過去が今を創り 今が未来を創る
話を分割して書くと、何をどこまで書いたのか忘れてしまいますね(苦笑)
間に仕事をしていたり雑事をこなしているので、頭の中が散漫になってます。一気に書かないとどうもダメみたいですっっ汗
なので、ちょっと分散してたり、行きつ戻りつだったり、あっちこっち話が飛んで広がって、重複してたり抜けている説明があるかも知れません。読む人には読みにくくて申し訳ないです。
さて、
カルマの法則としてのレッスンにしても、引き寄せの法則と俗に言われているエレメンタルが具現化すること、これには法則があるけれども、絶対というのはなかったりします。
カルマのレッスンは必要でなくなることもあるし(準備というか用意されていても、その前に本人が気づきを得て成長すれば不要になる)、逆に一度クリア出来た事でも、その人にとってもっとも弱いところで、長年クリアできずに悩まされていたことなんかは、本当に身に着けることが出来たのか危うくもあるので、魂(本体)の判断で「本当に大丈夫かどうか」類似の状況をお試し的に仕組んでくるからです。(刺客のように差し向けてくるというか、予告なしの抜き打ちテストというか、Gメンや立ち入り検査や調査が入るような)
後はカルマのレッスンというのは、与えられたり与えたりの関係なので、自分にはもう関係ないことであっても、相手のために…誰かのために(特に愛ある関係)自分にはもう必要でなくなったシュチエーションを経験することになったり、相手役としての役割を担うこともあるわけです。
そして個人の予定に添って常に事が起こるわけでなく(魂が計画した人生予定表ブループリント)、宇宙というか地球全体、人類全体の都合での予定調和…他の人の予定などが割り込んできて入れ替えや変更その他…後回しになるものがあったり早まったりするものもあったり。
引き寄せの法則としてのこのエレメンタルの具現化ですが、良い思考想念(思念)から生まれたものにしても、悪い思考想念(思念)から生まれたものにしても、必ずしもその人が望んだときに具現(現実)化して結実するというわけではなく、その望みの性質やジャンルによって、エレメンタルが育つ時間が異なっていて、それぞれに必要なエネルギーとか時間があるので、いつ叶うのかどんな時に現実界に表れるのか…これはもう予測不可能です。絶対と言うのも確約というのもない概念なんですね。
このあたりは先の記事にも書きましたけども。
さて、別の角度から話してみます。
色々なスピリチュアルな問題のパターンを説明する例題として…
ある人が長年叶えたい夢を持っていました。ですが、なかなか叶いません。
現実的に考えることももちろん大切だし、
それが最初の一歩ではあるのですが…
何故、その人の望みが叶わないのかという理由。
ケース1)
その人がその夢を叶えるためには、その人の人間的な成長が不可欠であって
「夢」に照準を合わせたことによって、人間的に成長するための経験が真っ先にやってきた。まずはそれをクリアしなければならない。だが、今生で成長できるかどうかは未定。
ケース2)
その人がその人生でその夢を叶えることは、その人にとって本当に必要な経験から遠かってしまう。よって、今回の人生では優先順位として後回しになる。たぶん、今生でのその願望・執着は、いつか機が熟した時に先の人生で芽吹くだろう。
ケース3)
過去に様々な欲望や執着、願望を抱き、結果たくさんのエレメンタルを作ってきており、それはとても強い力を持っていて、今生でもそちらが先に具現化しているので、まだまだ力の弱い作りたてほやほやのエレメンタルでは太刀打ちできず(具現化するパワーが弱く、優先順位が低い)、今生では力を持った過去生のエレメンタルに振り回されている。
ケース4)
過去生でネガティブなエレメンタルをたくさん作り、他者からもたくさんのエレメンタルを送られた(恨みとか憎しみとか)過去の問題を相変わらず抱えたままで、性格は変わっていず問題点が改められていない。当然霊的成長もしていない。波動の低いエレメンタルが具現化しており、悪いことは現実化しても良いことは現実化しない状態。このように潜在意識(エレメンタルという記憶のアーカイブ)が汚屋敷化というか、無法地帯のジャングル化になってしまっている場合、良きエレメンタルが具現化する隙間はない。
ケース5)
当人というより他者意識が邪魔している場合。例えば、たまに言われる先祖の因縁的なもの。家系、家族、住環境、他者など外部的な原因によって、邪魔されている場合。※但し、こういうのは本当にまれ
ケースバイケースなので一概には言えませんが、あくまでこういうパターンが考えれるという例です。そういうのを分類して箇条書きにまとめてみました。
