これも数年前に書いた、過去blogからの転載。ここのところ、暗くてネガティブな記事の転載が続いていますっっ ところどころ私のエゴイズム臭もあるし、転載せずに抹消しようかとも思っていましたが、必要な人がいるかも知れない内容かも知れませんので…まあ、水星逆行中ということで、過去の振り返りや棚卸もいいかと。で、複数本をまとめてありますので、やはり長いです。
愛の泉の限界点
何故奥様は
アーサーを追いつめてしまったのですか
アーサーは誰よりも奥様の幸せを願ってきたのに
奥様 奥様はこの20年間…
アーサーにどんな夫になって欲しいのか
伝えたことはありましたか
理想とは程遠かったですか
夫として受け入れられませんでしたか
夫として愛せないなら
温かな食事と清潔な寝床 ドレスに娯楽
望むままに何不自由なく 分け与えてくれる家族
友人としてならどうでしたか
友人としても失格でしたか
アーサーに友情のかけらすら
感じませんでしたか
友人としてアーサーに うわべだけでも
接してあげようとも 思わなかったのですか
貴女は盗まれたくなかったんですか
手に入れたままでいたかったんですか
貴女はアーサーの心を自分のものだと
そう思っていたんですか
それは その…感情は
何と呼べば正解なのですか
もしそれが愛だというのなら
愛だというのなら
何故アーサーに手を差し伸べて あげなかったのですか
彼を傷つけたら 殴りつけたら
もっと愛してくれると思いましたか
切り裂いたらもっともっと愛してくれると
幼い子供が
親を傷つけて愛を確認し続けるように
貴女はアーサーの惜しみない愛を
返す事無く飲み干すだけ枯らせました
まだ試し足りませんか
愛にも終わりがくるものです
彼の心を砕いたのは 奥様 貴女です
by 船戸明里「Under the Rose」
他人の気持ちや好意、愛を試す人がいる。
これでもかこれでもかと、相手を痛めつけて、わざと嫌われるように…自分を憎ませて、侮蔑感や怨恨を植え付けるのが、さも目的であるかのように振舞って、相手からの自分に対する、一滴の同情や憐みの欠片すらも奪い尽くすことに成功して…
相手から愛情の泉を日照らせ、その井戸を枯渇させたのは誰でもない自分であるというのに、そう仕向け続けたのは自分自身なのに。
それでもなお、
まだ自分が相手から赦される存在であると、自分がほんの少し改心しただけで、相手が両手を広げ受け入れてくれるものだと…過去そうであったように満面の笑顔を向けて、自分を愛してくれるはずだと信じて疑わない人がいる
まるで自分のほうにだけ、決定権や拒否権が存在しているかのように、相手にも意志があり、感情があるということに無理解で無自覚で…
ある日突然、当の相手から拒絶されたことに対して、茫然自失とばかりに驚き、信じられないという顔をする。
そして、そのことに対して、我が身の行動の振り返りなど、これまでの自分のやり方についての、後悔や反省へと繋がっていけばいいのだれども、困ったことに「お試し行為」をするほとんどの人が、自分が相手(他人)から嫌われた理由や避けられたり拒絶されたりする原因について、客観的に自己分析したり内省するようなことをしない。そのあたりはもう絶望的なほどに。
この手の人のことを、ボーダーとか自己愛性とかの、人格障害と片付けてしまえばそれまでなのであるが。
スピリチュアリズム的には、エゴイズムのエレメンタルに支配され、操られた人々…と言うことになるし、チャクラがぶっ壊れて修復不可能になってしまった人々…と言う話にもになる。
(中には他者意識(いわゆる霊や悪霊、悪魔、動物霊の類)などに取り憑かれている人もいたりする)
完全に自分(自己)を見失ってしまっているなら、それはそれで仕方がないとも言えるけれど、
自らの愚かな行動に薄々気づいていたり、親しい人々、身近な人が自分から離れてしまっていく段階でそのことに傷つき、気に病むことの出来る理性がまだ残っている人であるならば、それでもまだ自らの行動を改める努力ひとつしないのだとしたら、それはもう完全に自業自得で自己責任というしかない。でも、それでも最後の悪あがき的に誰か他人のせいにして、相手の問題だけをあげつらい、「私は悪くない」と言い張る人も少なくない。
