夏の日の思い出
「すべてのスリヴァー・クリーチャーは+1/+1の修整を受ける」
あれはたしか今日の様にひどく熱い夏の日だったと思う。十年以上昔、子供のころに道端で拾った一枚のカードのテキストは、たった二行でありながら、その奥に無限に広がる世界を感じさせるものであった。
スリヴァーとは何なのか、クリーチャーとは何なのか、+1/+1というのは一体何を意味するのか。少なくとも、両方がプラスなのだし、悪いことではない、むしろ、きっとすごいことのはずだ。
子供の頃の私が妄想の翼で旅立つのに、それは十分すぎるほどのものだった。
「スリヴァー・クリーチャー」という怪物のひしめく世界。イラストで描かれた凶悪な筋肉スリヴァーは、その王様なのだ。味方のスリヴァー・クリーチャー軍団の士気を高め、反逆者たちを逃さず捉え、頭からがぶりと食らいつく。何という恐ろしさか!
残念だったのは、小学生の時分には、スリヴァー・クリーチャーひしめく世界を描いたカードゲーム、Magic:the Gatheringをプレイするにはあまりに資金が足りなかったことだ。一か月に一度、たまったお小遣いを手に、近所のおもちゃ屋へ駆け込み、一番新しいパックを一つ購入し、まるで宝物かのように大事に鞄にしまうと、悪い大人に奪われたりしないように全力で家まで駆け帰ったものだった。
初めて購入した「テンペスト」というパックから出てきたのは、何ということか、筋肉スリヴァーであった。筋肉スリヴァーは王様なのだから、こんなものが二枚も手に入るなんて、運命に違いない、と無邪気に信じることができた。
Magic:the Gatheringは対戦型のトレーディングカードゲームである。なので、当然デッキを組んで、対戦をしなくては意味がない、はずなのだが、幼い私はただカードを集め、気に言ったカードを何枚か並べてはそれを並べ、物語を夢想するだけで十分だった。
結局、中学校に入る頃には妄想の翼が少しずつ小さくなってしまい、購入するのもやめてしまったように記憶している。
十五になる甥っ子が、Magic:the Gatheringをプレイしているということ聞いたのは、二、三か月前のことだった。夏休みを利用して彼が遊びに行くので、よければ相手をしてやってくれないか、と電話をかけてきたのは姉さんで、どうやら私が子供のころパックをたまに買っていたことを覚えていたらしい。十近く年の離れた姉は、大事なことは何でもすぐに忘れる癖に、下らないことばかり覚えているのだ。そして、よく言えば思い切りがよく、悪く言えば無考えに相手を巻き込む。私はまあ、考えとくよ、とあいまいに返事をして、それきり忘れてしまっていたのだったが、来週やってくるという段になって、ふとそのことを思い出したのだった。
おもちゃ屋に向かう。まさかね、とは思っていたのだが、子供のころに通っていたおもちゃ屋は未だに健在で、相も変わらずMagic:the Gatheringを取り扱っていたのだった。何の気なしに、置いてあるパックを手に取り、購入する。小学生のころ、あれほど宝の様に思われたそれは、今や昼食代にも及ばないものだとわかってしまい、少し寂しくなった。
基本セット2014と名付けられたそのパックをあけると、一番前に現れたのは、捕食スリヴァーなるカードだった。
スリヴァー! まだ生きていたのか、とどことなく感動を覚える。きっと、南極に戻った探検隊が、タロとジロを見つけた時はこんな気持ちだったに違いない、などと考える。
テキストを読んでみる。「あなたがコントロールするスリヴァー・クリーチャーは+1/+1の修正を受ける」
おいおい、これって、もしかして、と記憶をたどる。筋肉スリヴァーは、またしても私の前に現れたのだった。
ネットでざっと調べて、そう高価でもないデッキをくみ上げる。主役はもちろん、捕食スリヴァー。わが愛しの王、筋肉スリヴァーの、生まれ変わりだ(後で知ったことだが、筋肉スリヴァーはコモンと言われる、一番希少度の低いカードらしく、捕食スリヴァーもそうであった)。
甥っ子がやってくる。我が家のドアを乱暴にあけると、その子供は部屋に駆け込み、ああ、暑かった、暑かった、と喚く。
母さんは(甥っ子から見れば婆さんだ)、冷蔵庫からアイスキャンデーを一本取り出し、甥っ子に渡す。彼は、ありがとうの一言もなくそれをうまそうに頬張った。
母さんも、孫は特別可愛いのか、子供の頃の私たちがねだっても滅多にくれなかったアイスキャンデーを頼まれもしないうちから平気で渡すし、あげく、ジュースまで用意している。
突然ごちん、と音がして、彼は頭を押さえる。後ろから姉さんが拳を振り下ろした状態で彼を睨みつけている。
「雄太、挨拶をしろって何回も言ってるでしょ。ありがとうも、こんにちはも言えないの?」
そう言われた雄太は、半泣きの顔で一瞬姉さんを睨みつけると、照れくさそうな小さい声で、「ありがと」と呟いた。
アイスキャンデーを食べ終わると、私の方に向き直り、「ねえ、ごぼうさん、マジックできるって、ホント?」
また、ごちん。
「ごぼうさんじゃなくて、おじさんでしょ。ごめんね、隆弘」
そう言う姉さんは、そこまで申し訳なさそうでもないし、ごぼうさんは、私の自信がない風貌、細く骨ばった体、そのくせ浅黒い肌には妙に似合っていて嫌いな呼ばれ方というわけでもない。どちらかというと、三十路手前でおじさんの方が、何となく辛い。
「ああ、ちょっとだけ、ね。昔、ちょっとだけやっていたから」
少し見栄を張る。私は集めていただけで、やっていた、というわけではないからルールや勝手は何もわからないのだ。
「じゃあ、俺とやってよ。俺、結構強いよ。今度世界大会も出るしね」
「世界大会?」
「賞金総額千万円なんだぜ、すごいだろ?」
いまどき、たかがカードゲームにもそんなものがあるのか、と驚く。さすがアメリカの企業は何をするにも規模が違う、というべきだろうか。
「じゃあ、折角だし、やろうか」
そう言って私は立ち上がり、彼を私の部屋に招く。居間でやるよりも、少し落ち着いてできるだろう。
結論から言うと、雄太のデッキはプロプレイヤー(そんなものがいるのか、と再度驚いた。しかし、多額の賞金が出る大会が、世界中で頻繁に開かれるらしいことを考えると不思議はないのかもしれない)の使っているものと殆ど同じらしく、付け焼刃のスリヴァー・デッキでは手も足も出なかったし、何度もプレイミスを指摘され、そんなに真剣にやっていたわけでもないのに、赤面した。
「スリヴァーなんてさ、時代遅れだよ。昔は強かったらしいけどね」
後から調べたのだが、それはちょうど私が子供のころ、雄太が生まれるよりも、少し前の話だ。そうか、筋肉スリヴァー、お前、強かったのかあ。
「私が子供のころ、はじめて手に入れたのが、筋肉スリヴァーだったんだよ」
「へえ。そういえば、俺の初めてって、何だったっけなあ」
彼はそう言ってうんうんうなり始める。忘れちゃったや、と少し舌を出して笑った。
「ご飯だよ、降りておいで」
母さんの声が聞こえる。久しぶりに姉さんと昔の話なんかするのも悪くないかもしれないな、と思う。この暑さだ、きっとビールもうまいだろう。そして、雄太に色々と教えてやるのだ。時代遅れと言われたスリヴァーの、一番強かったあの頃のことなんかを。などと下らないことを思いながら目の前に広がったカードを静かに片づけた。