見出し画像

その支援は誰のため? って考える

今日も会議で一日支援現場にいなかったんですが、終業後に福祉業仲間といつも録ってるラジオの収録をしていたんです。


ネタバレになっちゃうかもなんだけど、そこで話した事をもう少し掘り下げたいと思ったのでこっちに書きます。
多分今日録ったラジオを聴いてから読むともう少し面白い記事になるかもしれません。



僕ら支援者は、「支援しなきゃいけないこと」と「支援の大義名分を使ってしてはいけないこと」の区別をきちんと出来ているんだろうか、ってことを考えておかないといけないよなぁ、と改めて思います。


ラジオでは表現として使うべきではないかな、と思ったので言わなかったんですが、もし僕らが「本人のため」という建前で実は自分達のリスクを回避したり、自分達の責任(他者に責められないために背負う)を完遂する事を「支援」の方に分け入れてしまうのって、誰よりも僕ら支援者が当事者を「障がい者」として扱っている事になってしまっているんではないかと思うんです。


もちろん賛否が分かれる感覚だとは思うんですが、それこそ成人になってひとり暮らしをしたいと思うなら、本当に「支援」としてサポートすべき事と、僕らが若い頃そうであったように、自分でやってみて初めて困る、みたいな経験を「人生経験」として奪ってはいけないものとを棲み分けて、変な言い方ですが「人としてぶち当たるべき壁はぶち当たらせてあげる」事が大事なんじゃないかと思うんです。



僕らが支援において『主語』にしないといけないのは自分達ではなくて、ご本人のはずです。


ひとり暮らしみたくおおがかりな話じゃなくても、例えば今まで自転車に乗れなかった方が訓練によって一応乗れるようになったとします。
でも「コケるかもしれない心配」はあります。


「コケるかもしれないから」の心配を本人が感じてるものなのか、実は周りがしている心配なのか、どちらの主語かによって今後の行動も支援も変わります。
僕らが自転車に乗れ始めた頃は、こけたり擦りむきながら乗り方をマスターしてたはずが、障がいがあると、それも「支援の対象」としてとらえて、こけたり擦りむいて上達する経験が得られない、みたいになるんですよね。



ラジオでもお話ししましたが、本人が経験を繰り返しながら「自己責任を背負えるようになる」ためのアプローチが僕にとっては支援なんです。


誰を主語にするのか
僕らはいつでも自問したほうがいいなぁ、と思いました。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?