悟りに達し、解脱に達した聖人君子なら、どれだけの粗雑な扱いや残虐非道な辱めを受けたとしても、その相手の手を取り、その足を洗い、口づけをして、慈悲と慈愛を与えることも出来ようが、普通の人は…いやさ霊的な道理を学ぶ途中過程にあるものであってさえ、愛や寛容には上限がある。
仏の顔も三度まで…では無いが。
散々あれやこれやされたあげく、ここまでされたらもう無理!と言う限度に達する瞬間がいつかは訪れる。
現世的な愛は確かに枯渇する。
男女間であってもそうだし、友人間でも、家族の関係性でも。他人同士、利害関係で結ばれた者同士や、ボランティアであったり、主従関係でもそう。
愛情は…いつまでも無くならないものではなく、いつかは目減りして枯渇してしまうものです。
男女間のホットな情熱もいつか冷めてしまうように、人と人との関係性の中にある「愛」も「情」も、枯渇して干上がってしまうときがあります。モノに対するものであってもそうです。
いつも与えるばかりで、決して相手からは与えてもらえなかったり、ちっともそれに応えてもらえなかったり、奪い尽くすだけ奪い尽くし、他人の信頼を裏切り、いつだってクレクレばかりで、何をしてもいい相手とばかりに良いようにされるばかりでは、与えがいも無いし、尽くしがいも無い。
見返りを求めて、相手に何かしら"与え尽くした分"と等分の、"与えられ尽くされる"ことを求めているわけではないにせよ、最初からそのつもりで、計算づくに近づいたり関わった人間関係でなかったとしても、純粋な好意と人としての親切、思いやりから出た行為であるにせよ…
一方的な関係というのは虚しいもの。
どんなエネmeな人であっても、ある日突然に搾取され続けている己が身に、ハッと気付かされる時が来る。これまで自分が与えたことに対して、一度も相手に感謝されたことが無いことに。
そして疑問に思う。
何故こうまでして…自分の想いは踏みにじられなければならないのか。何故どうして、相手は自分に対して一片の感謝すら示さないのか。
遥か遠く前に、そんな言葉を聞いたことはあっても、自分はその言葉をよすがにしていただけで、時間は流れ、言葉の効力はとっくの昔に無くなり、
今の自分にはひとかけらの「愛」も「感謝」も、与えられていないことに。
自分を真の意味で愛しているならば、
自分を真の意味で愛してくれる人がわかる。
自分のことを大切に想い、自分にとっての幸せが何なのかを、よく理解しているのであれば、本当に自分を愛し、大切に想い、誠実に接し、偽りの無い心を見せ、真実(まこと)の愛情を与えてくれる人が誰だか、見抜くことはそう難しくない。
自分をイジメ抜きたい人だけが、偽りの、まやかしの関係に魅入られ、
自分を破滅に導く、誤った関係に堕ちて、その呪縛に縛られていく。
自分の幸せを願わない生き方、考え方が、自らを不幸の選択へと歩ませる。
黄金の心はおろか、真実(まこと)を持たず、誠実さのかけらも、愛も感謝も無い、何も与えず、他人から奪い尽くすだけの存在。
人により多くを与えたいと思っている人に限って、そんな虚飾を見抜けず、罠に陥ることもある。同情を愛と錯覚して。
でも、同情は同情でしかない。本当の愛は対等なものだ。
本当の愛は、いっさいを奪わないし、奪われることもない。
与えても減ることはなく、むしろ倍になって戻ってくる。
そして、真実の愛は、双方を満たし、幸せにする。真実の愛で結ばれた関係は、周囲をも豊かにする。
もし、自分の愛がそのような関係で無いのであれば、互いを映す鏡の中に曇りがあるのだろう。時に歪みさえ生じているのかも知れない。
共依存であったり、どちらかが従属する支配的な関係であったりといった、
不健康な関係性。お互いの存在の中に自分の問題を見出すための、ダークサイドの「投影」としての、具現化されたレッスンの相手かも知れない。あるいは、過去生の因縁や負債で結ばれた、カルマのレッスンがその関係性にはあるのかも知れない。
手放すべきか否かもし迷ったら、こう説いてみるといい。
「この関係から私が得られるものは何か」
「この関係は私自身を成長させるものなのであろうか?」
次に胸に手を当てて、「この関係に"愛"はあるのだろうか?」
胸が苦しく、辛いだけならば…むかし確かにあったと思われる"愛"のかけらすら、今の自分の中に見つけることが出来ないのであれば…
それが正しい応えである。
