ゆめを装う

一泊二日の休暇を許されたカナは、その日、地上へ降りた。翼のないヒトと同じ姿に化け、固い地面を歩く。ヒトの暮らしを知る者から事前に色々訊いて、知識だけはあるけれど、カナ自身がヒトの街へ来るのは今回が生まれて初めてだ。物の売り買いをする“店”が建ち並ぶ、賑やかな通り。空の国には無い物ばかりで、好奇心が掻き立てられる。ここは、女性用の服を扱う店だろうか。小ぢんまりとしたその店の、通りに面した窓際に、様々な色や形の服が展示されている。とりわけ彼女の目を引いたのは、淡い桜色の一着。「美しい……」

花をかたどった飾りが右腕の袖から胸元へたくさん縫い付けられた、繊細かつ華やかな意匠。腕まで覆う長手袋は、その両端に珠を連ねてあり、細部まで凝っている。

往来で立ち止まって見惚れていたら、ズボンと上着をきりっと着こなした若い女性店員が出てきてカナを手招いた。

「こちらは、パーティー用のお召し物です。ご試着されませんか」

見ていただけで、金品を持っておらず何一つ購入できないことを伝えても、その店員はにこやかにカナを試着室へ誘った。

パーティーとは、上流階級の者たちが華やかな衣装を纏って一堂に会し、交流を深める集まりだと聞いた。また、結婚式や様々な祝い事でもパーティーは開かれるらしい。

そんな特別な時に着る服を、試しに着てみることができるなんて。カナはわくわくしてその服を手にとった。広がる裾や繊細な飾りに注意を払いつつ、そっと身に着ける。胸元は緩いのに腰周りにはゆとりがなく、自分の体型がちょっと気恥ずかしい。それでも、鏡に映る己の姿は、いつもの質素な装いとは真逆の、なかなかの美人だ。足元に差出された、踵の高いほっそりした靴に足を入れる。良かった、足の寸法はちょうど良い。

「それから、こちらもお手にどうぞ」

布地をふんだんに使って細やかな襞を作った小物は、確か扇と呼ぶもの。身を飾るために手に何か持つなど、空の暮らしでは考えられないが、これがまた、己の立ち姿に一層の品を添えた。

「とてもお似合いですよ、お嬢様」

自分には相応しくない装いと思えば思うほど、この服を優雅に着こなし、お嬢様などと恭しく呼ばれる己を想像してしまう。

「お店の中でしたら、ご自由にお歩きになって構いませんよ」

慣れない靴に半ばよろけながら足を踏み出すたびに、ふわりと軽やかに広がるドレスの裾が、肌に触れてくすぐったい。そんなことすら、カナには楽しく思えた。

ドレスの裾を大胆に捌いて店内を歩き回るうち、ふと鏡を見たカナは、はっとした。

違う。歩く姿がみっともない。

よりこの服に相応しくなろうと背筋が伸びる。歩幅も小さくした。

この服を着ているだけで、自分の立ち居振る舞いまで変わる。

小股でしずしずと進むカナの手を、店員が優しく取って一緒に歩いてくれた。

服に見合う所作を頑張れば、こんな自分でも丁重に扱ってもらえる。

それに応えようと、ますます動きに気を遣う。

そんな自分の姿は、誰の目にも立派な貴族の娘に映るだろうと分かる。

普段とはあまりにかけ離れた己の淑やかさに、カナは急に可笑しくなった。


「自分の身相応の物を着て、振る舞い、卒なく過ごしてきたつもりでした。でも、この服を着て、自分を顧みたとき、……服に相応しい自分になりたいと思いました」

そして、そんな自分を誰かが大事にしてくれれば、人はまた、一層輝けるのですね。

己の服に着替えて、そう言って微笑むカナに、店員は優しく笑みを返して語った。

「この服は、私が作りました。将来の自分の結婚式で着る服の一着のつもりで、背伸びして、華やかな意匠にし、いい生地を使いました。……秘かに想いを寄せていた人から思いがけなく求婚されて、私は浮かれていました。でも出来上がったこれを見て、私にはもったいないと彼は言い、無駄遣いだとも言いました。それでも私は、この服を着こなせるようにと、日々過ごしていました」

カナにとっても、自分の殻を破り、素敵な女性になろうと思わせてくれたドレスなのに。自分一人が外見や振る舞いを良くしようと頑張ったところで、周りがそれを認めず、

尊重して扱わなければ、その努力は時に虚しいものになるのだ。

「その御方とは、今は……」

問えば、店員は恥ずかしげに答えた。

「……婚約の話を頂いて半年ほどが経った頃でしょうか、この店を、先代から継ぐか畳むかで私が悩み、病を得てしまいました。彼のための礼服を仕立てて贈り、しばらく距離を置きたいと私から申し出ました。彼は、礼服を受け取ってくれ、病んだ私を慰めもしてくれましたが、それからは、私がこの店の進退に注力し、常連さんとの関係を築くのに必死になるあまり、彼とは疎遠に」

