五常の徳~人として見失ってはいけないこと
仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌
というと、滝澤馬琴の「南総里見八犬伝」にて有名な言葉。
この八徳でも先の五つ、「仁・義・礼・智・信」のことを五徳、あるいは五常ともいい、儒教で説く5つの徳目を指す。
ちなみに台湾に内気功の合宿に参加させて頂いた時、この言葉をひたすら何回も朝から晩まで復唱させられましたっっ。その位、肝に銘じるべき、大切な言葉だということで。(読み方、発音は中国語でした)
Wiki先生から下記、引用させて頂きますが、
仁・・・人を思いやること
孔子は、仁をもって最高の道徳であるとしており、日常生活から遠いものではないが、一方では容易に到達できぬものとした。『論語』では、さまざまな説明がなされている。ある場合は「人を愛すること」と説明し、顔回の質問に対しては、「克己復礼」すなわち「己に克ちて礼を復むを仁と為す (私心を克服して礼を重んじること。それが仁である)と答えている。前者は外部に対する行為を指し、後者すなわち顔回に対する答えは自身の内なる修養のあり方を指している。具体的な心構えとしては、「己れの欲せざるところ、これを人に施すなかれ」(『論語』顔淵篇、黄金律)がよく知られている。すなわち、「仁」とは、思いやりの心で万人を愛し、利己的な欲望を抑えて礼儀をとりおこなうことである。
義・・・利欲にとらわれず、なすべきことをすること。正義
中国思想においては、常に「利」と対比される概念である。
礼・・・「仁」を具体的な行動として表したもの
もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していた。のちに上下関係で守るべきことを意味するようになった。儒者のなかでも、性悪説の立場に立った荀子は特に「礼」を重視した。
智・・・道理をよく知り得ている人。知識豊富な人
信・・・友情に厚く、言明をたがえないこと、
真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。
孟子の四端説における「仁義礼智」の四徳に対し、前漢の董仲舒は五行説にもとづいて「信」を加えた。
これに、
忠・・・主人と家来の人間関係
孝・・・親と子の人間関係
悌・・・兄弟姉妹の人間関係
の三つを加えると、儒学の八徳となります。
もう少し簡単にまとめると、
仁:思いやり、慈しみの心
儀:道理、道徳にかなうこと
礼:守るべき作法、敬うこと
智:物事を正しく判断する力
信:誠実さ、あざむかないこと
忠:真心、君主に仕える道
孝:父母によく仕えること
悌:兄弟の仲がいいこと
という感じ。
けれど、 この八徳に拘りすぎると、またそれはそれで弊害も出てきます。
特に、「忠・孝・悌」に関しては、これに囚われすぎることで、かえって先の五徳に離反する道を取ってしまいがちなので。
ようするに、親に従いすぎたり、血の繋がりや情を断ち切れないことや、忘恩に報いすぎ、忠義に盲目的になりすぎてしまうと、人としての道を見誤っても良しとしてしまうことなど。そこが儒教の欠点といいますか、あらゆる宗教や秘境的な教えにも通じることになりますが、正しい理解もなく教義の形だけなぞって盲目的に縛られてしまうことになりますと、教えそのものが道を誤らせてしまう毒となり、諸刃の刃になってしまうのです。
心を亡くすと書いて、「忙」しいと読む。
人は余裕が無くなると、 色んな事を見失って、
たくさんのモノを置き去りにしてしまう。
物事が上手くいって、すべてが順調なときほど、忙しくて、慌ただしい状況であればあるほど、忘れてはいけないことがある。
時間が無いからこそ、時間を作って、自らを振り返り、人としての自分の在り方を見つめ直して、本当にそれでいいのか、正しいことをしているのか、自分の生き方は、自分にとって正しいものであるのか、何か忘れていることはないか、 おざなりにしていることはないのか…
周囲の人たちに対して、感謝の気持ちを伝え、謙虚な気持ちで日々の出来事と接することが出来ているのか、忙しさに流され、自分の心の声を無視していないか、気持ちのない仕事をしてはいないか、身近にいる大切な誰かの心のSOSを見逃してはいないか、周囲の人とのコミュニケーションが疎かになってはいないか…
そんなことを考えてみる必要があるだろう。
先に書いた記事の友人Yは、
仕事で結果を出すこと・・・評価されることに拘っていたため、
(何れかの仕事で有名になり、成功して認められること等)
