知床半島に行こう
「なあ、知床半島を観に行こう」
浩太がそう言ってきた瞬間、危うくそれはいいね、と言いそうになってしまった自分が悲しい。
「私たち、今どこにいるか知ってる?」
「うん。沖縄県は那覇市」
「知床半島って、どこにあるか知ってる?」
「北海道」
「北だね」
「北だな」
「遠くない?」
「まあ、なんとかなるだろ」
あまりに暑すぎる放課後の教室。知床半島辺りまで逃げたくなる気も、わからないではない。だがそれは、あくまで無茶苦茶な願望であり、例えば、お金が欲しいから三百億円が今すぐ降って来てくれないか、であるとか、そう言ったレベルの、無謀だ。今日が金曜日だとか、そう言う話ならまだしも、哀しいかな今日は月曜日。明日からまだしばらく、学校は続く。
「結局さ、奈津美は深く考えすぎなワケよ。いまどき、地球の裏側とリアルタイムにテレビ電話ができるんだからさ、俺たちが今から知床半島に言って、ホッキョクグマを見て、かき氷を食って、晩御飯までに帰る、なんてのはよっぽど簡単な話だろ」
浩太は、馬鹿なのだ。たとえ、一瞬で行き来ができたとしても、間違いなく知床半島にホッキョクグマはいない。
「じゃあ、行くぞ」
浩太はそう言うと、私の手を取り、教室を飛び出ようとする。私はふう、と息を吐くと、逆らわず、流れに身を任せる。実のところ、私も馬鹿なのだ。
「ところで奈津美、知床半島には、どうやったらいけるんだ?」
ふう、と息を吐く。私だって知っているわけがない。
「まあいいや、多分、電車で行けば、三時間もあれば十分だろう?」
そう言って、彼は駅に向かう。こういう時、いくつかの選択肢がありうるだろう。例えば、放っておいて自分は帰る、であるとか、沖縄には三時間も乗っていられる電車はないのだとか、そもそも電車では県外に出られないではないか、と諭す、であるとか、常識的なものだけでも二、三はあげられる。
しかし、私の取る選択肢は、黙ってついていく、だ。こんなことをしていられるのも、来年までなのだから、時間は有効に使わなくてはならない。
私たちは、那覇空港駅にたどり着く。そしてモノレールの一番高い切符を購入する。この切符で、知床半島まで行けるのだ。
三十分後、浩太は思い切り落胆していた。それはもう、落胆しすぎていて愉快で、危うく笑いそうになったほどだ。こんなところで笑ったら、きっと今度は爆発したように怒り出すに違いないから黙っておくのだが。
「なあ、知床半島って、というか、北海道って、結構遠いのかな」
「まあ、遠いね」
「飛行機か、飛行機に乗らないといけないのか?」
そう言って、彼はもう一度深いため息を吐いた後、切符売り場に向かう。そして、那覇空港駅までの切符を再び購入する。
「飛行機に乗れば、北海道位、すぐだもんな」
四十分後、今度は那覇空港で浩太は肩を落としていた。
「なあ、飛行機のチケットってのはこんなに高いのか? 俺、五千円位で行けるもんだと思ってたんだけど」
「私はあんたが十七年生きてこられたことが、不思議で仕方ない」
今回の冒険は、ここまでかな、と思う。さすがに浩太の馬鹿でも、航空チケットを購入することは出来ないだろう。世の中の仕組みは案外よくできていて、高校生二人の浅知恵や、港運や、馬鹿程度では沖縄から北海道へ向かう航空チケットが二枚手に入ることは、空から三百億円が降ってくるのと同じくらいありえないことなのだ、というか、空から三百億円降ってきたら、知床半島ぐらい、意外と簡単に行けそうだな、などと考える。
「今時の若者は、こんな時間から彼女と飛行機か、良いねえ」
ふと声を感じて振り返ると、老爺がこちらをみて笑っている。そういえば、もう六時をとうに回っている。仮に北海道に行けたとして、行って帰るだけで、晩飯は冷めきっているのではないだろうか。
「はあ、そのつもりだったんですけど、飛行機って、高いんですね」
なにがそのつもりだ。私は彼女じゃない。
「はっはっは、今時の若者は、飛行機の値段も知らないのか。なんだか、面白い奴だな。いいよ、二枚買ってあげるよ。すぐに出発する奴だから、急いだ方がいい」
そう言うと、老爺はチケット売り場に向かう。前言撤回。高校生二人分(あるいは一人かもしれない)の幸運で、チケットが手に入ってしまった。
「でも、晩御飯までには帰れないよ?」
私はそう浩太に耳打ちをする。浩太は言ったことは守る男だが、これは、言ったことと違うんじゃないだろうか。
「ううん、そっか、仕方ないな」
浩太は少し唸って、それから肩を落とし、最後のため息を吐いた。
「朝飯までに帰れば、母さん、怒らないかな」
知床半島は、思ったよりも、はるかに近くにあったらしい。