いかに昔、情熱的に愛し合った二人でも、その時に永遠の愛を言葉にし、誓い合ったとしても、情熱はいつしか醒めるものである。まして男女の性愛的なものなら…2年が限界で。
愛には色々かたちがあるし、時の経過とともに、人の心もやがて変化していく。釣った魚にエサをやらないと死んでしまうように、人間同士の関係も生き物だから、愛や感謝を継続的に与えないと「心」は死んでしまう。
愛情は「心」と「心」の結び付きなので。
相手に対する「感謝」の気持ちや「尊敬」の念、
相手の人間性を「尊重」する態度や思いやりを日々示すこと。
愛され続けたいのであれば、相手から必要とされる人となり、
愛される人であり続ける努力というのは必要不可欠で。
でも、それをしないで「愛されて当然」とばかりに、自分を愛せなくなった相手、自分に対する愛を枯渇させてしまった相手のことを、何で自分のことを愛さなくなったんだと責め、その昔、自分に惚れて口説いてきたのはお前だろうとか…一生傍にいると言ったクセにウソツキだと…
そういうのは間違っている。
その昔は確かに相手の中にあった、「愛の泉」を、一滴の水もない状態に枯渇させてしまったのは、他の誰でもない自分自身だったりするというのに。
すこーしずつ毎日すこーしずつ蒸発させて、泥を投げ込んで、追加で水を与えることもせずにいたならば、どんな井戸だって枯れてしまう
自分の人生において考えるべきことは
何を受け取ったか、ではなく
何を与えることが出来たか…である
人は自分が他人に与えたものしか、
人生から何も受け取ることは出来ない
人生における真の幸福、真の豊かさとは
与え、与えられる幸福を知ることである
おしゃべり泥棒と遅刻魔とデモデモダッテちゃん
人間の悩みはすべて人間関係の悩みである
by アルフレッド・アドラー「嫌われる勇気」
おしゃべり泥棒というのは、他人が話している時、その話題を横からかっさらって、自分の話にすり替えてしまう人のこと。
いつでも自分が話の主役でないと、気が済まないタイプ?
そういう目立ちたがりなら、まだ解りやすいけど、無意識的にそれをやっている人もいたりする。(構ってちゃんもこの部類か)
こういう人がいました。
その人は他人の人間関係をも欲しがる。知人や友人の話をすると、「私、絶対その人と気が合うと思うんだ~」会ってもいないのに、相手が拒絶するかも知れないのに、なんでしょうか、この自信。
そのクセ、複数人でいると、必ず誰かを会話の中から排除してハブる。
3人いれば1vs1で話し、1人を無視してイチャコラ
4人以上ならば 必ず1人を空気扱いして無視する
ようするに自己愛性人格障害のもっともたる人なワケだ。
常に他人の関心を得てないと死んでしまうとばかりに、同時に仲間外れをするのは、最下位を作っておきたいからなんでしょう。
まぁ、こういう人は必ずボーダーも入っていますし…他人の領域に土足でヅカヅカ入ってくる、ようするに厚かましい人です。
他人から何かされることが当たり前で、してもらってもお礼をしない。もちろん感謝も無い。自分からは何も与えようとはしません。言葉では言うけど口だけです。行動は伴いません。
この世の中、見方によっては、
すべて人と人との約束のうえに成り立っているといってもよい。
友人との待ち合わせの時間の約束から、金銭物品の貸借の約束、
さらには社則や国家の法律というものも、
おたがいの生活を秩序だて円滑にするための、
一つの大事な約束ごとであるといってよい。
約束はおたがいの信用の上に花ひらく。
だからこれらの約束を守るか守らないかは、
人間の精神の高まりを示す一つのバロメーターであって、
道義とか道徳というものも、
こうしたところにその成果の如何をあらわしてくる。
自分に都合が悪くなったからといって、
平気で約束を破るというのは、これはまさに動物の世界。
人間だけが、おたがいにかわした約束は、
これをキチンと守るという
天与の高い精神の働きを持っているのである。
もしもこの精神が力弱くなったら、
その影響は社会生活のあらゆる面に
物心とものおおきなマイナスとなってあらわれてくる。
単に待ち合わせの時間を ムダにするというようなことだけでは
事はすまないであろう。おたがいに、約束は守りたい。
by 松下幸之助「道はひらく」
こういう人もいました。