今生でどうしても叶えたい望みがあるのに、なかなか叶えられないという人は、叶わないことの理由の中に霊的成長が追い付いていないとか、今生でやらなくてはいけないことをやってないからとか、予定していたことと違う道に進もうとしているからだとか…その前に自分の性格とか他者との関係を振り返るべきとか、これまでに創ってきたエレメンタルを一回整理整頓して、
不要なものをミイラ化して潜在意識の掃除をするべき……だったりします。
叶わないことの理由の中に、その人が進むべき道だとか、向き合う事象や課題、未来を切り開くための鍵や人生を立て直すためのヒントが隠れていることも多いのです。
そうそう…
またまた、カルマのレッスンの話に戻りまして…
ある人の話です。
その人は徐々に難聴が酷くなって、聴覚こそ失わないで済んでいるものの、補聴器が必要な状態になりました。
どうして難聴になってしまったのかというと、それこそ数千年前位のとても古い古ーい時代に、ある文明の国において、敵国のスパイ?だか捕虜を拷問・惨殺する役割をしていたのです。
その拷問方法というのが、耳に熱した鉄?か鉛のようなものを流しいれるというもの。
その拷問方法は伝統的なものというか、以前からあった方法といいますか、上(権力者)からの命令によるもので、その人自身が考案した方法でもないし、その人の判断でしていたことではありません。悲しいかな、戦争とか拷問とか過去の捕虜や罪人に対する扱いって…そういうものです。
でも、この時のその人は疑問に思っていなかったんです。人間が人間に対して行う残虐的な行為に対して、これといって何も思わず、自分がしていることが非人道的だとか、相手が気の毒とか良心が痛むとかは当時はなかった。
なので、その後も色々と「戦争」の非道行為と愚かさ、人が人であることを失わせる行為について、考えさせられるような人生を繰り返し生きました。ある時は裁判の記録係として、ある時は城に棲む守備兵として、奴隷船の船員になったり、南北戦争や第一大戦では一兵卒として。
なぜ…数千年も経ってからなのか……当時、自分が他者に対して、「耳」をつぶす行為をしていたからといって、それがどうして、それほどの時間が経った今なのか…
当人も誰もが疑問に思うでしょう。
別に今の人生だけではないのです。それまでに…ここまで来るまでに、色々なことを当人に考えさせるよう、本人が心を目覚めさせ、気づきを得られるように…運命は何度も仕組まれ、当人に機会を与えてきました。
でも、様々な経験をしてきたにも関わらず。その人は何も学んでこなかったのです。体験したことから感情を成熟させ、思考を育てることをしてこなかったのです。そして何よりも行動をしてこなかったのです。自分以外の誰かを深く愛おしいと思ったり、他者に対して思いやりを示してこなかった。
相変わらず他人の話を聞かず、自分の都合の悪いことには「耳」を塞いで、他人の、何かのせいにしてばかりで甘えて、でもでもだってで、あれはいやだこれはいやだ…そんな思考のまま、被害者意識で凝り固まったままなのです。
その意味もあって、「耳」が聞こえなくなっているのです。
完全に聞こえなくなっていないのは、最後の恩寵です。
この状況に至ってまで気づかなければ、次の人生に持ち越しでしょう。
別に過去を思い出す必要はないのです。今の人生だけ省みれば、それだけで問題点を見つけることが出来ますし、自分が変わらなければいけないところも、何がいけなかったのかも理解できるはずです。
前回の記事で書いた人たちも、何百年もまったく何も無かったわけではなく、その間の人生でも兆候というか、それを気づかせるような出来事やチャンスはそれなりにあったはずです。少しずつ、あるいは別の形で、別の角度から、何度も繰り返し問題を示唆されていたのです。
そうですね…多くの人に足りないのはやはり感謝と謙虚さでしょうか。
自分の人生に対して恨みや文句ばかりで、「こんなはずではなかった」みたいに、決して望んでいない、他者や運命にに一方的に(押し付けられた)与えられた人生を生きているようにみんな考えて不平不満や文句や恨み言を言うけれど…
皆、自らが望んで生まれてきて、自分が望んだ結果や自分がしてきたことの結果に、出逢っているだけなのです。
文句を言うべきは、神とか仏とか運命とか他人とではなくて、過去の自分の行動と選択、今の自分自身に対してなんですね。
「こんなはずではない」人生にしたのは、誰でもない自分自身なんだから。
自分の人生には責任を持たないといけません。
自分が自分であることに対して責任を持つというか…自分が撒いてきた種、毒草も雑草もイバラも花も果実も何もかも、それは自分自身で刈り取っていくしかないのです。
さすれば道は開かれん…
人生とは自分が歩いてきた道であり、これから歩く道は自分で切り開いていくしかないのです。
とりあえずこのテーマはいったんここで区切ります。
また補足を書くかも知れませんが。