【第6回】情報リテラシー論【レポート】
こんにちは、ひだまりです。
私は今週末ちょこっと帰省しているのですが、実家に3匹のお猫様がいるので、久しぶりに吸えるのが楽しみです。
前回の振り返り
前回はスマホの持ち方と依存症の関係について考察しました。日本人独自の持ち方がある理由についても考えてみたので、気になった方はぜひこちらも読んでいただけると嬉しいです。
また、情報リテラシー論の授業を担当してくださっている横田秀珠先生のブログはこちらからご覧いただけます。こちらもよければ是非。
本題
キュレーションとは
今回のテーマは「キュレーションが必要な訳について」でした。
キュレーションの意味は以下の説明を参考にしていただければ概ね理解できるかと思います。
今日のインターネットは情報で溢れかえっており、求める情報を1から探すことがほぼ不可能になった現代において、キュレーションは必要不可欠なものであるというのが主な内容でした。
キュレーションという考え方はアナログの時代から存在しており、本来あるテーマに沿って行われる展覧会のために美術品などを集めることを指しています。
私たちの身近に存在するキュレーション
AIの時代がきたインターネットの上では、おそらく息をするようにキュレーションがなされていると感じます。
例えば、私は普段常用しているGoogleアカウントで検索をしようとすると、検索タブの下に明らかに自分の好みでまとめられたニュースが出てきます。
また、SNSであるX(旧Twitter)やInstagram、Youtubeなどを開いてみても、最初に表示されるのは興味のありそうな内容が並んだおすすめ欄であり、キュレーションが身近に存在していることはすぐに実感できます。横田先生曰く、SNS上でキュレーションが用いられたのはFacebookのいいねランクが始まりであり、先に短文ブログを生み出したTwitterとの機能の差別化が目的だったようです。
そうすると必然的に周りは”必要な情報”で固められていき、逆に”必要だと感じたことのない情報”はどんどん埋もれていくようになりますよね。
結果、私達たちが見ているインターネットの世界が人によってまるで別物であることは想像に難くありません。
キュレーションと各個人の思想が強められて閉鎖的になっていく可能性について気になり調べていたところ、こちらの記事を見つけました。
この記事では、情報のキュレーション自体はいいことだが、そのプロセスをユーザー側が把握できるようにすることや、ユーザー自身がキュレーションを選択して利用できるようにすることが大事だと述べられていました。
”公平”なメデイア?
また、同記事内で紹介されたTheirTubeでは、米国における「保守的」「リベラル」「プレッパー」「地球温暖化否定論者」「陰謀論者」「フルータリアン」の6種類のペルソナに対して、YouTubeがどのような動画を表示しているか体験できるようになっているそうです。
私も試しに3人ほど見比べてみましたが、確かにそれぞれ全く別の動画がおすすめ表示されており、どれも私自身は普段見ない系統のものばかりが挙げられていました。
もしこの先キュレーションの精度が上がっていったとして、それを公平と呼べるかどうかは別問題です。しかし、このキュレーションのパターンをもっと多くの人々から抽出し、それらをユーザーが選択的に利用できるようになれば、他の人が見ている世界を実質的に体験できるようになり、メディアとしての公平性が担保されやすくなるのではないでしょうか。
もしかすると、全く知らない分野の理解を進めたいときや普段の個人の趣味から離れたいときにも有用かもしれません。
ただ、もしもこのキュレーションが各個人間で共有・交換・体験できるようになったとしたら、それはなかなかにゾッとする話ですよね。もちろんプライバシーポリシーなどで守られているのでそこまで実現してしまう可能性は限りなく低いでしょうが、少なくとも私は抵抗がある派です。無意識のうちに選択していた意見や世界観が誰かのもとへ流出するのは結構怖いですね。
では、今回のレポートはこの辺で終わりたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
キュレーションというものが身近すぎる故か、案外疑問や知りたいことが浮かばず、考察するのが難しかったです。もう少し自分が普段使っている道具の内側も知らないといけませんね…。
P.S.つい先日こたつを出してしまったので、私はこの後テーブルから動けなくなりました。無念。
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