その目的を叶えるために徐々に手段を選ばないようになっていき、長年の人間関係をないがしろにし、恩や義に背き、信頼や誠実さを遵守することや自らを成長させ、高めることよりも、仕事と仕事に繋がる利害関係を最優先するようになっていった。
結婚して配偶者を得、さらに義父母のバックアップによって、経済的に不自由のない安定した生活を保証されてからも、彼女の名声や仕事への執着は絶えることがなかった。
子供が出来た時、子と家庭のためにも、仕事をセーブしてはどうかと進言しても、せっかく手に入れた仕事を手放すなんてとんでもないと、睡眠時間2時間という生活を改めることはしなかった。
彼女が欲しかったのは、お金でも生活の安定でもなかったから。
幸せな家庭もあって、仕事も順調で、売れっ子で、
すべてを手に入れて、すべてが上手くいっているスゴイ私。
彼女はその頂点に居たかったのだろう。
色んな人に羨ましがられる自分でいたかったのだろう。
それが長い間、努力しても報われず、下積みとも言える芸能的な世界で辛酸やら苦渋やら、屈辱的な経験をたくさんして、いつか見返してやるとばかりに、傷つけられた自尊心を取り戻すために必要な、精一杯の自己顕示欲と見栄で、自己承認の方法だったのか。
旦那さんが浮気したのは一時の気の迷いだったのだろうが、朝から晩まで仕事漬けの彼女に、家庭での安らぎを得られずに、外に何かを求めたのかも知れない。
彼女が辿った道は正しい道ではなかった。
結果、彼女はすべてどころか自分の命を失うはめになった。
人として一番大切なものを見失って、愛する人を傷つけて、たくさんの友人を切り捨てて、辛いときに自分を支えてくれた恋人を踏みつけにして、そうして手に入れたものは、まさに「砂上の楼閣」だった。
彼女が誰よりも欲しがって、手に入れようとした世界は、決して彼女を真実の意味で幸せにするものではなかった。彼女はエゴイズムに飲み込まれて、そのエゴイズムの願望を叶えるためだけの操り人形になっていた。
嫉妬に苛まれ、他人を羨み、妬み、 あらゆるものを欲しがり、自分のほうが他者よりも優れているのだと、自分には人から羨ましがられる素晴らしい才能がたくさんあって、特別な力を所有している選ばれた人間であると・・・
そう誇示したいがための。 (だからこその肝臓ガンだった)
Yが、人としての大切なものを忘れず、見失っていけないものを見失わないでいたならば、今ごろ彼女はすべてを手に入れていたろう。
昔からの人間関係を大切にし、 友情に忠実かつ、他人に対して誠実にふるまい、 約束を守り、愛あるコミュニケーションを常に取り、高名さよりも信頼を得ることに徹していて、恋人の支えに常に感謝を示していたならば・・・
他に好きな人が出来てしまったにせよ、そのことを誠意を尽くして説明と謝罪をし、今までの恩に対して気持ちを込めて感謝を伝え、綺麗な別れ方というのは難しいにしても、それまでの共に過ごした年月と相手の献身に対して、何かもう少し別の方法で償うことも出来ていたならば・・・
物事が上手くいき、長年の夢が叶ったことに対して、これまで支えてくれたり、力になってくれた人たちの、そして仕事に理解のある旦那さんや家族の協力のお陰であると、そんなことを口に出したり、形ばかりだけでもそうした感謝の文章を、日記にも綴ることが出来ていたならば・・・
結果は違っていたろうな。。。と思う。
何処かで、彼女が気づけていたならば、自らの行いを、周囲あってこその自分であることに 気が付き、色々なことに感謝を持てるようになっていたならば・・・
すべては遅すぎることだけども。
実際、彼女が見たのは「天使」なんかではなく、
「天使」のふりをした「悪霊」以外のなにものでもない。
彼女の利己的でひどく醜い、
ただれたエゴイズムに引き寄せられた存在だろう。
善なる存在の導きがあったなら、
そこには気づきと自らの過ちを知る機会があったはず。
魂のケガレがよこしまな存在を引き寄せたというもの。
そのような状態で、エゴイズムに支配された状況で、
高次元の存在とのコンタクトなど、望めるべくもない。
さて、そんな風に神仏のフリをする、低俗な存在は多いし、
それに騙されるスピリチュアリストたちも後を絶たない。
人は簡単に、
自分には出来ないことができる人を尊敬して、信頼したりする。
未来を予知するとか、何かを当てるとか、透視能力が優れているとか、霊が視えるとか、宇宙人とコンタクトが取れるとか、チャネリング出来るとか、
驚異のヒーリングをするとか、宙を飛べるとかetc・・・
雨を降らせたり、止ませたり、天気を操ったり、
神のお告げを聞いたりとか、霊を上げたり降ろしたり、