時間にルーズな人。遅刻、ドタキャン当たり前。その理由はたいてい寝坊です。体調が悪い…っていうけれど、得てして自覚というか、性根であり意識の問題。自己管理が出来ていないといえばそう。生活も不規則で仕事でもミス多く、色んな人に迷惑をかけて、謝罪してもその場限り。職場で不興を買っていても、自分のそうした、ふてぶてしさや生活態度、性格的ルーズさからとは当人は考えません。
約束を破るということ、時間を守らないということが、どういうことなのか…まるで解っていないのです。自分のしていることが相手をないがしろにし、他人の時間を奪っているという自覚が無いのです。
こういう人は他人を自分以下に見ているのです。他人に迷惑をかけてもいいと思っているのです。自分に比べて相手はとるに足らない存在だと、行動で示しているのです。
だから遅刻して、他人に迷惑をかけても平気なのです。
気が乗らないのなら最初から約束しなければいいし、朝が弱いなら、確実に起きれる時間を設定すればいい。
解決策がわからないのではない。問題がわかってないのだ。
by ギルバート・ケイス・チェスタトン「ブラウン神父の醜聞」
構ってちゃんや察してちゃんも厄介ですが、一番困るのがデモデモダッテちゃん。
悩みを訴えて、延々と己が立場の不条理さや周囲の理不尽さを語るものの、
周囲がアドバイスをしたとしても、まず聞いてない。
「でも・・・」「だって・・・」
ようするに共感だけして欲しいわけです。めんどくさいことやお説教はノーサンキューときたもんで、自分の気に染まないことを言われると、ぶーたれて子供みたいにふてくされる。
同情されたい、心配されたい、可哀そうにって…言ってもらいたいだけ、その言葉だけ欲しいんです。自分でその問題を解決するための、ヒントを求めているわけじゃない。
ああいえばこう言うで、いつだって相手が悪くて自分は悪くないと言う。
解決策を提示しても「それは難しい」ばかりを連呼して抵抗し、反発する。
自分に都合の悪いことはすべてスルーする。自分の欠点や問題は見ないふり。
必要であればあるほど拒まれるものがある。それは忠告だ。
それを余計に必要とする人すなわち無智な人々から嫌がられる。
by レオナルド・ダ・ヴィンチ
自己愛性人間の特徴として、時間や約束、人間関係にルーズであるというのがあります。併せて被害者意識の強さ、自己弁護力の高さ。
そしてコンプレックスを剥き出しにすると言う、一見して自己評価が低いように見せかけながら、実のところ「私を認めろ!」っていう気持ちが強いんです。そんな承認欲求。すべて甘えの構図です。
今の自分のままで愛されたい。受け入れられたい、甘えさせて欲しい。許して欲しい、認めて欲しい、評価して、尊重して欲しい、私のことを大切に扱って欲しい…
単純に言って、批判されたくないんですね。だから批判や批評にものすごく弱くて、否定されることに敏感で、何かというと「傷ついた」と大騒ぎする。他人の善意でさえ悪意に取る。でも努力は大嫌い。
誰だって欠点はあるし、完璧な人なんていやしないし、誰しもが成長途中で発展途上ではあるけれども…
如何せん許容する方にも、限界やキャパがあります。
過去の経験は今の姿と関係ありません
by シーザー・ミラン
私のサロンで行っているようなセッション、すなわち非科学的な角度から問題の考察を図り、アプローチを行っているようなところを訪れる上記のようなタイプの人(に限りませんが)の多くが、自分の問題を外部に求める傾向にあります。
問題の本質が、
・心霊的な現象なのか
・カルマ的な学びとして起きているのか
・過去生の記憶に由来する心理的外傷なのか
とかとか…原因を見つけて、知るべきを知って、根本の根を断ち切り、解決を図ることが、この手のアプローチ、テクニックの本来の目的なんですが。
ただ、自分以外の「何か」のせいにするために…
"心霊的現象"や"過去生"を言い訳や理由にしたいがために、
スピリチュアルなことに答えを求める人は減りません。
そういう自己愛の強い人には、スピリチュアルな知識も説明も、害悪にしか成り得ません。だってイイワケの材料にされちゃうだけですもの。
その人の人間的成長を阻害する知識以外の何物でもなく、中二病的な妄想を誘発して現実逃避させるだけで、何の解決にもなりません。
エゴイズムを増長させるだけです。
(こういう場合、過去生も心霊的現象も冤罪の対象か!)
