自死/彷徨える魂~終わりのない旅(中)
情け知らずな人の口から
私は聞いた
死の知らせを
そして私もまた
情け知らずな顔をして
耳を澄ました
byツルゲーネフ「はつ恋」より
自分の人生に対する無責任さや怠惰さ、
卑怯な現実逃避から来る無為の、
自己に対する「殺人」・・・命を粗末にする行為が、
現代に多いのは否めないが・・・
人が自ら死を選択するに至ったのには、
それぞれに已むをえない理由というものがあるのだと思う。
他人には伺い知ることの出来ない苦悩や現実が。
それでも・・・
その「死」によって、傷つけられ、
当人以上に辛い現実に突き落とされる人がいるのは事実だ。
遺されたことによって、様々な重荷を突きつけられ、
世間からの同情さえも煩わしく鬱陶しい立場に立たされ・・・
見捨てられた想いや、罪悪感を植えつけられ・・・
手を下したわけでもないのに、
まるで自分が加害者であるかのような、
奈落たる深淵に突き落とされるものもいる。
死に行くものは、自らを殺すことによって、周囲を加害者にし、
他者に途方もない、負の財産を遺してしまうことを気づくよしもない。
「死ねるものは幸いだ。
わしら死ぬことも選べやせん。
死ぬることができたら、どんなに楽か・・・
死ぬこともできず、生きていくしかない地獄もある」
むかし見た映画の中で聞いたセリフだったように思う。
日本は先進国で、経済大国ではあるが、
同時に自殺大国でもある。
2009年の統計で世界の第五位につけている。
(ちなみに一位は韓国)
2017年では日本は9位で1位リトアニア、2位韓国
そして日本は世代別において20代以下の若者が多数を占めている
男性は女性の倍以上。
おんな、は・・・何かあったときでも、
開き直る強さがあるけれど、
精神的に男性は女性に比べてはるかに弱い。
右脳(女性脳)と左脳(男性脳)の使い方にも、よるのだろうけれど。
状況や環境に対して柔軟性のある女性に比べて、
男性は柔軟性が乏しく、
ひとつの道が閉ざされてしまうと、
その先が考えられない傾向にあるようだ。
おんなは守るために生きようとし、
おとこは守るために死のうとする。
男女の役割分担・・・
身体や脳の構造がそうだと言われれば、仕方がないが。
それしか道がないと、視野狭窄に陥らせずに、
別の可能性を見極めることのできる、
心の強さや精神の耐久性、
そして智恵や生きる力を身に付けることを・・・、
ただ競争社会の中で立ち回ること、
良い会社と言われるところに就職し、高い給料をもらうこと、
いわゆる勝ち組になることが理想で
そこから逸脱したものはオチこぼれと
決めてかかる学力偏重主義をどこかで止めて、
もっと社会が必然性を持って、
道徳教育もさることながら、
人を単純に振り分けて、勝ち負けや優劣で差別する
歪んだ社会のシステムを改めるところから
人間教育をしていかなければ、
負の連鎖の悲劇というのは、
いつまで経っても、無くならないのだろう。
「おとうさん 見ーっけ!
何してるの?」
「空を見てたんだよ」
「真っ赤だ!
火が燃えてるみたいだね」
「うん。 火宅だ・・・・・・」
「カタクって何?」
「この世のことだよ」
その晩だった・・・
とうさんが死んだのは。
by近藤ようこ「火宅」より
自殺は遺されたものだけでなく、
それを目撃してしまったものの心にも大きな傷跡と影を残す。
飛び降り自殺した人の体の下敷きになって、
大怪我どころか、命まで奪われてしまった人もいる。
飛び散った血や肉片の欠片を浴びてしまった人・・・
駅のホームで、見たくもないのに、
人の身体が分断されるさま、を見てしまった人。
都会の鉄道会社では、あまりの多さに感覚が麻痺して、
もう慣れっこになってしまった人も少なくないようだが、
自分の運転する電車に飛び込んできた人の姿を、
夢に魘されて苦しむ人も多い。
重い車体であるから、感覚としてわかるはずも無いのに、
その人、の身体の上に「乗って」いて、分断しているという感覚。
また、そのようなことが起きるのではという恐怖とともに、
駅に近づくと緊張して、身体が硬直する人もいるのだとか。
知り合いのとある人が、会社の車で移動中、
たまたま踏み切りで足止めをくらっていたとき、
見たくもない光景を見ることになってしまった。
何のためらいもなく、カンカンと音のする中、
遮断機を潜り抜けて行く人を。
「あっ!」と思ったときに、咄嗟に顔を下に向けて、
そのまま動けなくなってしまったそうだ。
電車が通り過ぎて、後ろの車の男性が、
「大丈夫?」と声を掛けてくれるまで。
「私の車の横を通り過ぎていくときの、
その人の横顔と遮断機を括り抜ける時の姿が、
もう目に焼きついてしまって、頭から離れなくて・・・」
その踏み切りは都内では自殺が多いことで有名な沿線。
彼女は二度と、その踏み切りに近づくことができず、
踏み切りで止まるたびに、その時の恐怖が蘇るのだと言っていた。
人の死を見るのは・・・
それが事故であっても、決して気持ちの良いものではない。
死体を処理するのが仕事という人ならまだしも、
ただ、たまたまそこに居た・・・という理由で、
不本意なことに他人の死に巻き込まれたり、
恐ろしい光景を目撃させられてしまったりなど、
それはショックを通り越してトラウマとなり、
ときにPTSDも引き起こす、とてつもない心の損傷を産んでしまう。
自らを殺す行為を考えるものは、
自らの「死」によって、他人を傷つけることが目的なのであろうか?
見ず知らずの他人を傷つけ、苦しめ、
一生忘れられない悪夢を植えつけるために、
自らの人生にピリオドを打とうというのか?
第一発見者である家族の脳裏に?
通行人や電車の運転手や鉄道会社の人に?
アパートやマンションの所有者に?
彼らに見るも無残な遺体の姿を見せ付けることで、
彼らの精神や生活を崩壊させるために、
その死を望むんや否や?
多くの他人の人生を狂わせるがために、
自分の命を犠牲にし、
肉片となり、腐敗した骸を置き土産にするのだろうか?
「ねぇ!
譲ってよ、その命!
死にたいって言うんなら、
一年でもいい、数年でも、
ううん、たった数ヶ月でもいい。
私に譲ってよ、その命、あなたの人生を!
だって不公平だと思わない?
私は生きたいのに、やりたいことがまだまだいっぱい、
たくさんあるのに・・・
私、生きたくても生きられないのよ!
私のこの体は、もうダメなの・・ポンコツでもたないの!
でもあなたは生きられるのに、健康なのに、
生きていたくないっていう・・・
いますぐ死にたいという
私からすると、贅沢よ! 不公平よ!
私は生きたいのに生きられない
けど、あなたは生きられるのに死にたいという
だったら、譲ってよ!
あなたのその健康な体、その命、
残りの人生ぜんぶ、私に頂戴よ!!」
とあるコミックより