神通力だの霊能力だの超能力でもなんでもいいんだけど、
そういう人知を超えた理解のできない現象に対し、畏怖と謙虚さを抱くのはよいが、だからといって、盲目的にそれを賛美するのはどうかと思う。
所詮、それを地上の次元に
現象として起こしているのはその人自身ではないので。
頭がいいから、IQが高いから良い人であるわけではないように、学力が低く、言動や行動が粗暴だから、必ずしも道を外れた生き方をするようになるわけでもないわけで、優れた才能や能力を持っているからといって、必ずしも人間として人徳を備えているわけではない。
そうした力はモノは使いようで、
何のために使うか・・・が一番大事だったりする。
自分の存在を誇示するためにそれらは披露されるべきものではない。
そうした力を備えていることを称賛されるために使うべきじゃない。
自分を信用させたり、ひれ伏させたり、畏怖させるために、
そうした力が備わっているものではないので。
もちろん、他者のために使うべきではあるけれど、へんな使命感に燃えすぎると、何かを見失ってしまう。だからちょっと変わった自分の能力とは、 客観的に、上手く付き合っていく方法をマスターしないといけない。
サイキックな能力が開花し始めた人、 もともと備わっている人ほど、謙虚さを人一番身に着けないといけないし、自分の能力と上手く付き合っていく生き方を学ぶ必要がある。
そのためにも、サイキックな能力以前に、スピリチュアリティを身に着ける必要があって、霊的な生き方を心がけるべきだったりする。
その霊的な生き方っていうのが、「人としての道」になる。
人として決して忘れてはいけないこと、 見失ってはいけないこと、
黄金の心を自らの中に磨き上げ、育てていくこと、という道。
大事なのは、「人としてかくあるべき」だけ。
日常で五常の徳を大事にして、
心掛けていさえすれば、ほぼ間違いないのかも知れない。
時々、新興宗教などの信者でそういう人を見かけたりするけど、前世の罪を贖うために、朝晩永遠と念仏を唱えたり、ひたすら写経するとか、勤行的なお勤めを熱心にしたりとか・・・
それ自体は悪いことではないと思う。むしろいいことで。
ていうか、日毎の生活の中で、仕事や家族との時間を除き、
余暇の時間をあてる範囲でなら、かな。
そういう行為、活動に無理に他者を巻き込んだり、仕事に悪影響を与えたり、家族との時間を犠牲にするまでに行き過ぎてしまうこと、そういうのがどうかと思うだけで。
職業的なプロならともかく、素人の場合は。
お布施なんかやスピリチュアルなことに対する金銭の割り当ても、時にその位の出費をしないことには、確かにその人にとっては、浄財や善哉(善行)にならないってこともあるから、一概には言えないし、すべてを否定することも出来ないのだけれども・・・
自分以外の家族の生活を犠牲にしてまで、そこにつぎ込むのは度が過ぎてるし、それでは何のための善行なのか本末転倒で。
うん、たまにいます。過去生に自らが犯した罪を贖うために、慰霊のために時間とお金を費やす人。
今の人生の罪なら誰しもが納得の行動で当然の行動と言える。また自分の過去の悪行を思い出し、罪を犯したと悔いること、その罪の大きさの前に跪き、懺悔を乞うたり、贖罪の気持ちを持つのはいいことだと思う。
それは悪いことではないし、それも生き方のひとつだから。むしろ、そのような行為を通じて、その人が成長し、人として大きくなれるのであれば。自分を含む周囲の人々をも幸福にする道であるのならば。
けれど、それをするがために、今生での人生をないがしろにするのは違うと思う。仕事を、人間関係を粗末にして、他者と交わりなく、閉鎖的な生き方を選ぶことは・・・
今生での人生を振り返り、自分が表してきたこと、他者との関係においての自分、自らの人としての問題点や不足していること、見落としてきたものや疎かにしてきたことを、そうしたことを改めようとはしないで、今の自分を何一つ変えようとはしないで、人生を新しく生まれ変わってやり直すくらいの気持ちを持たずに、それを周囲に示すことすらせずに、それで何が「前世の罪を贖える」というのだろう?
何故なら過去にその人が、そのような大罪を犯す事になった原因が、すべてその人のそれ、他人を心を理解しようとはせず、人の気持ち、想いを軽視する点に他ならないのに。
今の人生でもまったく変わらず、そうしたところを一切顧みることもなく、
「性格も考え方も昔と変わってない」というところで、いくら「申し訳ありませんでした」って土下座されても、それでいったい、どうやって、許せと? その懺悔のどこに、本気と真心を認めることが出来るのだろう?