そんな人をたくさん見てきました。
今のその人が現していることがすべてで、その人が「いま」どんな人間であるかだけがすべてなのに、それがすべてを物語っているのに…
目に見えない事象のせいにすんな! と、私は言いたい。
一言でいえば、「性格」なんですよ。すべては…
過去生に起きた出来事だって、性格の問題や考えの誤りや思い違いや、選択ミスやら人間性の欠如の問題が発端となって、起きたことなんだから。
今の性格の問題さえ修正すれば、それで解決することなんです。
今の自分の考え方、思い癖、生きる上での姿勢とかとか…大体その歪みが
人生の歪みとして表れているだけなんだから。
今生での日々を真摯に生き、人として成長して生きさえすれば、過去なんて知る必要は無いです。
まあ、過去生を知る意味が無いってこともないですけど…
理由の解らない感情的反応で苦しむ人にとっては、その感情的反応の由来を知ることは意味があるし、有益なことだから。そういう意味ではお役に立てていることもたくさんあります。
て、言いますか本来そのために、スピリチュアルなテクニックのアプローチがあるんです。
決して、己が責任の所在を…"見えない存在"や"心霊現象"や"過去の人生の出来事"や"過去生の自分"や自分以外の誰か、に…押し付けるために、非科学的な知識や真理、心霊的な施療や過去生セラピーやあるわけじゃない。
心霊的な知識もヒーリングもリーディングも全部、そんなことのためにあるわけじゃないんです。
自分以外のところに原因を求めたい人にとって、眼には見えない事象、非科学的な要因に問題解決というよりは、単なる責任の押し付けだけをしたい人には…
過去生や心霊現象のせいにすんな!! すべてはその性格だ! あなたこそが原因だ! 問題の核そのものなんだ!
…と言いたい。 と、言うわけで新宿区のはしっこで叫んでみました。
ええ、たいていのカルマのレッスン(人生の学び)は、「今」起きていること、現在に起きているトラブルに真摯に向き合うだけでそれだけで乗り越えられますのよ。自分の内側にある問題を内省して見つめれば。
外側の事象は、内在している問題を投影されたものであって、痛みを与えてくれる人物は、その人の欠点や問題点を人象化してディフォルメされたキャラクターであり、その役柄を自分に対して演じてくれることで、そのことから相手が受ける痛みを教えてくれてるだけだから。
うん。人は自分以上の人に出会うことは出来ないし、自分の頭で考え、思い描いたこと以外の現実には出会えない。
痛みを与えてくれる人は「過去の自分」であり、今、自分が感じている「痛み」は、まさに自分が過去に誰かに与えた「痛み」そのものだから。
過去の自分であり内在している、自分の問題を表している人物と出逢っているだけだから…
そして、人は自分が与えたものしか与えられることはなく、得ることも出来ない。いま自分が受け取っているものは、痛みも悦びも含めて、すべて他人に与えてきた「感情」だから。与えないことには何も得られない。
私達は蒔いた種に日々出合っているだけなのだから。
我が身の臭さ知ることなし
「どうしていつも自分が他人から嫌われてしまうのかその理由が解らない」
という人がいた。
学生時代も、就職して社会人になってからも、毎度浮いた存在となり、親しい友人すら出来ない。結果として転職を重ねることとなり、人間関係の軋轢は様々なストレスを生じさせることになる。
言葉で説明されて理解することができる人ならば、問題はもっと早くに解決出来ていただろう。
人に嫌われる理由は、呪いや祟りでも無く、霊のせいでも無く、過去生の出来事に起因するものでも無い。
しかし、過去生が関係していないと言えばウソになる。過去の幾度かの人生においても、人生で遭遇した出来事や人間関係の問題や軋轢から何も学習せず、人間性が「何も変わっていない」「成長していない」ことが原因なのだから。
人は簡単に変われるものでは無い。経験して痛い思いをして、自分で学んで、心を改めて、変わろうと努力しないでは、その成果は人生において結実することは無い。
当人が自分をどう表現しているのか…他人に対してどのようにふるまっているのか…心根というもの、それは表情やふるまい、ちょっとした言動や行動に簡単に現れる。
