生きる意味なんてものに日本人が固執し始めたのは、戦後あたりからじゃないだろうか。 それまでの時代は生きることに精一杯で意味を考える余裕など無かったんじゃないか。と思うのは、まさに生きるのに精一杯な人々を田舎で目にして育ったからだ。 血のつながりで決められたコミュニティの中、それぞれの役目をこなして生活を成り立たせる。 男は稼ぐ、女は後継を産む、育てる、家族の食事を用意する、家族の服を用意する、家を整え家族の身の回りの世話をする、子ども達は暮らしの手伝いをする。魚を釣り海
ある日の図書館で偶然その本と出会った。 新入荷の本コーナーに並んでいたその本は、 「わたしがいどんだ戦い 1939年」 見るからに児童書(後日、高校生向け課題図書だと知った)。草原の中に一人佇む青い服の少女が表紙で、なんとなくナウシカに似ていた。 少女の両側に描かれているのは馬と、軍用機と思われる飛行機。 自然と人工物。昔と今の移動手段。生命と生命を奪う物。 真逆を象徴するようなそれらが並んでいるのにも興味が湧いて、何となくその本を借りた。 『わたしがいどんだ戦い 193
小学3年生くらいの頃、将来就きたい職業は婦警さんだった。 当時祖父に、今度学校の授業で将来なりたい職業の発表がある、『婦警さん』と発表しようと思っていると話した。すると、 「警察はいかん、あいつらはただの操り人形だ。検事にしろ。検察官になりたいと言え」 と、数日後には『検察官になるには』という本を与えられて、目指す学部は法学部、と一方的に決められた。 以降それ以外認められなかった。 授業でも検察官になりたいと発表した。自分で発表しながら、これは誰のなりたい職業なんだ
小学校高学年の頃、掃除の前に机の上に椅子が上げられていない生徒は教室外に机を出されるルールがあった。 うっかりして椅子を上げ忘れた生徒たちは皆、教室の外に出された自分の机に気付いて、焦って担任の教師に頭を下げた。 「椅子を上げ忘れてしまいました。すみませんでした。これからは気をつけるので、教室の中に戻してください」 それが教室の中に戻るための呪文のように繰り返される日々だった。 ある日、私もやらかした。椅子を上げ忘れて教室の外に机を出されたのだ。 やらかしたが、実は
エカチェリーナ2世をご存知だろうか。 私が彼女と出会ったのは高校3年の冬。 大学入試センター試験と遠方の大学の二次試験の前期を終えた頃だった。 ■ロシアに運命を委ねる 英語は得意じゃなかった。 センター試験後の自己採点の結果、英語の点数がたまたま良かったため第一志望の総合大学を諦め、第二志望の外国語大学に願書を提出した。 志望していたそれらの大学で何がしたかった訳でもなく、私の一番の目的は大学進学と言う合法的で一般的な方法で、故郷から、実家から逃げることだった。当時のその
去年の年末あたりから時々考える。 寄り添うって何だろう。 相手に寄り添ってるつもりで自分中心に物事を考えてたり自分の身勝手な意見や気持ちを押し付けたり、寄り添ってるつもりの言葉で相手を傷つけたり。 寄り添うって難しい。 2歳の子どもが初めて胃腸炎になってしまった時の事。 元来テンパリストな私は平常通りアワアワした。 というのも私は、体力筋力は貧弱だし風邪はしょっちゅうひいて気管支系は弱かったが他は人並み以上に丈夫な子どもだったので、嘔吐や発熱や腹痛で悩まされた事がほとんどな
大学生(多分一年生)の時、足の親指の横(靴に接する部分)に謎の茶色い痣ができた。 放置してると、どんどん大きくなり盛り上がり、痛みも出てきた。直径約1cmの丸いデキモノ。表面はガサガサ。なんというか、形がイソギンチャクみたいでおぞましい。 これは何だろう…まさか悪性のデキモノ…? と、不安に駆られながら皮膚科に行った所、おばあちゃん先生がやんわりと 「イボですねぇ」 と言った。 イボ!?と言うとおじいちゃんおばあちゃんが悩まされるアレでしょうか… とショックを受
※ネタバレが嫌な方は読まないでください。 フルーツバスケットanother、読み終わりましたー! 彩葉ちゃんを最初に見たときは、透くんに似た雰囲気の女の子だなぁと思ったけど…… 元ヤンでも優しくて子ども思いなお母さん(今日子さん)に恵まれた透くんに比べると、彩葉ちゃんは同じ母子家庭でもその頼みのお母さんが厄介な、今で言う「毒親」だから……対称的といえば対称的。 透くんは今日子さん仕込みの包容力に溢れた言葉がポンポン出てくる奇跡の人でしたが、その点、彩葉ちゃんはそうではない