この店は、彼女が自分で服を仕立てて売っているのか。店内を見渡せば、ここで扱っている服は、何通りかの限られた型を元に縫製しているのだと、服に詳しくないカナにも推測できた。飾りや布地を変えたり、小物の種類を増やしたりして、変化をつけているようだ。一人で店を切り盛りするための工夫だろう。

店員の話は続いた。

「書簡のやり取りは……こちらから送れば何通かに一度は返事も頂けておりましたので……まだ婚約は白紙ではないと思いこんでいた私が愚かでした。このドレスの話を振っても返事が来ず、また彼が他の女性と親密なのも人づてに知っていながら……。彼は、とうとう、恋人と式を挙げました。自分の節目の誕生日に……昨日のことです」

驚きで言葉の出ないカナに、からりと笑って、彼女は続けた。

「彼の中では、私が彼に礼服を贈り、距離を置くことを告げた時に、結婚の話も無かったことになったのでしょう。気づかず待ち侘びて約二年。私の愚かさ故の顛末です」

そして、くだんのドレスを畳んで差し出してきた。

「お代は要りません。貰って下さい。この服を着て、今以上に素敵な女性になろうとして下さった素敵な貴女のもとに嫁げれば、この服も本望です」

その笑顔が、カナには辛かった。

求婚されてから二年近く。何年後に挙式するという確約をせず、また、破談になったという明らかな取り交わしもない中で、この若い女性は、来たるべき日に備えてきたのだ。楽しみに焦がれて待ちぼうけた彼女を笑うことはできない。男のほうも、彼女の申し出を受け、破局したと思ったであろうから、こちらを責めることもできない。互いに若く、それぞれに重きを置く人間関係があり、多忙の身でのすれ違いが招いた結果であると、カナはそう理解した。

「では、貴女は、一度も袖を通されていないのですか?」

カナは訊ねた。肯く店員に、カナは強引にそれを着せた。

「貴女のための服でしょう。貴女がこれを着て、自信を持って」

試着室から出てきた彼女は、さっきまでの店員とはまるで別人だった。

凛々しい装いから一転して、晴れの姿。それはカナが着た時とも違う美しさだった。

言葉なく見惚れるカナの視線に照れたように笑い、彼女は、さっさと着替えて元の姿に戻ってしまった。

「彼の真意を問う勇気もなく、……この服を表通りに面して飾り続けることしかできなかった自分の弱さと狡さもまた、お恥ずかしいことで」

と言いつつ、店員はその服を、自分が袖を通してしまったので一度洗濯すると言った。そして、カナに合わせて寸法も直してくれると。

「いいえ、頂けるのなら、寸法はそのままで。私も、服に合う自分になりたいので」

言い張るカナに店員は笑って頷き、

「軽やかに着たいときは、このリボンを腰に巻いて、少し裾を持ち上げてみてください。靴はこちらと合わせて。……あと、この薔薇のブローチで胸元にタックを寄せて留めると動きやすいですよ」

ずっと背伸びし続けるのも疲れちゃいますから。と彼女は言った。


翌日、カナは再びその店を訪れた。ドレスの飾られていた窓辺には、等身大の人形が、若草色のベストと象牙色のズボンのお洒落な服をまとって立っていた。ベストの肩口には金糸の房飾りが揺れている。カナの私服の型を参考に、カナの瞳の翠色と髪の金色を配したのだと分かる。

扉に、今月末を以て閉店する旨の貼り紙がしてあるのを見ぬふりで、カナは店に入った。「お待ちしておりました、カナ様」

店員は、菫色の包装紙にくるんだパーティドレスと様々な小物をカナに手渡してくれる。ドレスの代金にはほど遠いけれど、カナが自分の愛用の緑の髪留めを贈ったら、彼女はたいそう喜んだ。店員の栗色の髪にも、緑色がよく映えて美しかった。

「故郷の田舎に戻っても、たとえパーティーが無くても。このドレスを着て、私は自分を磨きたいと思います」

告げれば、店員は力強く肯いた。


 深々と、美しい姿勢でお辞儀をし、見送ってくれた彼女は、どうしているだろう。

空の国の自分の家で、今、カナはあのドレスをまとっている。手触りの良い上質な絹のドレス。その裾を床の絨毯に無造作に広げ、スカートの下で足をこっそり寛げている。姿勢は密かに崩しているけれど、そろえた手指が、それでもきっと上品さを醸し出す。

この服を着ている時ぐらい、仕草に心配りをしなくちゃね。と思うカナであった。

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