そうしたふるまいとか、こういう時にこのように発言したり、こんな態度が原因ですよと…当方に来た時点でそれを示唆するような、決定的な出来事が起こるから、他の人がそれまでその人に対して感じて、故にその人に対して視線が冷たくなっていったり、態度が変わっていく様を…そのタイミングで「ここです、これですよ」「こうされると他人はこう思うんですよ」と…
実地で示しても、そこに結び付けることは無く。
トップの質問にこのような、他人が引いてしまう行動を取っていることなど
指摘したとしても、「傷つけて酷い」みたいな態度では…
「周囲から嫌われしまう自分」を改善しようとしているでは無く、
「私を嫌っていじめる人たちは酷い」と…結局、自分の内に原因があることは認めず、外に原因を求めてその答えが得られないことに、不満を示して、アドバイスを聞かないでは、大金を払ってスピリチュアルなサービスを受けても元より意味の無いこと。
言葉で指摘しても解らないのならば、態度で示すしか無くて…でも態度で示してもあれこれ生意気な講釈で、逆切れして、こちらを批判して、とても人に物を訪ねたり教えを乞う態度では無く…
そうなると、これは本当に「経験」するしかないことだ。
上手くいかない人生の逆境と逆風の中で、その性格を他者に嫌われるという痛みをとことん味わって…その心根や自分が表していることのせいで、自分の人生が貧しくなっていることを思い知らされて、それがどれほど自分にとって不快でイヤな状況であるのか…
「もうこんな人生イヤだ、勘弁して下さい!」って、とことん追い詰められて、自分に愛想が尽きて、あるいは心からこんな人生を、自分を、何とかしたいって切望するまで。たぶん…今の状況は続くんだろう。
そういう人に手を貸すことは出来ない。手を貸しても何も変わらないだろう。これ以上、他人に出来ることは何も無い。
知識を教えることは出来るし、行動の指針やアドバイスを与えることは出来る。だけど心は、心だけはどうにもならない。心を成長させることが出来るのは、当人だけ。その人がその人なりに耕すしかない。
心の成長には時間が必要で、他人への愛情や思いやり、優しさや気遣いを表現し、それを行動出来る人になるためには、経験が必要になる。
私が他人を変えることは出来ない。
自分を変えることが出来るのはその人自身だけだ。
性格の悪い癖を改める手伝いは出来るが、当人が客観的に自覚して直したいと、真摯に取り組みたいとの切望あってこそ。
「私は悪くない」と、何処かまだ「他人」のせいにするところがあるうちは
状況は何も変わりはしない。
その人自身が変わらなければ、人生も周囲も何も変わることは無いので。
そんな風に「変わりたい」と口にしながら、周囲や状況が変わってくれることを期待している人は、本当に多いです。根っこのところでは変わりたくないというか、実のところ自分自身が変わることは望んでないんですね。
レイキ(アチューンメント)を受ければ…腕の良いヒーラーのもとでヒーリングを受ければ良くなるだろう…パワースポットに行って良い氣を浴びて、神様のお力を借りれば状況は改善されるはず…
いやさ、それで人の「性格」は変わりません。
性格が人生の現象(現実世界)を創っていますからね。思考の改革や内省の伴わない他力本願な行動では、現実は何も変わっていかないのです。
欠点は誰にでもあって然り、知らないこともたくさんあるのは仕方無い。
他人に指摘されても、長年の習慣や口癖や行動を変えるのは難しいこと。
でも、身に着けようと努力することは誰にだって出来る。真摯に自分と向き合い、謙虚に他人の言葉に耳を傾けて、感謝を口にして必死になっていれば
、それを助ける用意は周囲にも出来ているから。
でも…そうで無い人に他人は厳しい。
厳しいというより、そこまでする価値が無いと判断したら、誰だって、それ以上は手を貸しません。目に見えない存在であってもそうです。
本人にその意志が無いのに、他人がどうこう出来る問題では無いのです。
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