言葉のリスク

おはようございます。りおんです。

今日の本題「言葉」について。



一概にしんどいと言ってもいろいろなしんどさがあると思います。私の場合、推しが尊いときもしんどい、精神的に不安定であろうときもしんどい、など、真逆の意味でも使えてしまう、汎用性がとても高い言葉です。



日本語は曖昧な言語だと私は思います。人の解釈によってその言葉の意味自体が変わってきてしまう。


そして変わったそれを容易に受け入れてしまう社会がある。辞書にすら、特に指摘することなく、「近年では〜のように使われることもある」などと書いてあります。ここに私は少し違和感を感じます。



確かに使う人が変われば言葉の意味は変わります。この長い歴史の中で意味が二転三転した言葉もあるでしょう。......そもそもこう思ってしまうこと自体、今まで私が受けてきた教育の賜物であり、まずはここから疑うべきなのです。


変わってきたことを受け入れる、受動的な姿勢。時にそれは重宝される能力でしょう。しかし言葉の本当の意味を理解するためには邪魔でしかありません。


言葉を受け取る人にどう思ってもらいたいか、その一点で会話は成り立ちます。どう自分の気持ちを表現するか考えることももちろん大切ですが、自分の気持ちを表現できても相手が正しく受け取ることができなければ意味がありません。


だから相手を思いやることが大事だと教わるのです。どんな学問よりも先に、小学校1年生から道徳の授業でいち早く矯正をはかるのです。

語彙力がないと伝え切れない感情でも相手を思い伝える努力から相手は自然に受け取ってくれます。なろうと思えば理性によって自ら感情的になることができるのは人間の強みです。




正しい使い方をずっとしろなんてことは言いません。ただ最近の言葉は、本来ならば使われない部分に使われ過ぎています。そんな人たちがやれ日本の文化だの、それ伝統を守るだの良く言えるなと思います。




汎用性の拡がりすぎた言葉に対する違和感や不信感を全く持たずに使い続けることは良くないことなんですよね。危機感を持たずに今出かける人と同じです。解除されたのだから遊びに出ても良い、全くその通りです。何の問題もありません。


でも危機感は持ってください。


いつ自分が加害者になるのか、今この世界がどういう状況に置かれているのか、自分で考えることをやめてはいけないのです。



言葉も同じです。自分が本来とは違う意味で使っている自覚だけは持っていた方がいいと思います。使い勝手の良い言葉だけが全てではないです。その中身が見られるべきなのです。



そんなことを思いながら推しを眺めて尊み成分で幸せなしんどさを得ている月曜日の朝です。ではまたそのうち、どこかで。

ばいちゃ。

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