最後に】
2年前の自分のリポートを読み返すと、とてもネガティブな感じがして、迷いや不安が多く、そのことさえも感じないまま、自分の気持ちに執着していたことがわかります。今回、リポートを見直す時間を頂いたことで、書き現わす努力の大切さを知り、自分がどんなことを思っているか、自覚できなかった部分を確認をすることができました。
何か書き損ねている気がして、読み返すたびに足りない言葉を書き足したくなってしまうのですが、このレポートを基本にして、しばらく経ったらまた自分のなかでまとめてみようと思っています。この機会をいただけたことに感謝いたします。

スクールで学べたことで、社会で生きる、人としての基本を教えていただいていると感じています。この2年間は特にそれを感じた時間でした。スクール、個人セッションを通して、他では体験できない助言やアドバイスをいただきました。多くのことを考えた2年間でした。まだまた拙いながらも考える癖ができ、また多くの知識を日常から学ぼうとする姿勢を身につけられたことに、とても感謝をしています。あらゆるヒントと情報と、時間をいただくことで、2年前の自分とは違う自分を知ることができました。ありがとうございました。

スクールでは、様々な面でみなさまにサポートをいただいていることに、
深く感謝を申し上げます。物理的な面でも、精神的な面でも、いつも助けていただきました。スクールでの意見交換やワークでは、多様な発言や考え方に、はっとしたり、知らなかったことを教えていただいたり、力をいただきながら過ごしました。自分がどんなにものごとを知らないか、考えていないかを認識したり、反省したり、自分とは違うものの見方を教わったりしながら、2年間を過ごさせていただきました。 お世話になり、ありがとうございました。いたらない私ですが、これからもよろしくお願い申し上げます。

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