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Monochrome Diary 2024.3.11~2024.3.16

2024.3.11

東日本大震災から13年が経った。当時のことを毎年思い出すけれど、状況を飲み込む余裕もないまま時間が過ぎていった。少しの揺れを感じた後、「まぁいつものちょっとした地震だろう」とたかをくくっていると、全くおさまらないどころか徐々に大きくなるのが分かった。身の危険を感じ、避難訓練の成果なのか、部屋にあった学習机の下に潜り込んだ。窓の外の揺れる景色と轟々と聞こえる地響きで感じたことのない恐怖が襲った。ようやく揺れがおさまった後、部屋は見たこともないほど散乱していて、電気も止まり何が起こったのか情報を得る手段もなく、ただじっと、日が暮れて暗くなっていくのを見ているだけだった。人生でもっとも怖い経験だったが、またいつ災害が起こるかわからない。今年の元日にも震災が起こった。できることは、最大限の備えをしていくことだ。


 2024.3.12

「熱のあとに」を見る。愛は見えず不明瞭だ。幸福を与えるのと並行して少しずつ人を蝕んでいく。美しく絶対的な善であるはずの愛の奥を覗くと目を背けたくなるほど醜くくなる。一言に「愛」と言っても、僕たち人間が感じる愛は、古代ギリシャで8つに分類されたようにさまざまな形がある。肉欲愛であっても友人愛であっても家族愛であっても、普通、人はその愛情がどんなものなのかは考えない。ただ、愛おしくて大切に思う感情だ。その温かな感情のままが続けばいい。それなのに、その形の見えない愛というものを求め模索する中で、人は崩れていく。

作品としては…
ホストがなぜそこまで愛されるのか不明だし、早苗は人から受ける愛情を割り切れない中で周囲を巻き込むだけ巻き込んで自己解決するし。
学生の頃、文学研究の教授が「物語上で死は全てを解き放ってしまう。問題の帰結としてはとてもわかりやすい方法だけど、積み上げた物語を投げ捨ててしまう可能性があるので、ラストに死の描写を持ち出すのは余程でない限り好ましくない。」と言っていたことを覚えている。その考えからすれば、悩み抜いた小泉や足立が死へと向かうような流れはあまり好きではない。恋も愛も盲目、目の前を閉ざしてしまうということか。
60秒間見つめ合った先でさえも、永遠に不変な愛はない。


2024.3.13

「市子」を見る。社会的に人として生きていくことができない市子の人生は、幸せな道を選ぶことができない。せっかく手に入れた幸せもすぐに手放さなければならない。子供の頃からそうやって生きてきた市子はもはやその生き方を受け入れてしまっている。恋人長谷川は、市子の人生を知っていき受け入れようとするが、市子にとってはただもう逃げて捨てた生活として区切りがついているのではないか。市子は過去を知る同級生と背格好が似た女性を自分の手引きで殺し、その女性になり変わって生きていく。それはここまでの父や月子を殺した動機とはまた方向性が変わってくる。感情の昂りの末の事故や同級生の身勝手なヒーロー気取りでの幇助や精神的疲弊で行き詰まって起こしたこれまでの事件とは一線を解す。明らかに画策して事を起こしたことで、市子はまた違う段階の暗く隠れた人生を生きなければならなくなる。それさえも、誰として生きることも定まらない市子にとっては、ただ死なないための手段であるだけだろう。


2024.3.14

「Perfect Days」を見る。決して裕福ではなく、周りから見ればみすぼらしいような生活。仕事は、都内の公共トイレ掃除。決まったルーティンで毎日を過ごし、大きく感情が揺れ動くことはない。平凡で、平坦な生活が、とても素晴らしい日々だと思える。冒頭から主人公の1日を見る。主人公は無口で全く喋らず、ただ1日朝から眠るまでの流れを数十分見ることになる。セリフや大きな展開があるわけでもなく、ただ1日が過ぎるのを見る。それでも見続けられる、いや、あと何回か同じ1日を見続けられると思えたのは、一つ一つの動作が丁寧でその生活こそが最上なのだと心から思えている主人公の様子が見て取れ、派手ではないのに羨ましさをも感じさせる緩やかな幸福感が感じられるからだと思う。鑑賞中、この1日の流れのシーンを見ながらそんなことを考えてしまうのは、この無言で所作だけで伝えてくる役所広司の演技が細部まで主人公平山自身になっているのだと気づき、感嘆した。安定した毎日は、些細な変化で揺れ動いていく。同じように暮らしていても、一瞬一瞬で姿を変え、気づいた頃には違う形へと変化していく。最後にこの映画の象徴的に「木漏れ日」が出てくる。この後も、ゆったりと同じような毎日を暮らす平山も、この映画を見た後の自分も、変化をして同じ形には戻らない木漏れ日のように生きていくと思うと、少し物悲しさとほんのりとした幸福感があった。ここ数年で一番よかった映画かもしれない。


2024.3.15

昨日まで、三日連続で映画館で映画を見たので、「映画館で映画を見たい欲」は満たされた。3本とも違う映画館で見たので、それぞれの場所の特性が分かってそれも面白かった。古い映画館は、スクリーンが少し小さく感じる。少し画質が荒っぽい。音が正面からしか来ないから、車の中ので話しているシーンが、環境音と声が混ざって少し聞き取りづらい。派手なアクションヒーロー映画なんかを見たら、迫力に欠ける。けれど、ヒューマンドキュメンタリーなどゆったり見る作品は、その古さも相まって独特な味が出ると思えた。最新の映画館は、やはり画質はいいし、何より、音声が四方から聞こえる。前日に古い映画館で見たせいか、今まで普通だと思っていた音の聞こえ方が、すごく臨場感を出していることがわかった。今日も家で、何か見ようと思った。けど、パソコンの画面で見るのはすごく物足りない。いい点と思えるのは、映画論の本を読んで画角やシーンの意味を考えるようになって、一時停止をしながらその作用を探ることができることや、いろんな作品を好きな時に見れることだ。だけど、映画館でリバイバル上映をしている時は、やっぱり映画館で見たい。


2024.3.16

あれやこれやとLogicをいじって、曲を作ってみる。たまに、創作意欲が出ることがある。かといって、絵をかけるわけでもなく、小説を作る根気もない。唯一、グッと集中して遊びながら作った気になれるのが音楽だ。クリエイティブな面が感じられる作品を見つけると自分も何かやってみたいと思う。例えば、「映像研には手を出すな!」はまさにアニメーション制作の話だからわかりやすく影響を受ける。最近、ELDEN RINGやBloodborneに関わる方の「ハイファンタジー物語画集」を買ったが、それを読むと一つ一つのキャラクターデザインの細かさやストーリーと合わせた緻密な設定からこだわりが見えて心が震える。自分でなにか一つでも、作り上げられたらなぁ。


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