今生きている人生であちこちほうぼうに迷惑かけて、恩人に後ろ足で砂をかけるようなことをしたり、他人に対して無関心なままなのに? 友人に対しては数百円のお金も使うのをためらうのに、そういうスピリチュアル懺悔にはお金は惜しまない姿勢のままで。
そんな形ばかりの謝罪で被害者が納得するとでも?
本当に反省しているなんて、誰が思うんだろう。
いくら毎日ありがたいお経を唱えたりしていたとしても…
そこには「これさえすれば赦してもらえる、贖罪になる」という、被害者たちの怒りの想念を解くことによって、今の自分の人生の障害を取り除きたいというだけのエゴイズムがめちゃくちゃ透けて見えるんですけども。
(自分がラクになりたいってだけのが)
そんな手前ミソな謝罪。形だけの懺悔のポーズ。今の人生をきちんと生きられてないこと、 他人を見下し、人間関係を疎かにして生きていること、被害者の想い・霊たちはみんなオミトオシだったりします。
自分の何が悪かったのか、何が欠けているのか、そこが全然わかってない限りには。わざわざ多額のお金かけて、現地行って、儀式だか何だかに行脚して大量のお金を投入するよりも、まっとうな人間にお成りなさいな、って皆言ってるんじゃないだろうか。
毎日延々とお経を唱えて、霊能者の言いなりになって、パシリになる時間があるなら、自分の才能を生かす道での奉仕で社会に還元して、仕事(労働)を通して社会貢献をするべきでしょうに。
昔からの人間関係を大切にして、 真心で人と付き合うべきでしょう。日々の出来事に感謝して、起きることや出会う人とのご縁ひとつひとつを大切にして、気持ちを込めて仕事をして、たくさんの人の力になるべきでしょう。
気づくべきことに気づかず、 大切にするべきものを見落として、人と人との繋がりや縁を軽視して社会から与えられた自分の役割も放棄して、それで一体、どこに行こうとしているのだろう。
被害者たちがどうして今も腹を立てているのか、どうして赦す事が出来ないでいるのか、何が一番許せないのか、知ろうともせずに・・・自己満足だけの浄霊とやらに一生を費やすのだろうか。こういう人たちって。
前世の罪が云云かんぬんじゃなくても、先祖の罪が、因縁が、とか・・・
なんかまあ、そんなこんなにしても、今の自分の人生の物事がうまくいかないことで神仏の力やご加護を借りるにしても、何かスピリチュアルな方法に頼ったりするにしても、
肝心の自分の行動を振り返り、自らの生き方を変えようとする人は少ない。
神仏の力を借りるにしても、加護を得るにしても、
スピリチュアルな方法での対処方法にしても…
まずは自分が改めるべき点(性格や行い)をチェックすべきで、その上で人知を超えたことに関してだけ、助けを求めるべきでしょう。
自身が気づかず他者に対して犯している、日々の小さな過ちとか、やるべきなのにやっていないこととか、自分自身が良い人間になろうとして、その努力をした上でないと、先祖供養にしても前世の贖罪にしても、スピリチュアルな方法論に頼ることも、神仏のご加護も助けもはっきりいって意味がなかったりする。
って、これは私自身の経験ですれどもね。
確かに、先祖の因縁的障りや霊的な問題、神様の障りとか、人知を超えた問題はありますし、本人が生き方を変えようと努力しても抗えない、どうにもならない問題が存在してたり、影響を与えていることも世にはままあります。
だけども、それ以前の問題というのはたくさんあるし、本人がしっかりと意志をもって、心正しく現実を生きていることで、そのような影響を最小限に食い止めていたり、まったく影響を受けないで生きている人もいます。
その逆に本人の心根や生き方の問題で、
受けなくていい影響を受けている人も多かったりします。
だから結局は、その人自身がどうあるか・・・どう生きているか、が一番大切で、過去生の影響も、先祖の障りも、霊的な影響も、すべては今のその人の生き方次第であると言えるのです。
とどのつもりが、人生を変えたいなら、自分を変えるしかない。
それに尽きると思います。
夕べ、Yと電話で話をしている夢を見た。Yの夢を見るのは、12年ぶりくらいだろうか・・・どんな話をしたのかは覚えていない。ただ、楽しく色々と盛り上がったとだけ。ブログに書いたこと、彼女は怒ってはいないようだ。